序章 危急存亡
「右の手を」
「傷つけるな」
「もう一人を」
「探せ」
別々の男の口から、同じ声が聞こえた。
公国随一と称された自らの魔力が、エレノアの逃げ道を塞いでいた。
街道から伸びた光の鎖は、二人の追っ手を捕らえたあとも増え続けた。道端の木々にまで絡みつき、幹を軋ませ、土を押し割って、彼女の足元にまで亀裂を走らせている。
「もう、十分です。止まってください……!」
錫杖を握り直すたび、鎖はかえって太くなった。誰かを守るための力ほど、一人の手には余った。
背後の街道には、母の命で先に城を離れた民がいる。老人や子供を荷車に乗せた一行は、まだ坂の下を上りきれていない。この二人を近づけないために、エレノアは自ら足を止めた。
だが、ここでさらに魔力を流せば、追っ手だけでは済まない。足元を割った亀裂は、荷車の通る道へ伸びようとしていた。
鎖に縛られた男たちは、身なりだけなら逃散した兵か野盗にしか見えない。一人は長剣を持ち、もう一人は錆びた槍を構えていた。
だが、露出した手足には黒い紋様が浮かび、まったく同じ間隔で脈打っている。痛みに顔をしかめることも、逃れようともがくこともなく、二人はエレノアだけを見ていた。
エレノアは、錫杖を握る右手へ左手を重ねた。
手袋の下で、半円の印が冷たく脈打っている。もう半分は、幼なじみの騎士の左手にある。二人の追っ手が、なぜそのことまで知っているのかは分からなかった。
黒い紋様が鎖の光を呑み込み、長剣の男が拘束をほどいた腕を振った。男は剣を振り上げたが、狙いはエレノアの身体ではない。錫杖を弾き、右手を掴むための一撃だった。
新たな呪文を唱えようとして、声が詰まった。
魔力は、まだ余っている。二人を鎖ごと地へ縫い留めるほどの力も、たぶん出せる。
だがそれは、民の逃げ道まで壊す力だった。
後ずさった靴が、地面の亀裂に取られた。膝をついたエレノアへ、長剣の男が踏み込む。
金属のぶつかる鋭い音が、街道に響いた。
エレノアと男の間に、板金鎧姿の若者が立っていた。幼なじみの騎士、ナイリューである。彼は男の剣を受け流し、踏み込みざまに肩から体勢を崩した。
その瞬間、ナイリューの左手の手甲の下から、淡い銀の光が漏れた。エレノアの右手の半円も、応えるように熱を帯びる。
黒い紋様が、二人の男から一つの声を絞り出していた。
けれど、エレノアたちの印が伝えられるのは、危機のサインだけだ。ナイリューは、あくまで自分の意思でここへ来てくれた。そのことが、エレノアは嬉しかった。
だからこそ、別々の男から選ぶ意思まで奪う黒い紋様が、恐ろしかった。
男が道へ倒れると、槍を持つもう一人は、仲間を振り返ることもなく、木々の間へ姿を消した。
ナイリューが追おうとして、エレノアは首を振った。
「追わないでください。民を先に」
彼は一度だけ逃げた男の方角を見たあと、剣を構えたまま頷いた。
「エレ――いや、姫。術を収められますか」
「やっています。でも、力が……」
「急がなくていい。俺がついていますから」
エレノアは杖を両手で支え、呼吸を整えた。逃げた追っ手を見張ろうとするのをやめ、鎖へ流していた魔力を少しずつ絞っていく。何度か光が強まったが、やがて木々を締めつけていた鎖がほどけ、街道は静けさを取り戻した。
ナイリューが手を差し出した。つかまって立ち上がると、思っていた以上に膝が震えていた。
「お怪我は?」
「ありません。あなたが来てくださったので」
彼は外套を脱ぎ、エレノアの肩へ掛けた。鎧の継ぎ目に挟まった泥を見て、彼もここまで走ってきたのだと知った。
そこへ二頭の馬を引き、神官帽を被った青年が駆けつけた。ナイリューの親友である司祭ユージンだった。道に倒れた男を一瞥し、エレノアの前で足を止める。
「姫。城から逃れた兵に会いました。公王様が、戦死されたとのことです……」
エレノアは外套の端を握った。
「父上が……」
ユージンは目を伏せた。その仕草を見ても、父がもういないということを、すぐには受け入れられなかった。
母は娘たちを逃がすために残った。姉も、自分を先へ行かせたまま戻らない。兄はメースンで追っ手を食い止めている。そして今、父まで失ったと告げられた。
父の声は、まだ城のどこかで呼べば届くものだった。戦の前にも、何かあれば報せを寄越すようにと言われたばかりなのに……。
城の方角へ目を向けたが、木々に遮られ、何も見えない。戻りたいと思った。自分の目で確かめるまでは、信じずにいたかった。
けれど、父が亡くなれば、公国の次を誰が継ぐのかは王都が決めることになる。女性が公爵位を継いだ前例はない。父の家名を名乗ることさえ、これまでのようには許されないだろう。父の席に座りたいのではない。自分で、城に残された人々を迎えに行きたかった。そのための資格さえ、今の自分にはない。
今はただ、母から託され、自分だけができることをしなくてはならない。
街道の先には、母の命で先に城を離れた民がいる。あの人たちも、まだ父が城を守っていると思っているかもしれない。父がもう帰らないと知れば、足を止める者もいるだろう。どのように伝えればよいのかは分からなかった。それでも、追っ手より先にたどり着かなければならない。
エレノアは頬を拭い、ユージンから手綱を受け取った。
「先に逃れた民へ、合流します」
声が震えなかったことに、自分でも少し驚いた。
ここで立ち止まり、父を失った娘でいることはできる。けれど、父が守ろうとした人々まで追っ手へ渡すわけにはいかなかった。
ナイリューの手を借りて馬へ乗ると、木々の向こうにブラス山脈の頂が見えた。魔物の棲む険しい山道を、疲れ切った民に越えさせることはできない。母から託された、別の道を使うしかなかった。
数百年も動いていない転移陣を、自分の魔力で目覚めさせるために――。
たった二人の追っ手を止めるにも失敗した手で、今度は数百人を送り届けなければならなかった。
2026/09/27 大幅な加筆・修正




