序章 危急存亡
閑散とした街道を一人の少女が走っていた。
年の頃は十七、八か。美しい巻き毛の金髪は乱れ、元は美しかったであろうドレスも裾
が破れている。ドレスは元々、白を基調としたものであったがゆえに、汚れも一層際立って見えた。ただ、裾以外に破れた箇所がないところから察するに、少女が走り易くするために、自ら裾を破ったのかもしれない。
少女の美しく湛えた碧眼の瞳は、街道の左右に一定の間隔で立ち並ぶ木々が過ぎ去っていくさまを次々と映し出していた。そして、時々振り返る少女の視界の先には、二人の男が追ってきているのが、はっきりと見えている。
その二人は、鞣革で造られたそれぞれ黒色と茶色の革鎧を身に着け、黒色の鎧の男の手にはいかにも安価そうな長剣が、茶色の鎧の男には錆付いた柄の槍が握られていた。それだけなら粗末な身なりの盗賊かなにかとも思えるが、しかし彼らの瞳は、異様にギラついていた。そして、鎧から伸びた手足の素肌に、これまた異様な紋様が浮かんでいる。
さらに異様なことに、彼らの身体能力はずば抜けていた。その膂力は人間のそれではなく、まるで獣のような力強さとしなやかさ、そして速さを備えている。
このような状況においても、少女の瞳に怯えはなく、この状況でも気丈な顔をして後ろをチラッと振り返り、その後、右手で持っている彼女の着ているドレスには不釣り合いな武骨で短めの錫杖と空いた左手で以って印を結び、不可解な『言葉』を紡ぎ出した。
その間にも、男共は人間とは思えない速度で間合いを詰めてくる。
少女が突然大きく振り返り、男たちに向かって右手の錫杖を振りかざした。すると、杖を向けられた男が、急に、どぅと倒れる。それはあたかも突然金縛りにかかったような感じであった。いや、実際にかかっているのかもしれない。
彼女が放った『力』は、この世界では〈詠唱魔法〉と呼ばれるものである。『魔法』とは、呪文を制御することにより、様々な効果を発現する不可思議な力のことである。そして、この少女はその中でも〈詠唱魔法〉というこの世界でもっともポピュラーな魔法の使い手なのである。
よほど自信があったのだろう、彼女は無防備になるのを省みず、『言葉』を紡ぎ出した。しかし、魔法は使い手に疲労を強いる。まして、彼女は今まで走っていたのであり、疲労の極致であった。そして、その疲労は彼女の予想を越えていた。蓄積していた疲労で一瞬よろけてしまい、そのせいかもうひとりの男には効果を顕さなかった。
そして非情にももう一方の男の剣は、大きく振り被られ、少女へと迫っていった。
ここにきて、少女は初めて恐怖の顔を示し、とっさに腕を覆って悲鳴をあげた。
静かな街道に悲鳴と金属が重なり合う音が、続いて肉が切れ、血が飛び散る音と断末魔の叫び声が響き渡った。
……恐る恐る、少女が目を開けると、そこには自分を追ってきていた男の一刀両断された死体があり、その先に返り血を浴びた板金鎧姿の若者が使い込まれた長剣を構えて立っていた。年のころは、少女と同じくらい。意志の強そうな眼差しが特徴的な若者であった。
その若者が、男の剣を下から跳ね上げ、切り返して一刀両断に伏したのである。その行為から若者がかなりの手慣れであることが窺えた。
若者は、もうひとりの立ち上がった槍の男のほうを睨むと、槍の男は自らの不利をさとり、逃げ去っていった。
若者は、剣を死体の服で拭い鞘に収めると、少女に恭しく頭を下げ、少女に問うた。
「エレ、いや姫、お怪我はありませんか?」
少女は呆然としたまま、唯「大丈夫です。」とだけ答えた。
少女は、この若者を知っていた。彼は、彼女自身がその才能を見込んで父に取り立てるよう頼み込んで入団させた近衛騎士だった。
若者は、少女の乱れた姿を見て、照れつつも気を利かせて自らが身に付けていた外套を少女に掛けてやった。
すると少女が逃げてきた道のほうから馬に乗った青年が現れる。馬に乗っていたのは司祭風の青年であった。神殿に仕える者独特の大きな司祭帽を被る細身の美男子だ。彼も、少女を見ると深々と頭を下げた。少女は、騎士と司祭の若者が親友同士であるということを知っている。その司祭風の彼が、今度は訊ねてきた。
「姫、公王様が戦死されたとのことです。……次の追っ手がいつくるかわからないですし、先を急ぎませんと」
そう。少女は追われていた。彼女はもうすでに〝元〟姫かもしれない。彼女の住んでいた城は反乱軍の手に落ち、父である領主も亡くなったという。それでも残りの公族も捕らえようと、反乱軍の追っ手が血眼になって探しているのだろう。
大らかであった母妃は、最後まで篭城して娘たちを逃がした。そして、慎ましき姉姫も少女を助けるために、少女を先に逃がし、今は行方知れずである。その他、多くの侍女や兵士たちが少女を生かすために戦ってくれたのだ。それなのに、公国一の魔法の才の持ち主と謳われ、家族がそして公国の皆が称えてくれた〝力〟があっても家族さえも助けることができなかったことが、少女にとって一番耐え難いものであった。
しかし、それでも後ろを振り返らずに、ここまで走って来られたのは、姉姫の一言があったからである。
「あなたにはあなたの役割がある。そして、新しい未来を切り開くだけの力も。だから生きなさい」
この一言があったからだ。
少女は、姉の思いを無駄にはしたくなかった。
では、この先どうするか?答えはひとつであった。
「そうですね。使命を果たすためにも急がないと」
公妃から託されたことがある。その使命を果たさなくてはならない。そのために、こうして逃げ延びてきたのだから。
「――公姫としての務め、果たしてみせます」
そう、決意の言葉を小さく呟く。
戦禍が拡がる前に、希望した公都とその周辺の民たちは、すでに別の地へと疎開を始めていた。公妃から、先に落ち延びた彼らたちのことを託されていた。
この公国から、追っ手をかわすために、自分の魔力という名の〝力〟が必要になる。
少女は、今まで振り返ることのなかった、遠くかつての居城の方角を一度だけ振り返った。そして、すぐに決意の眼差しで、二人の若者に促し、民の待つ先へと目指し進みはじめた。