始まりは少女の家出(5)
ㅤ目を瞑って森の中を馬鹿みたいに突っ走っているっていうのに、不思議と何もぶつからない。
ㅤ森の中って少し暗いイメージがあったけど、木漏れ日のおかげで目を瞑っていても明るさを感じる。
ㅤ木の匂いに、草を踏む音。走っているから感じられる爽やかな風が、あたしの頬を撫でていく。
「あぁ~……気持ちいいかも〜」
「おい」
「ん?」
ㅤ何だろう、何か聞こえた。呼ばれたのかな?
ㅤあれ……今の声はさっきの人かな?ㅤ人なのかは、やっぱり怪しいけど。
「おいって……おいおいおいおいっ!」
ㅤショルダーバッグを後ろに強く引っ張られて、その驚きのあまりに目を開いてしまった。
「あっ、目開けちゃった。――うわっ!?」
ㅤ目を開けばあたしは、地面と水面のギリギリの所に片足で立っていた。……怪男が後ろから引っ張ってくれなかったら落ちてただろう。
「あ、ありがと。怪男さん……」
「何その変な名前……」
ㅤ後ろにぐいっと引っ張られて、そのまま尻餅をついてしまう。
ㅤ目の前には泉……。そして、その周りを彩る花々。
ㅤあ……れ……?ㅤここ、妖精の泉って所かな。
ㅤノートに書き写した内容と一致する。そして不思議なことに、秋だというのに、この森ってば緑でいっぱいだ。
「凄〜い。水が綺麗」
ㅤ水面を覗けば自分の顔が映る。手を突っ込んでみるとひんやりと冷たい。やっぱり季節は秋なんだろう。そう疑ってしまうほどに、秋を感じさせてくれない場所なんだ。
ㅤ水の中だっていうのに花が透明をピンクや赤で色付ける。
ㅤ尻をついたところ、花潰しちゃったかな?
ㅤ花の匂いが鼻をくすぐってくる。小さな花から大きな花。 鈴蘭とか初めて見たかも。
ㅤ何か幸せな気分だ。
「あ、そうだ。あたしはエルシィーっていうの。あなたは?ㅤフード脱がないと永遠と怪男って呼ぶけど……」
「フード脱ぐのは無理だけど、名前はレヴィディア」
「よろしくね、怪男」
「人の話聞いてた?ㅤ何、怪男って」
ㅤ話聞いてないのはそっちよね。フード脱いでくれないし。
ㅤでも理由があるのかもしれないし無理にとは言わない。
「そうだ。1つだけお願いがあるんだよな」
「そう言えばそんな事言ってたね」
ㅤ顔だけ向ける。こんな綺麗な場所だってのにこいつの黒色が似合わない。
ㅤお願いってなんだろう。初対面のあたしにこうまでしてするお願いって、そんなに大変な事なのかな?
ㅤまだ『冒険者』というわけじゃないし、あいにく武器を家から盗み持ってくるのを忘れた。
ㅤ街の人にお届け物とか、アーメリア以外の街なら頑張ってみせる。もうアーメリアには当分戻らないって決めたしね。
「エルシィーさ。俺達を……世界を救ってきて」
「うん。……え?」
ㅤ怪男があたし手を取る。その握っている手に力がこもっていて、少し震えている。
ㅤそれなのに表情は読み取れないし、声のトーンだって常に一定。
「え、ちょっと待って。意味がわからな――……うぅ」
ㅤ前方から目も開けていられないような突風があたしの言葉を遮ってくれた。
ㅤその風であたしの体が後ろに倒れたのか、レヴィディアという怪しい男があたしを後ろに押し倒したのか、それとも両方かはわからないが、
「え……?」
ㅤ周りの花が先程の突風で舞い上がっていた。
ㅤ怪男があたしの手を離す瞬間をこの目で捉えたんだ。それから目に映るものがスローモーションで再生される。
ㅤ握られていた手からあたしの体は奴から遠ざかっていく。何より片方の足が地面を踏んでいない。
ㅤ相変わらず顔が見えないし考えている事がわからないんだ。後ろに倒れていくあたしの体は、足から冷たい水へと触れていく。
ㅤ最終的には自分の体、全てが水の中へと、派手な水音を立てては沈んでいく。
ㅤスローモーションに見えていた世界は一瞬にしてゆらゆらと揺らいだ。水が冷たくて体が冷えると同時に重くなっていく。
ㅤ波紋で揺れている透明の向こう側、怪しい奴が、レヴィディアが見下ろしていた。
ㅤ何で?ㅤどういう事なの……?ㅤ
ㅤ水分を含んだ服は重くなって体は、どんどん泉の底へ沈んでいく。
ㅤ徐々に周りが暗くなっていく事に、今更ながら恐怖を感じた。泉の底から何かに引っ張られているような気さえする。
ㅤ嘘でしょ……?ㅤ嫌だ。まだ死にたくない。こんな事になるのなら家でじっとしてれば良かった。
ㅤ騙されたってこと?ㅤ結局は何、人を殺したかったの?ㅤ
ㅤあたしを?ㅤ何であたしなの……?
ㅤまだアーメリアを出て30分も経ってないんだ。これから楽しいことが始まっていたはずなのに。
ㅤとうとう息が苦しくなってくる。無理だとわかって少しでも足掻こうとレヴィディアへ手を伸ばしてしまう。
ㅤ――助けて。
ㅤ何て思ってみても、あたしに頭に声が響く特技なんて使えない。使えたら助けてくれるのかっていったら助けてくれないだろうね。今がそうなのだから。
ㅤだんだんと意識が薄れていく中。
ㅤ冷たくて苦しく寂しい水の中に、どこか懐かしい温もりを感じていた。