487 自分の流儀を貫き通す
ドワーフの都市を見学しているブレイブガーディアンズの一行は皆が目をキラキラと光らせていた。言い方は適切では無いが、ここにいる連中は皆が聖人の調教を受けている。聖人の熱き姿勢に共感して、聖人の言葉には逆らえない。むしろ聖人を心から崇拝している態度を示している。最初こそ聖人の鼻につく態度と言動に拒否感を感じてしまうが、常に一緒の行動をしていく内に聖人の魅力に惹かれてしまう。ある種のカリスマ性を抱いていた。日本は一時期『○○のカリスマ』という言葉が大流行りして、日本中に何かを極めたカリスマばかりだった。ところが次第に日本はカリスマ自体が死語になって誰もその言葉を使わなくなった。22世紀になっても聖人以外にカリスマの言葉を使われているは僅かばかりだろう。聖人は自分をカリスマだとは思っていないが、周りの人間にカリスマと呼ばれるのは悪い気分では無かった。それどころか、自分がまたカリスマの言葉を流行らせてやろうかと野心強く意識させていた。昔流行った物を再び流行らせるのは至難の業であるが、やらないよりはやった方がいいに決まっている。世の中は行動した者が勝者となるので、思い立ったら直ぐ行動。その基本概念さえ心に抱いていれば、誰でもカリスマになれる。聖人はそうだと考えていた。しかしとは言っても、中々上手くいかないのが人生だ。中にはゲームよりも上手く世渡り上手な人間もいるが、それはごく一部の人間だけである。ほとんどの人間はゲームで好成績を叩き出せても、いざ現実となれば先輩達にこき使われ、鼻で笑われる窓際族ばかりだ。しかし彼等は窓際族であるが故にストレス解消をゲームに使っている。その結果、次第にゲームタクティクスが上手くなっただけなのだ。そのストレスを職場で解放して、企画なり営業なりに有効活用すればいいのだが、実に彼等は勿体ない事をしている。何かを続けるにあたって、モチベーションになるのは苦痛だけだ。快楽など一瞬だけでいい。苦しくて苦しくて泣きそうなぐらいストレスを感じる人間には行動して欲しいと聖人は思っていた。聖人自身も今までストレスを活力に変えてきた。これからもきっとそうだろう。誰が何と言おうとも聖人は自分のやり方を変えない。誰に文句を言われても同じ事をやり続ければ、いつしかそれが自分の個性になる。個性とは誰にでも備わっているが、仕事や学校、ゲームの中で個性を見出すのは至難の業だ。ましてや日常生活で個性丸出しの人間は希少的である。大体は「そうですね」「すみません」「はい」の言葉しか使わない人間ばかりだ。そういう人間は非難されるのが嫌で自分の個性を隠している。聖人とは真逆だ。しかしそれも言い方を変えれば個性かもしれない。結局は長く続けている者には誰も敵わない。最近はユーチューバーという言葉が流行り始めた。彼等のほとんどはユーチューブ黎明期から動画を投稿している古手ばかりで、ポッとでの新米程度では勝てっこない。それこそ個性が無ければ見向きもされない。個性を作るためには批判された事や褒められた事をやり続けるだけなので、方向性を固める。方向性も無く、のほほんと動画投稿を続けても一流には慣れない。「自分はこうするんだ!」と自覚を持って物事に取り組めば、思いもよらない人間から手を差し伸べられる。人生とはそういうものだと聖人は確信していた。聖人も昔はなんとなく生きてきた。大した才能も無ければ努力なんて微塵もしてない。それでも当時の不良番長に輪姦されそうになった所を助けられて聖人の人生は変わった。「ああなりたい」と目標を立てて努力するようになったのだ。当たり前だが、努力しないより努力した方が良いに決まっている。そうして自分を正当化し、過大評価をするようになった。自分が最強なんだと自己評価していく内に、最強に相応しい力も手に入った。握力が90キロオーバーの高校生なんぞ世界でも一握りだ。握力は持って生まれる才能によって決まると言われてきたが、見事にそれを努力で跳ね返した。才能なんど無くても努力すればどうにでもなるのだと。しかし、とは言っても努力にもやり方がある。漠然とした考え方で取り敢えず勉強をして東大に受かれば苦労しない。東大に受かる人間のほとんどは効率の良い努力をしている。徹夜など御法度中の御法度で、良くアナウンサーが「昨日は徹夜でしたか?」と無知な質問をしてくるのを極端に嫌っているのが聖人だ。そんな訳無いだろうと。彼らは自分と同じエリートなんだから徹夜などしない。効率の良い勉強方法を独自に編み出して日々の積み重ねで東大に受かったのだと。実際に聖人の言う通りなのだが、中々聖人は理解されない。そのヤクザ顔負けの見た目が影響しているのは間違いない。特に日本人は色眼鏡で他人を見てしまう民族性があるので、常に聖人の周りには逆風が吹き荒れている。だが、聖人はそんな事では決して屈しない。ゲームだろうが日常だろうが学校だろうが、常に手を抜かずに真面目な態度を貫き通す。それが聖人の流儀でもあった。




