五話 哀しみの雨
(なんだ……?)
まるで浮遊しているかのような感覚に俺はそっと目を開いて周囲を見た。体がやけに熱い。指先までの感覚がボヤけていて、全体的に体中が麻痺しているようだった。
(なんだ、これ……)
そしてどこからか湧き出る大きな虚無感。
体験したことのない感覚に顔を顰める。
それに確かに俺はさっき意識を失ったはずだ。急に訳がわからなくなって地面に体を打ち付けたことはしっかりと覚えている。
なのになぜ、俺は今二本足で立っている?
それも右腕だけを突き出した不格好な姿で。
……右腕?
(あれ……? そういや……)
右腕に意識を集中させる。動かそうと脳から信号を送る。左腕で右腕を掴む。
しかし、何をやっても右腕からの反応は一切なかった。
左腕で右腕を揺さぶる。しかし右腕の感触はなかった。
その感覚はまるで、他人の腕を触っているようだった。
(なんだよこれ……!)
初めての感覚に焦燥する。右腕からの反応を求めようと必死に動かせる左腕で揺さぶる。だがやはり反応はない。体の右側に意識を集中させてみれば、右腕からごっそり体の感覚がなくなっていた。その事実にゾッとする。そして納得した。先程から感じていた巨大な虚無感はこれだったのだと。
何故こんなことになっている?
思い当たるのは――先程の赤い魔法陣。
恐らくあれは迎撃用の呪詛魔術の術式だろう。魔法陣の性質がわかれば他にもいろいろとわかるのだが……さっきは自我を保つので精一杯だったため、魔法陣を細かく観察する余裕など全くなかった。だから魔法陣が体内に消えた今、現在発動しているだろうこの魔術がどんなものなのかを詮索する術はない。
よって、今この魔術に対抗することはできないのだ。
だから傍観するしかない。
不意に虚無感が大きくなる。同時に左腕がだらんと落ち、感覚が根こそぎ抜け落ちる。そして間を置かず両脚が、頭部が、胴が、全身の感覚がきれいサッパリ無くなり、最後に残ったのは脳だけだった。
恐らく魔術が完全な発動を果たしたのだ。
視界が揺れた。感覚を絶たれたため断言できないが、恐らく歩いているのだろうと予測する。右腕に引っ張られるような不格好な姿で、感覚のない体がゆっくりと進んでいく。
「な、なんなんだよテメェはッ!」
くぐもった声が聞こえた。水中で聞いたようなぼんやりとした声だったが、それでも何を言っているのかは理解できた。どうやら幸いにも視覚と聴覚はぎりぎり感覚を保てているようだ。
頭部が動いたのか、唐突に視線が移動した。ボヤけた視界に二振りの剣を構える男の姿が映る。恐怖からか体が小刻みに震えていた。
視線が上下する。彼に向かって足が一歩踏み出したのだ。
「く、来るな! 来るなああぁッ! クソ……ッ!」
俺のその動きだけで男はビクリと震え、後ろへ一歩下がる。それから意を決したように二本の剣をしっかりと構えた。
「レオン!」
「来るなあああああああああああああ!!」
男が迫って来る。二振りの剣が首を狙って振り下ろされる。止めようにも体の感覚が絶えてる今は俺になす術はない。死を覚悟し、来るであろう痛みに目を瞑ろうとするが体は言うことをきかなかった。視界のすぐ下で凄まじい勢いで迫る刃が見え、心が一瞬にして冷え切った。
「ひッ――!?」
体の感覚がないのだから首を斬られても痛みはないのだろうか……そんな不毛な考えがよぎったとき、目の前の男から情けない悲鳴が零れ出た。彼の顔がみるみる内に青ざめて行く。
「ど、どうし――ぐ、ばごッ!?」
赤いモノが視界を横切った。ボヤけた視界ではそれが血だとわかるのに数秒かかった。
「れ、レオン!!」
どこからか叫ばれた名は、恐らく前で吐血している男のものだろう。
それにしてもなんで吐血しているのだろうか?
疑問が浮き出てきたとき、ボキボキと男から音がした。それが何の音か確かめる前にいきなり男が吹っ飛ぶ。
(何がどうなってる?)
「くッ……クッソおおおおおおぉぉ!!」
男が壁に打ち付けられた後、不意に誰かが悔しそうな声でそう叫んだ。
「駄目だラット!! やめろォ!!」
「水の精よ我に答えよ! ≪水流喞筒≫!!」
「ラット!!」
体が動く。視界に映ったのは驀進してくる水の塊だった。
「行けェェッ!!」
術者の声に反応したのか、水流が獣のように吼えた。自分を軽々と呑み込みそうな巨大さに焦るが、それに反して体の動きはゆったりとしていた。右腕が近くに落ちていた剣を拾い、水流に向かって軽く振り下げた。
ほんのわずかな力で振られたように見えたにも関わらず、剣から放出された青い斬線は迫って来る水流以上だろう速さで水流に向かって突進していった。巨大な水の塊は斬線に簡単に打ち砕かれ、簡単に術者の下への進入を許した。
「ひ、ァッ!? 待っ――」
水流の奥から悲鳴が聞こえた。重量のある何かが地面に落とされるような音が何度も鳴り、しばらくすると止んだ。
「ラットぉッ!! チッ……バカなことしやがって……!! クソ野郎ッ!!」
聴覚が毒づく男の声を拾ったが、視覚はその主を映さなかった。体が声が聞こえた方とは違う向きに進んでいく。進む方向には顔面を血に染めた男が一人ブルブルと震えていた。右腕の剣が振り下ろされるのが視界の端に映る。男から血が飛び散る。小さな悲鳴の後、彼はアスファルトに倒れた。黒い地面が赤に染まっていく。大量の鮮血が男から溢れる。ボヤけた視界に映った彼の顔には生気はなかった。
死んだのか?
心が凍る。
死んだのか? 死んだのか? コイツは……死んだのか?
俺が――殺したのか?
(――――)
思考が停止する。
視界が動いた。こちらに背を向けて走る男の姿を捉える。すると何かが右腕から投げられた。剣だ。剣は軌道を変えることなく直進し、彼の背に刺さった。的確な角度だった。背から血飛沫があがる。
「――ッ」
悲鳴にならない悲鳴が男から発せられ、彼はアスファルトに脱力した身を打ち付けた。彼の服が、赤く染まっていく。赤く、赤く、赤く、染まっていく。白い服が赤い服へと変わっていく。
(死んだ、のか? コイツも)
その光景を見つめる体の中で、俺は漠然と目の前の状況を確認していた。
(俺が――殺、したのか?)
何かが頬を濡らした。頭上から降って来る。雨だ。ポツポツと雨雲から降り始めていた。温泉にいた魔術師の予報はどうやら外れのようだ。
(俺が――俺が……? 嘘だ。嘘、だ。嘘に決まってる)
雨がアスファルトに倒れる彼らの血を地面に広げて行く。それぞれの服に小さなシミを作っていく。
(違う。俺じゃない、俺じゃ――)
雨が激しさを増す。すぐに地面に水たまりを作っていく。
視界に水たまりが映った。大きな水たまりには俺が映っていた。返り血を浴びた俺が。
(これが、俺……?)
ゾッとした。
水たまりの中の俺は笑っていた。
返り血を顔にベットリとくっつけ、それでも笑っていた。楽しそうに。
未だ体の感覚はない。だが俺は笑っていた。意図せず笑っていた。
それはつまり……
(これが本当の俺……?)
意識してないのに笑っている。
つまりそれは本能から笑っているのだ。
俺の本能。
本当の自分。
本能は人を殺して、笑っている。
(嘘だ! 違う! 俺はこんな……こんな奴じゃ――ッ)
心で必死に否定するが、目の前の事実がそれを拒んだ。
嘘じゃないと、地面に転がる男達の死体が暗に語っていた。
(違うんだ! 違う! こんなつもりじゃなかったんだ! 違うんだ! 違うんだ違うんだ違うんだ!!)
聴覚が、視覚がハッキリと機能してくる。感覚の戻った体を冷たい雨が打っていく。
(俺じゃない! こんなの、俺じゃない!)
「お前だよ」
感覚の戻ってきた口が言葉を紡いだ。意識してのことじゃない。
水たまりには俺がいた。本能の、俺が。
雨の中、彼はただ俺をまっすぐに見つめて笑っていた。訳のわからない恐怖を感じ背筋が凍る。
「お前が殺したんだ」
水たまりの中の俺は笑いながら俺に宣告した。
(ちっ……違う! 俺じゃない!)
「へぇー。じゃあ、コイツら誰が殺ったって言うんだ?」
(お前だ! お前がコイツらをこんな風にさせたんだ!)
「っぶ! ぶはははははははッ!」
(……な、何がおかしい!! 黙れ! 笑うな!)
雨の中俺の笑い声だけが路地に高らかに響く。水たまりに映っている俺はこちらを見ておかしそうに口の端を上げていた。
「ははは! いや悪い。我ながらバカだなーって思ってさ。少し考えればわかることなのに」
(……、どういう意味だ)
「どうもこうも、俺はお前、お前は俺なんだよ。わかるか? 言ってる意味」
(…………)
「つまりだ。お前の本能である俺がやったことはお前がやったも同然なワケ。一心同体ってヤツ? んで確かにお前の言う通り、俺はコイツらを殺った。そしてそれは即ち、お前が殺ったも同じなんだ。わかるか? この理屈」
(……だけど、俺はなんもしてねぇ)
「ハァー。だから言ってんじゃん。俺はお前、お前は俺なんだよ。いくらお前が何もしてないって言ったって、俺がしてるんじゃお前がしたことになるの。わかる?」
呆れたように俺は俺に言ってくる。俺をバカにしたような態度に少し憤りを覚えた。
「……本来、お前の本能である俺はお前のもんだった。一生お前の心の奥深くにいるはずだった。だけどさっきお前がシクったから俺はお前から独立したんだよ」
(独立?)
「あァ? まだ魔術の解析終わって無かったのか? 我ながら無能な奴だなー、まったく。まあいいや。取り敢えずこれからがんばれ。俺からはそれだけだ。じゃあな」
体の感覚が急速に戻っていく。本能が俺の前から消えようとしているのだと覚った。慌てて声を掛ける。
(ちょ、ちょっと待て!)
「あー? 待てつったってこっちにも時間制限があんだよ」
水たまりの中の本能が鬱陶しそうに振り返る。彼に再びのっとられたのか、体の感覚がまた麻痺していくのがわかった。
(魔術名を教えてくれ!)
「はァ? んなもん自分で詮索しろっての」
(んなこと言ったって、魔法陣が体ん中入ってるから俺じゃ何もできねぇんだよ! 俺を侮辱するくらいだからお前知ってんだろ! 頼む! 教えてくれ!)
「…………」
(頼む! 俺だろ?)
「…………」
(魔術名さえわかれば解析の仕様はいくらでもある! お願いだ! 教えてく)
「≪独立宣言≫だ。用は済んだな。じゃ」
面倒臭そうに言い捨てると本能は俺に背を向け、水たまりの奥へと消えて行った。体の感覚がハッキリとしてくる。
「……ッ」
その場に膝を付く。付いたときの振動が体に伝播する。雨の冷たさが身を打つ。体の中の温かさが懐かしい。
感覚が戻った。
金縛りから解放されたような感覚に安堵せずにいられない。いつの間にか大降りになっていた雨に体がビショビショに濡らされていたが、俺はそこから動こうとはしなかった。
両手を見る。たった今数名の人間の命を奪った手を。
水たまりに映った俺に血は付いてなかった。既に雨で流されていた。
立ち上がる。周囲を見回す。敵だった奴らが数体転がっている。雨に血を流され気を失っているようにしか見えないが、俺にはわかる。彼らはもう死んでいるのだと。
(そうか……俺は人殺しになっちまったんだな)
確かに俺は意図して彼らを攻撃してはいない。しかしこの事実は認めるしかないのだ。本能が言っていた通り、本能は俺だ、俺の本能なんだ。なら本能がしたことを俺は俺がしたこととして受け入れなきゃならない。否定したところでどうなることでもない。事実は変わらないんだから。
現実逃避したって何も変わらない。変えられない。過ぎ去った出来事を変えることはできない。彼らの命を救うことはもうできない。
彼らはもう――死んだのだから。俺が、俺の本能が、殺したのだから。
だから認めなきゃ、受け入れなきゃならない。俺が殺ったのだと。
「人殺しなんて大っ嫌いだ!!」
幼い頃の言葉。家族を失い、居場所も全てを失ったとき、俺が言った言葉。レイファン国軍に対して言った言葉。そして、俺自身に向けて放った言葉。
家族や友達を殺したレイファン国軍が憎くて堪らなかった。レイファン国軍の兵士を何度も殺そうとした。だけど、俺は殺しだけはしなかった。人殺しをしてしまえば、あのレイファン国軍と同じ人間になってしまう。それだけは嫌だった。人殺しをしようとする自分が許せなかった。人殺しをするということは、憎きレイファン国軍と同列の人間になるということだ。奴らと同じことはできなかった。絶対にやりたくなかった。
だから今まで、人殺しは一度もしたことがなかった。殺そうとしたことなど何度もあった。だけど、実行に移したことは今まで一度たりともなかった。
でもたった今、俺は人殺しをした。
それが自分の意志でないにしろ、俺は自分のこの手で今数名の人間の命を狩った。
俺は今、レイファン国軍と同列の人間になってしまったのだ。
その事実が、深く胸に突き刺さる。
だけど、どの道この壁は乗り越えなければならなかった。そうでなければ、復讐などできるはずもないから。
だから、これでいいんだ。よかったんだ。たとえ俺の心が痛んだとしても。傷付いたとしても。
俺は自分で決めたことは必ず最後までやり遂げる。そして三年前、俺は復讐すると心に決めた。親友の骸を埋葬したときに、強く決心した。
だから、やり遂げる。絶対に。何が何でも、やってやる。
レイファン国軍に思い知らせてやるんだ。俺達が、どれだけ悲痛な思いであのときを過ごしたか!
そのためなら、人殺しなんて苦じゃない。
人殺しで俺の心がすり減ったとしても構わない。
復讐してやるんだ。絶対。
復讐を達成するためなら何でもやる。人殺しだろうが詐欺だろうが盗みだろうが、何でもやる。そのために俺は今まで厳しい稽古にも堪えてきたんだから。
だから、やってやる。
やってやるんだ。
復讐を。
人殺しなんて、復讐をする中で沢山する。今なんて、たった数人の男を殺しただけじゃないか。気に病むことなんてこれっぽっちもない。気にすることなんてないんだ。復讐をするための過程だと思え。こんなの、苦しい中自殺したあいつらの痛みに比べたら、屁でもない。そうだ、気にするな。
気にする必要なんて、蟻一匹分もないんだ。
俺は雨の中独り泣いた。




