ん
あの日のことを覚えているだろうか。
いつも一緒に歩いた坂道。
後ろには浅間山と展望台。
絵の具の踊る街並みは色鮮やかに香っていた。
追い掛けた川原を行く葉っぱ。
悲しくもないのに涙が出ることを知った日。
木々の合間から吹く二人を風は慰めるようにして過ぎていった。
繰り返すだけではなく、移ろいゆくことを教わった日。
景色からほんの少しだけ色が消えたように思えた。
これが大人に近付くことなのだと、私はそう自分に言い聞かせた。
さようならの言葉は短くも耐え難く、喉の奥に引っ掛かる。
幸せになって欲しいという思いを上手く伝えられる程、大人ではない。
好きですの言葉は短くも忘れ難く、今も胸の奥に引っ掛かる。
背中合わせの別れ際、流した涙の色は何色だったのだろうか。
そして、あなたはどこか遠くに薄れて消えた。
ただ確かなことは、今も記憶の奥底に淡い桜色の天鵞絨が敷かれているということ。
地図を見ずに歩くことが楽しかった日は遠く、今はもう霞んでいる。
月のない夜でも歩くことが出来た日は遠く、無機質な街灯だけが世界を照らす。
手を取ろうと伸ばしたその先には、秋の侘しさだけが肌に触れる。
途方に暮れても、もう私に微笑み掛けてくれる人はいない。
何がしたいのかも分からず、漠然と人生を歩む。
濁ってゆく故郷の街並みには、青色の欠片すら残っていないのだろう。
塗り絵を試そうにも、輪郭すら掴めなくなってゆく。
願いが叶うのならば、もう一度あの日々に戻りたい。
飲み干したコーヒーの空き缶は、自分には荷が重いと吐き捨てて穴に消えて行った。
儚さすら感じない無気力の海を泳いでみた。
悲観とは楽観に通じるものだと、かつて水面に消えた人の遺した言葉を思い出しながら。
深く潜ろうとしてみたが、そこには魚の一匹もいないことは分かっている。
平穏を手にすることは出来るが、それ以外の何かを失うことも。
本当にこれで良いのかと自問してみたが、自答は水泡に形を変えて誤魔化されてしまう。
真夜中の橋の上で溺死するとは滑稽なものだと笑っている。
見下ろした終わりの見えない街並みのどこにも居場所を感じない。
胸の奥底に躊躇いが顔を覗かせるが、指先は金網を掴んでいる。
目から頬へと、やがて心へと流れ落ちた涙の存在を認めるつもりはない。
もう二度とここへは戻らない。
欄干に足を付け、更に柵を登る。
理由などもう必要ない。
瑠璃色に、茜色に、玉虫色に、あの闇の奥に灯っているように感じた。
冷静さを取り戻させたのは強い衝撃だった。
狼狽しながらも振り返ると、初老ほどに見える男が睨みつけるよう眼差しで私を見下ろしていた。
私は気まずさと、理由のない罪悪感から黙っていることし出来なかった。
をとこもしばらく黙っていたが、やがて一本の缶ビールを差し出しながら「こんなに美味いもんのある世界を捨てるのか」と、色鮮やかに笑ってみせた。




