第96話(閑話):『サヨナラの通知表と、奇妙な同居人』
第96話(閑話):『サヨナラの通知表と、奇妙な同居人』
東京の夜景を一望できる、広すぎるリビングルーム。その中央にあるイタリア製の高級ソファで、レンが胡坐をかきながらポテトチップスを貪り食っている。
「……で、どっちが風呂掃除すんの? 今日は悠斗の当番だろ」
「あー、わかったよ。……ていうかレン、お前なんで当たり前のようにここに住んでるんだ?」
悠斗がバスタオルを首にかけながら、呆れたように尋ねた。ここは政府が用意した、港区のタワーマンションの最上階。セキュリティ万全の「鳥籠」だ。
「仕方ねぇだろ。俺も政府にマークされてる身だ。下手に外をウロチョロするより、お前ら『特異点』のバーターとしてここに籠もってる方が安全なんだよ」
レンは悪びれもせず、チャンネル権を独占してアニメを見ている。
「それに、若い男女が一つ屋根の下だ。……間違いが起きないように、保護者役が必要だろ?」
「ぶっ……!?」
キッチンで洗い物をしていた私が、思わず吹き出した。
「な、なに言ってるのレン! そんなんじゃないから!」
「へえ、顔が赤いぞ梨花。……まあいい。ちなみに隣の部屋には、佐藤博士が引っ越してきたぞ。『ワシがいつでも診察できるように』だそうだ」
レンが指差した壁の向こうを想像する。日本の最高機密である私たちを守るためとはいえ、ハッカーと博士と高校生カップル(仮)。奇妙すぎる共同生活が始まっていた。
***
でも、この新しい生活を手に入れるために、私たちは多くのものを手放さなければならなかった。
数日前。
この部屋に、私の両親が訪ねてきた時のことを思い出す。
『……本当に、学校を辞めるのね』
母さんは泣いていた。父さんは、テーブルに置かれた「退学届」を、苦渋の表情で見つめていた。
私の通っていた高校。友達。部活。テスト勉強。それら全てが、もう二度と戻らない過去になった。
「ごめんね、お父さん、お母さん。……でも、私が学校に戻ったら、みんなを危険に晒しちゃうから」
私が政府の監視対象である以上、普通の登校なんて許されない。それに、某国の工作員がいつ私を狙うかわからない状況で、クラスメイトを巻き込むわけにはいかなかった。
『……わかっている。黒田さんという人から説明は受けた』
父さんは震える手で、退学届に判を押した。
『梨花。……生きていてくれれば、それでいい。離れていても、お前は自慢の娘だ』
私たちは抱き合った。
一緒に暮らすことはできない。両親を「人質」に取られないために、彼らには地方へ移住してもらい、身分を隠して生活してもらうことになったのだ。
これは、愛ゆえの絶縁だった。
その夜。私は親友のミオと、最初で最後のWEB通話をした。
画面越しのミオは、制服姿だった。
『……梨花、本当に転校しちゃうの? 留学って、急すぎない?』
ミオは何も知らない。私が「海外の特殊な学校に行く」という設定になっているからだ。
「うん、ごめんね。……でも、向こうでも頑張るから」
『そっかぁ……。寂しくなるなぁ。文化祭、一緒にやりたかったのに』
ミオの無邪気な言葉が、胸に刺さる。文化祭。修学旅行。放課後のタピオカ。
画面の向こうには、私が失った「普通」が眩しいくらいに輝いていた。
『でも、応援してる! 梨花ならどこに行っても大丈夫だよ! たまには連絡してよね!』
「……うん。ミオも、元気でね」
通話を切った後、私はしばらく泣いた。
これでいい。これで、ミオは安全だ。私の物語の登場人物にしてはいけない。
***
それは、悠斗も同じだったらしい。
リビングの窓際で、彼がスマホを握りしめて誰かと話しているのを、私は聞いてしまった。
「……ああ。サッカー部は辞める。……悪いな、ケンタ。お前とのコンビ、気に入ってたんだけどな」
相手は、サッカー部の親友だろう。悠斗の声は努めて明るかったけれど、窓ガラスに映る彼の表情は、泣き出しそうに歪んでいた。
「……怪我の療養だよ。復帰は未定だ。……ああ、わかってる。お前らが選手権に行くの、テレビで見てるからよ」
彼は通話を終えると、深いため息をつき、スマホの画面を伏せた。そこには、彼の両親からのメッセージも届いていたはずだ。彼のご両親もまた、ここに来て退学届にサインしていった。厳しいお父さんが、去り際に悠斗の肩を強く叩き、「……負けるなよ」とだけ言ったのを覚えている。
「……辛い?」
私が声をかけると、悠斗は驚いたように振り返り、そして弱く笑った。
「いや。……覚悟はしてたさ」
彼は自分の掌を見つめた。
「俺たちは、あの世界で多くを得すぎた。……その代償だと思えば、安いもんだろ」
強がり。でも、それは私たちに必要な強がりだった。
***
「おーい、湿っぽい話はそこまでだ」
レンがソファから声を張り上げた。
「メシだメシ! 今日は佐藤博士が隣から『特上寿司』の出前を持ってくるらしいぞ。政府の経費でな!」
「えっ、お寿司!?」
私の涙腺は一瞬で引っ込んだ。
「やった! レン、お皿用意して!」
「お前らなぁ……切り替え早すぎだろ」
悠斗が呆れつつも、その表情には明るさが戻っていた。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。モニターには、寿司桶を抱えて満面の笑みを浮かべる佐藤博士の姿。
私たちは顔を見合わせた。学校はない。両親もいない。普通の青春もない。
けれど、ここには「戦友」がいる。
ガラス一枚隔てた外の世界は、きな臭い陰謀と、私たちを狙う敵で溢れているかもしれない。それでも、今夜のお寿司と、この奇妙で温かい食卓だけは、誰にも邪魔させない。
「……いただきます!」
こうして、私たちの「監視付き共同生活」は幕を開けた。
それが、これから始まる過酷な「異能戦争」の前の、最後の安息だとは知らずに。




