第75話:『孤独な防波堤』
第75話:『孤独な防波堤』
ブゥゥゥン……。
重低音が空気を震わせている。それは、教会の周囲に展開された紫色のドーム状の結界が、外の世界からの侵食を食い止める際の軋み音だった。
私は結界の境界線ギリギリまで歩み寄り、中の様子を凝視した。半透明の膜の向こう。 黒騎士の装備を纏った悠斗は、教会の扉を背にして片膝をつき、地面に突き立てた大剣の柄を、両手で拝むように握りしめていた。
その姿は、あまりにも痛々しかった。
かつて漆黒の輝きを放っていたフルプレートアーマーは、錆びついたように赤茶け、表面には無数の亀裂が走っている。亀裂からは、血液の代わりに青白い火花が散り、パラパラと光の粒子が剥がれ落ちていく。
『……無茶だ。あいつ、自分のアバターデータを燃料にして結界を維持してやがる』
レンの声が、悲痛な響きを帯びて聞こえる。
『HPもMPもとっくに空だ。今はHP上限値そのものを削って、無理やり魔力に変換してる。……このままだと、あいつ自身がロストするぞ』
「そんな……」
私は息を呑んだ。自らの存在を削り、消失する。それは、この世界での死以上の意味を持つ。二度と復元できない、完全な無への回帰。
どうしてそこまで。何が悠斗をそこまで駆り立てるの?
私は視線を結界の奥、教会の扉の方へと向けた。少し開いた扉の隙間から、数人の子供たちが顔を覗かせている。男の子が二人、女の子が一人。彼らは透明ではなかった。 服の汚れも、肌の温もりも、怯えた瞳の色も、すべてが鮮明に描画されていた。
━━『騎士様、大丈夫?』 ━━『痛くない?』
子供たちの声が聞こえた。彼らは悠斗の背中に小さな手を当て、必死に励ましていた。 悠斗の肩がピクリと震える。
『……平気ダ。……下ガッテ、イロ……』
悠斗の声は、壊れたラジオのように途切れ途切れだった。けれど、そこには確かな意志があった。恐怖でも、義務感でもない。ただ純粋に、「この子たちを消させはしない」という、静かで熱い決意。
私は理解した。悠斗は戦っているのではない。この世界が不要なデータとして消去しようとする圧力に対し、たった一人で抗い続ける防波堤となっているのだ。自分という存在を代償にして。
「……悠斗!」
私は叫び、結界に手を伸ばした。助けなきゃ。彼に魔力を分け与えれば、あるいは……。
バチッ!!
指先が結界に触れた瞬間、強烈な電撃が走り、私は弾き飛ばされた。
「きゃっ!?」
尻餅をつく私を、悠斗の兜がゆっくりと捉える。その奥で明滅する赤い瞳孔が、私を敵として認識した。
『……警告。……異物、イレギュラーヲ、検知……』
悠斗がうめくように声を絞り出す。彼はもう限界なのだ。正常な判断力を失い、結界に触れるもの全てを、子供たちを脅かす崩壊の波と思っているようだ。
『……ココハ……通サナイ……』
ズズズ……ッ!
彼が握る大剣から、赤黒い波紋が広がった。それは結界のドームを伝い、無数の鋭い棘となって表面に隆起した。防御のための壁が、攻撃のための凶器へと変貌する。
『……消エロォォォッ!!』
悠斗の絶叫と共に、結界から紫色の光弾が放たれた。一発ではない。数十、数百の雨粒の様に降り注いだ。それは魔法というより、彼の身体に蓄積している痛みをそのまま具現化した様な悲痛な叫びだった。
「くっ……『障壁、シールド』ッ!!」
私は慌てて防御魔法を展開した。光弾が盾に当たり、重い衝撃が腕に走る。
ガガガガガッ!!
痛い。物理的な痛みではない。悠斗の悲鳴が直接、心に流れ込んでくるような痛みだ。 でも悠斗を攻撃することはできない。もし私が反撃して結界を壊せば、中の子供たちは即座にワイヤーフレームとなり、虚無へと消えてしまう。
「やめて、悠斗! 私よ! あなたを助けに来たの!」
私の声は届かない。彼はただ、ボロボロの身体で吠え続ける。
『……守ル……守ルンダ……ッ!!』
その姿は、傷つき、汚れ、理性を失いながらも、それでも何かを守ろうとしがみつく、あまりにも不器用で、愛おしい一人の人間の姿だった。
涙が溢れて視界が滲む。どうすればいい? どうすれば、その悲しい献身を止めることができる?
その時。光弾の雨の中、私は彼の足元に「あるもの」が落ちているのを見つけた。 泥にまみれ、踏みつけられそうになっている、小さな白い輪。
「あれは……」
シロツメクサの花冠。枯れかけているけれど、まだ微かに色を残している。それは、この絶望的な戦場に咲いた、唯一の希望の欠片に見えた。
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