第72話:『シチューの温もり』
第72話:『シチューの温もり』
グツグツ、コトコト……。
静寂に包まれた森に、似つかわしくない音が響き始めた。私は黒騎士の攻撃範囲のギリギリ外側に座り込み、簡易コンロの火を見つめていた。
鍋の中には、水と、道端で採取した「バグった食材」が入っている。見た目は最悪だ。 紫色のジャガイモのような多面体。ノイズが走る人参らしき物体。けれど、ナイフで皮を剥けば、そこには確かに「データとしての味と香り」が眠っていた。
『……本気か、梨花。あいつは殺戮マシーンだぞ? 飯の匂いで釣れるわけが……』
レンの呆れた声が脳内に響く。私はお玉で鍋をかき混ぜながら、小さく笑った。
「釣るんじゃないわ。……思い出させるの」
私はカバンから、最後の仕上げとなる「塩」を取り出した。かつて、彼が「味が薄い」と文句を言いながら、いつも持ち歩いていた岩塩だ。
「彼が守っているのはテントじゃない。……あの中で眠っているはずの『私』との時間よ」
パラパラと塩を振る。湯気が立ち上る。それはただの水蒸気ではない。崩壊した世界で唯一、正常なコードを持った「日常の匂い」。
フワァ……。
温かいシチューの香りが、冷たい夜風に乗って流れていく。鉄の味がする殺伐とした戦場に、家庭的なクリームの香りが満ちていく。
その時だった。
ピクリ。
テントの前で彫像のように固まっていた黒騎士の指が、わずかに動いた。
『……なっ!? 敵性反応が低下してる!?』
レンが驚愕の声を上げる。悠斗の兜の奥、赤く燃えていた瞳の光が、チカチカと不安定に明滅を始めた。
『……Warning... Unknown Error...』 『嗅覚センサー……照合……コノ匂イハ……』
彼のシステムが混乱している。「排除」の命令と、「食事」の記憶が衝突を起こしているのだ。
私は鍋を火から下ろし、お皿によそった。具材は歪だし、煮込み時間も足りない。 でも、これこそが私たちが旅の中で食べてきた「冒険者の味」だ。
「……行くわよ」
私は武器を持たず、湯気の立つ皿だけを両手に持って、ゆっくりと歩き出した。一歩、また一歩。死の境界線を越える。
ギギッ!
悠斗が反応した。大剣を振り上げる。
『接近者……排除……』
殺気が肌を刺す。怖い。足が震える。もし彼が振り下ろせば、私は真っ二つだ。でも、私は止まらなかった。
「悠斗」
私は彼の目を見て、優しく語りかけた。
「もういいよ。……夜番、お疲れ様」
『排……除……』
振り上げられた剣が、空中で震える。あと数センチ。彼がその気になれば、いつでも私を殺せる距離。私は構わず、さらに一歩近づき、熱い皿を彼の目の前に差し出した。
「交代の時間だよ。……ご飯、できたから」
その言葉が、最後の鍵だった。
プツン。
彼の動きが停止した。兜の奥の赤い光が、スーッと消えていく。代わりに、彼の全身から黒いノイズが霧のように晴れていった。
カラン……。
巨大な大剣が手から滑り落ち、地面に突き刺さった。彼はゆっくりと、錆びついた機械のような動作で膝をつき、私の目線に合わせるように顔を近づけた。
『……メシ……?』
その声は、機械音声ではなかった。低く、少ししゃがれた、私の知っている彼の声。
「そうよ。……今日はシチュー。文句言わずに食べてよね」
私が微笑むと、彼は震える手甲で、そっと皿を受け取った。兜のバイザーには、湯気に濡れた自分の顔が映っていた。
『……ああ。……腹、減ったな』
彼が皿を口元に運ぶ仕草をした瞬間。世界が揺らいだ。
パァァァァァァッ!!
焚き火の中にあった『記憶の欠片』が眩い光を放ち、周囲の景色を塗り替えていく。 永遠の夜が明ける。紫色の空が割れ、朝焼けの光が差し込んでくる。
そして、私の脳裏にあの日の記憶が流れ込んできた。
━━『うわっ、なんだこれ。泥水か?』 ━━『失礼ね! 野菜の煮込みよ!』
焚き火を囲む二人。まだ旅慣れていない頃の私たち。彼は文句を言いながらも、私が作った失敗作のスープを全部平らげてくれた。
━━『……まあ、あったまるな』 ━━『でしょ?』 ━━『いつか王都に着いたらさ。もっと美味いもん食おうぜ。……約束な』
星空の下、指切りをした夜。その些細な約束が、彼をここまで繋ぎ止めていたのだ。
「……約束、覚えててくれたんだ」
光が収まると、そこにはもう黒騎士の姿はなかった。彼が座っていた場所には、空になったお皿と、地面に突き刺さった大剣だけが残されていた。そして、焚き火の跡には、ピンク色の結晶が静かに輝いていた。
『……反応消失。奴は転移したようだ』
レンの声にも、安堵の色が混じっていた。
『どうやら、夜番の任務は完了したと判断されたみたいだな』
「ええ……」
私は結晶を拾い上げ、胸に抱いた。温かい。シチューよりもずっと熱い、彼の想いの欠片。彼はまた次の場所へ行ってしまったけれど、その心は確実に私に近づいている。
「ごちそうさまでした。……悠斗」
私は朝焼けの森を見上げた。止まっていた時間が動き出す。鳥の声が聞こえる。風が頬を撫でる。
次の場所へ行こう。私たちの旅は、まだ終わらない。私は大剣の柄に自分のハンカチを結びつけ、墓標代わりにして、その場を後にした。




