第56話:『奇跡の定義』
第56話:『奇跡の定義』
グォンッ!!!!
大気が悲鳴を上げたような重低音が、代々木公園の夜空に響き渡った。
誰もが死を予感し、目を覆ったその時。落下していた2トンの鉄骨は、逃げ遅れた親子の頭上わずか数メートルの位置で━━静止していた。
ワイヤーで吊られているわけではない。まるで、そこだけ時間が凍りついたかのように、巨大な鉄塊が空中に縫い留められているのだ。
「……あ、あぁ……?」
腰を抜かした母親が、震える目で見上げる。鉄骨はピクリとも動かない。その代わり、瓦礫の山の上に立つ一人の少女の周囲で、陽炎のような空間の歪みが発生していた。
「ぐ、ぅぅぅ……ッ!!」
私は右手を突き上げたまま、奥歯が砕けるほど噛み締めた。重い。物理的には触れていないのに、脳にかかる負荷が、鉄骨の重量そのものとなってのしかかってくる。血管が焼き切れそうだ。鼻からツーっと熱いものが流れるのを感じた。
(計算しろ……! 維持しろ……!) (重力加速度gをキャンセル。座標(x,y,z)を固定!)
「どいて……ッ!!」
私が喉から血を吐くように叫ぶと、親子は弾かれたように我に返り、転がるようにその場から退避した。
安全圏への移動を確認したコンマ一秒後。私は掴んでいた「見えない糸」を断ち切った。
ズズゥゥゥンッ!!!!
鉄骨が落下し、地面を激しく揺らす。もう、誰も下敷きにはなっていない。
静寂。爆発音も、悲鳴も止んだ。三万人の視線が、ステージ上の私一点に注がれている。スポットライトはない。あるのは、燃え盛る機材の炎と、舞い散る火の粉だけ。 それがかえって、この光景を神話的に演出していた。
「ば、馬鹿な……」
舞台袖でへたり込んでいた司堂が、亡霊を見るような目で私を見ていた。
「ありえない……。浮いた……鉄骨が……」
彼の作り出した嘘が、圧倒的な現実の前に粉砕されていく。
私は手の甲で乱暴に鼻血を拭い、炎の方を見た。まだ終わっていない。『ダスク』が仕掛けた爆弾の余波で、ステージ周辺は火の海だ。このままでは煙に巻かれてパニックが再燃する。
「レン! マイク!」
私が叫ぶと、どこからかハウリング音が響いた。レンが生き残ったスピーカーの回線をジャックしたのだ。
「……聞こえますか」
私の声が、会場全体に響き渡る。震えている。でも、もう逃げない。
「伏せてください! ……熱を、逃がします!」
私は両手を広げ、燃え盛る炎に向かって意識を集中させた。酸素の供給を絶つのではない。熱エネルギーのベクトルを、強制的に「上」へと向ける。
━━対流操作。上昇気流生成!
ゴオォォォォォッ!!
周囲の炎が一斉に渦を巻き、竜巻のように天へと昇り始めた。黒煙と熱波が、観客席を避けて夜空へと吸い上げられていく。それはまるで、紅蓮の柱が天を突くようだった。
「おおお……っ!」 「奇跡だ……! 本物の奇跡だ!」
観衆の中から、感嘆の声が漏れる。誰かが跪いた。それを合図に、一人、また一人と、地面にひれ伏していく。恐怖ではなく、畏敬の念を持って。
違う。私は唇を噛んだ。そんなふうに崇められたくてやったんじゃない。
「……顔を上げてください!!」
私はマイクを通して叫んだ。スピーカーが悲鳴を上げるほどの声量で。
「祈らないで! 跪かないで!」
人々が驚いて顔を上げる。私は煤だらけの手で胸を叩いた。
「私は神様なんかじゃない! ……空から降ってきた救世主でもない!」
息を吸い込む。肺に入ってくる煙の味が、生きている実感を与えてくれる。
「私の名前は、瀬戸梨花。……あなたたちと同じ、ただの人間です!」
会場がざわめく。リリアという偶像が剥がれ落ち、等身大の少女がそこにいた。
「理不尽に閉じ込められ、友人を傷つけられ、それでも生きたくてあがいている……怒れる人間です!」
私はステージの端まで歩み寄り、三万人の瞳を見据えた。
「奇跡なんてない。……ここにあるのは、理不尽に対する『抵抗の意志』だけです」
私は瓦礫の上に落ちていた白いローブを拾い上げ、燃え盛る炎の中へと放り投げた。 偽りの聖女の象徴が、灰となって消えていく。
「私は戦います。……私を実験動物にする政府と。あなたたちを盾にして爆弾を仕掛けた卑怯者たちと!」
そして、私は手を差し出した。救いを求める手ではない。共闘を求める手だ。
「一人じゃ勝てない。……だから、力を貸してください」 「祈るんじゃなくて、一緒に怒ってください。……私たちの『生きる場所』を守るために!」
一瞬の沈黙。風の音だけが聞こえた。
そして。
「……ふざけんな政府ぅぅぅッ!!」
誰かの叫び声が、沈黙を破った。それは波紋のように広がった。
「そうだ! あいつら俺たちを殺そうとしやがった!」 「この子を守れ! 彼女は俺たちを助けてくれたぞ!」 「戦え! 戦え! リカ! リカ!」
リリアコールではない。「リカ」コールが、地響きとなって沸き起こった。それは狂信的な依存ではなく、連帯と熱狂を持った革命の狼煙だった。
私は膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪え、群衆を見渡した。ステージの袖で、レンがニカっと笑って親指を立てているのが見えた。そして、そのさらに向こう。公園の外周で監視していたであろう『ダスク』の車が、慌てて撤収していくのが見えた。
勝った。私は今日、偽りの神を殺し、人間として、この巨大な群衆の「リーダー」になったのだ。
夜空を見上げると、煙の切れ間から、鋭い月光が私を照らしていた。その光は、かつてアルメルシアで見た月よりも、冷たく、そして力強く輝いていた。




