第135話:『静かなる陽動と、天才ハッカーの苛立ち』
第135話:『静かなる陽動と、天才ハッカーの苛立ち』
深夜の防衛省地下、サイバー解析室。
普段は低い駆動音だけが響くその部屋は、今、戦場さながらの喧騒と緊張感に包まれていた。
『━━第3ゲートウェイに高負荷! トラフィックが通常の五千倍に跳ね上がっています!』
『パケット内に新種のトロイの木馬を確認! 自己増殖型です、ファイアウォールの第2層が突破されました!』
オペレーターたちの悲鳴のような報告が飛び交う中、巨大なメインモニターは、世界地図に向けて放たれた無数の「赤い矢印」で埋め尽くされていた。
発信元は、アジア大陸の巨大な隣国。
彼らの国営ハッカー集団による、日本のアルメルシア開発コア研究所を狙った、総力戦とも言える大規模なサイバー攻撃が始まったのだ。
「騒ぐな。第3ゲートは物理的に切り離して、トラフィックをダミーのハニーポットへ誘導しろ。トロイは俺が直接叩き潰す!」
部屋の中央で、キャスター付きのチェアに胡座をかいたレンが、凄まじい速度でキーボードを叩き続けていた。
タタタタタタタタッ……!
彼女の指先はもはや残像しか見えない。分厚い眼鏡の奥の瞳は、モニターに流れる膨大な英数字の羅列、マトリックスを正確に読み取り、隣国のハッカーたちが仕掛けてくる複雑怪奇な悪意のコードを、リアルタイムで迎撃し、分解していく。
「……すげぇな。文字通り、指先一つで国を守ってやがる」
背後で腕を組んで見守っていた悠斗が、感嘆の息を漏らした。
「ええ。レンがいなかったら、日本の機密なんてとっくに全部抜かれてるわね」
私も、画面上で展開される目に見えない攻防に、ただ圧倒されるしかなかった。
攻防は数時間に及んだ。
やがて、画面を埋め尽くしていた赤い警告が、潮が引くように一つ、また一つと消えていく。
「……トラフィック、正常値まで低下。敵のアクセス、完全に遮断しました!」
オペレーターの一人が歓喜の声を上げ、解析室に安堵の空気が流れた。
徹夜の死闘の末、レンたちは隣国のサイバー攻撃を完全にシャットアウトしたのだ。
「やったな、レン! 防ぎきったぞ!」
悠斗が声をかけた。
しかし━━振り返ったレンの表情は、勝利の喜びに沸くどころか、異常なほど険しく、忌々しげに歪んでいた。
「……防いだ? 冗談じゃねぇ。こっちが『踊らされてた』だけだ」
レンは親指の爪をガリガリと噛みながら、メインモニターのログを睨みつけた。
「おかしいんだよ。物量は確かに凄まじかったが、使ってきた手口、スクリプトが単調すぎる。あの大国の国営ハッカーなら、もっとエグくて陰湿なバックドアを突いてくるはずだ。……こいつら、本気でサイバー空間からコアデータを盗む気がなかったんだ」
「本気じゃないって……じゃあ、今までの攻撃はなんだったの?」
私が尋ねると、レンはバンッ! とデスクを叩いて立ち上がった。
「『陽動』だ! 日本の防衛省の目を、サイバー空間に釘付けにするための派手な目眩ましだよ!」
レンはキーボードを乱暴に叩き、メインモニターの画面を、山間部にある『アルメルシア開発コア研究所』の物理的な監視カメラの映像群へと切り替えた。
深夜の雨に打たれる、分厚いコンクリートの壁。幾重にも張り巡らされた鉄条網。そして、アサルトライフルを構えて巡回する武装警備隊の姿が映っている。
「局長! 聞こえてるか!」
レンは作戦司令室にいる黒田局長へ通信を繋いだ。
『どうしました、レン君。サイバー攻撃は退けたと報告を受けましたが』
「そんなモニターの中の話はどうでもいい! 今すぐコア研究所の物理的な警戒レベルを最大まで引き上げろ! 奴らの本命は『実働部隊』だ! もう外壁のすぐそこまで来てるかもしれないぞ!」
レンが怒鳴りつける。
しかし、スピーカーから返ってきた黒田局長の声は、どこか官僚的な余裕を含んでいた。
『落ち着きなさい、レン君。コア研究所の警備は万全です。外部からの侵入など、物理的にあり得ない。監視カメラにも、異常は一つも報告されていませんよ』
「だからお前らは平和ボケだって言ってんだよ!!」
レンが、キーボードを叩き割らんばかりの勢いで怒りを爆発させた。
「相手はただのテロリストじゃねぇ! 魔法と暗殺を極めた、国家の特殊部隊だぞ! カメラに映るような間抜けな真似をするわけがないだろうが!!」
レンの叫びが、冷たい解析室に響き渡る。
「サイバー空間の扉に鍵をかけたって、壁ごと爆破して押し入ってくる連中なんだよ! なんでそれがわからねぇんだ……ッ!」
日本政府の甘い認識。過去の教訓を活かせない、硬直した組織の脆弱性。
彼女の苛立ちは、そんな絶望的な現実に対する悲鳴のようだった。
「……行くぞ、梨花」
背後で、重い金属音が鳴った。
振り返ると、悠斗が背中のホルダーに四十キロの大剣『星斬り』を固定し、静かに、しかし絶対の戦意を込めた瞳で私を見ていた。
「ええ」
私は深く頷き、コートのポケットからステッキを引き抜いた。
官僚がカメラの映像を見て安心している間に、現実はすでに書き換えられようとしている。それに気づいているのは、この部屋にいる私たちだけだ。
「レン、私たちは直接コア研究所に向かうわ」
「……頼む。佐藤博士と、コアデータを守ってくれ」
レンは唇を噛み締めながら、私たちに研究所の最短ルートと内部マップのデータを送信してくれた。
見えざる侵略者たちの刃は、もう日本の心臓部へと静かに突き立てられている。
私たちは防衛省の地下を駆け抜け、土砂降りの雨が待つ夜空へと、ステルスヘリで飛び立った。




