第131話:『崩壊する城と、終わらない悪夢』
第131話:『崩壊する城と、終わらない悪夢』
メキメキッ、ゴキッ……!
それは、人間の骨格が耐えうる限界をとうに超えた、ひどく冒涜的な破裂音だった。
玉座の間に、濃密な血の匂いと、鼻を突き刺すような高濃度の化学物質の悪臭が充満していく。
致死量を遥かに超える『魔法薬の原液』を自らの肉体に打ち込んだヴィンセントは、もはや貴族としての端正な面影を完全に失っていた。
彼の背中を突き破って、巨大な象牙のような白骨の棘が何本も生え出し、シャンデリアを粉砕する。腕は丸太のように肥大化し、皮膚は赤黒い筋肉の繊維が剥き出しになったドロドロの粘液に覆われていた。
肩や胸のあたりには、無数の不気味な「眼球」がボコボコと浮かび上がり、ギョロギョロと狂ったように周囲を睥睨している。
『■■■■■ォォォォォォッ!!!!』
人間の声帯から発せられたとは思えない、空気をビリビリと震わせる獣の咆哮。
それは純粋な魔力と薬物の暴走が生み出した、名状しがたい『肉の塔』だった。
「……これが、あなたの求めた『進化』なの? ただの自滅じゃない」
私は、そのあまりにも醜悪な姿に嫌悪感を抱きながら、ステッキを強く握り直した。
『この怪物が!!』
アーサーが叫び、銀色の拳銃の引き金を連続で引いた。
ダァンッ! ダァンッ!
放たれた弾丸は、怪物の肩に浮かび上がった巨大な眼球を的確に撃ち抜いた。しかし、ドロリとした体液が飛び散った直後、その傷口は魔法薬の異常な再生力によって、瞬く間に泡を立てて塞がってしまう。
「チッ、弾丸じゃ埒が明かねぇな!」
悠斗が大剣『星斬り』を構え、じりじりと間合いを図る。
怪物が、丸太のように肥大化した右腕を、私たちに向かって無造作に振り下ろした。
ただの腕のひと振りではない。極限まで圧縮された狂信的な魔力が、暴風となって玉座の間を吹き荒れる。大理石の床が紙屑のように捲れ上がり、猛烈な突風が私たちを壁際へと吹き飛ばそうとした。
「させない!」
私は前に出て、ステッキの先を突風へと向けた。
頭の中で、複雑な流体力学の数式を組み立てる必要はない。ただ、向かってくる暴力的な風が、私たちの目の前にある『見えない楔』にぶつかり、真っ二つに裂けて左右に逸れていく━━その明確な『結果』だけを、強烈にイメージする。
「『気流断絶』!」
ゴォォォォォォッ!!
私の直感的な事象改変が、怪物の放った魔力の暴風を見事に切り裂いた。私たちの立つ数メートルの空間だけが、まるで台風の目のように完全な無風状態となる。
「効いてるぜ、梨花! でも、あのデカブツ、どうやって倒す!?」
暴風をやり過ごした悠斗が叫ぶ。
あの巨体をただ闇雲に斬りつけても、異常な再生力で回復されるだけだ。何か、あの無茶苦茶な変異を繋ぎ止めている『核』があるはず。
私はステッキのクリスタルを輝かせ、怪物の体内の熱量、エネルギーの分布を感覚で探った。
ドクン……ドクン……。
見えた。赤黒く膨張した胸の中央、分厚い筋肉と骨の鎧に守られた最深部に、太陽のように異常な熱と魔力を放つ『極小の心臓、コア』がある。
「悠斗! 胸のど真ん中よ! あそこに、魔法薬のエネルギーが異常に濃縮された『核』がある! あれを砕けば、あの肉体は自重と矛盾に耐えきれなくなって自壊するはずよ!」
「胸のど真ん中だな。了解だ!」
悠斗が『星斬り』を両手で強く握りしめ、深く腰を落とした。
『私が道を作る! 合わせろ、特異点!』
アーサーが、残弾を確認しながら壁の瓦礫を蹴って走り出した。
彼は怪物の死角へと回り込みながら、銃口を胸部の分厚い骨の鎧へと向ける。
『そこかァッ!』
ダァンッ! ダァンッ! ダァンッ!
アーサーの放った三発の弾丸は、寸分違わず同じ一点━━胸の骨の鎧の継ぎ目━━に命中し、ピキッ、と小さな亀裂を走らせた。
『■■■■ォォォッ!?』
小バエに刺されたような痛みに、怪物が忌々しげに咆哮し、アーサーに向けて巨大な左腕を振りかぶる。
「よそ見してるんじゃないわよ!」
私はステッキを天に掲げた。
怪物の足元、大理石の床にかかる重力のベクトルを、頭の中のイメージだけで「下」から「超重圧」へと書き換える。
「『重力拘束』ッ!!」
ズドォォォォォンッ!!
怪物の足元の床が、すり鉢状に深く陥没した。見えない数十トンの鎖に足を引っ張られたように、肉の塔がガクンと体勢を崩し、振り上げようとした左腕が重力に負けて床に縫い付けられる。
「オラァァァァァッ!!」
その完璧な隙を突き、悠斗が床を蹴って宙へと跳躍した。
狙うは、アーサーの銃弾が亀裂を入れた、怪物の胸の中央。
「いけぇっ、悠斗!」
私は彼を後押しするため、悠斗の身体を包む空気の抵抗、摩擦を完全にゼロへと書き換え、さらに背中から爆発的な推進力、追い風を与える結果をイメージした。
空気の壁を突き破り、悠斗の身体が砲弾のような速度で空中を駆け抜ける。
四十キロの漆黒の鉄塊『星斬り』が、月明かりを反射して眩い銀色の軌跡を描き、重力と加速のすべてを乗せた究極の一撃となって、怪物の胸へと叩き込まれた。
「『星斬り・隕星衝』ッ!!!!」
ドゴォォォォォォォォォォンッ!!!!
轟音と共に、骨の鎧が砕け散る。
悠斗の放った純粋な物理的破壊力と大質量は、分厚い筋肉の壁を容易く貫通し、その奥で妖しく脈打っていた黄金色の『核』を、見事に粉砕した。
『ガッ……アァ……!?』
怪物の動きが、ピタリと止まった。
胸の奥深くから、パリンッ、というガラスが割れるような甲高い音が響いたかと思うと、その亀裂から強烈な紫色の閃光が四方八方へと噴き出し始めた。
『バ、カな……。至高の……真理が……』
閃光の中で、ヴィンセントの本来の声が微かに木霊した。
無理やり肉体を繋ぎ止めていた暗示の枷が外れ、行き場を失った膨大な魔力と化学物質が、怪物の肉体を内側から急速に溶かし始めたのだ。
「……決まったな」
悠斗が空中で身を翻し、軽やかに床に着地して大剣を背中のホルダーに収めた。
しかし、勝利の余韻に浸る暇はなかった。
ドドドドドッ……!!
ヴィンセントの肉体が崩壊する際に放たれた強大な魔力の衝撃波が、玉座の間の壁や柱を直撃し、凄まじい地鳴りを引き起こしたのだ。
天井のフレスコ画がひび割れ、巨大な石の破片がパラパラと降り注いでくる。元々、ヴィンセントの魔法薬の力で無理やり構造を維持していたこの黄昏の古城は、主の死と共に、完全にその寿命を迎えようとしていた。
「城が崩れるわ! 脱出するわよ!」
私が叫ぶと、アーサーが部屋の隅で気絶していたクロエの首根っこを掴んで肩に担ぎ上げた。
『この女は、ヨーロッパの裏社会を暴くための重要な証拠だ。連れて行く!』
ガラガラガラッ!
私たちが来た隠し通路への扉が、崩落した巨大な瓦礫によって完全に塞がれてしまった。
足元の大理石が斜めに傾き、城の最上階そのものが、森へと向かって崩れ落ちようとしている。
「出口がないぞ!」
悠斗が舌打ちをする。
「こっちよ!」
私は迷わず、月明かりが差し込んでいる、粉々に砕け散った巨大なステンドグラスの窓枠へと走り出した。
「飛ぶわよ!」
「マジかよ! ここ、何十メートルあると思ってんだ!」
『正気か、特異点!』
躊躇している時間はない。
足元の床が完全に抜け落ちる瞬間、私は悠斗とアーサーの背中を押し、夜空へ向かって大きく身を躍らせた。
耳元で、風がヒュウヒュウと恐ろしい音を立てて通り過ぎる。
眼下には、真っ暗な森の木々が、鋭い槍のように私たちを待ち構えていた。
落下する恐怖。
でも、私はもうパニックにはならない。物理の法則は、すでに私の手の中にある。
「大丈夫。私を信じて!」
私はステッキを強く握りしめ、自分たちの身体にかかる重力加速度が、ふわりとした浮力へと反転する結果を、心の底から強烈にイメージした。
「『減速』ッ!!」
直後。
私たちの身体を、見えない巨大な羽毛のクッションが優しく受け止めたかのように、猛烈な落下速度がフワリと殺された。
まるでパラグライダーで夜空を滑空しているかのように、私たちは風に乗り、崩れ落ちる古城から遠ざかっていく。
背後で、ズドォォォォォンッ!! という鼓膜を劈くような轟音が轟いた。
振り返ると、幾つもの尖塔を持っていたシャトー・ド・ローゼンバーグの最上階が、土煙を上げながら完全に森の中へと崩落していく光景が見えた。
狂乱の錬金術師の野望と、地下に囚われていた無数の悲劇たちを、その瓦礫の底へと深く、深く葬り去りながら。
***
数分後。
私たちは古城から十分に離れた、森の開けた草地へと静かに着地した。
「……死ぬかと思ったぜ」
悠斗が草の上に大の字に寝転がり、大きく息を吐き出した。
『……全く同感だ。寿命が十年は縮んだよ』
アーサーもクロエを草むらに放り出し、燕尾服の土埃を払いながら、疲れ切った顔で苦笑した。
「でも、全員無事よ。……それに、これで終わったわ」
私はステッキをしまい、夜風に乱れた髪をかき上げながら、森の向こうで土煙を上げる古城の残骸を見つめた。
ヨーロッパの闇を牛耳り、魔法薬で世界を狂わせようとした「薔薇の血族」の終焉。
歴史と血統に囚われたオカルトの亡霊たちは、現代の物理学と、決して揺るがない騎士の盾の前に、完全に打ち砕かれたのだ。
ふと東の空を見上げると、分厚い灰色の雲の切れ間から、薄っすらと白み始めた夜明けの光が差し込み始めていた。
長かった黄昏の夜が終わり、新たな朝が来ようとしている。
けれど、私の胸の奥には、まだ微かな「棘」のような不安が残っていた。あのヴィンセントの狂気は、本当に彼ら一族だけの妄想だったのだろうか。アルメルシアという世界のシステムは、私たちの知らないところで、もっと深く、別の形でこの現実世界に根を張り始めているのではないか。
そんな予感を抱えながらも、私は今はただ、無事に生き残れた仲間たちと共に、この冷たくも美しいヨーロッパの夜明けを静かに見つめていた。




