第125話:『仮面舞踏会(マスカレード)への招待状と、偽りの貴族』
第125話:『仮面舞踏会への招待状と、偽りの貴族』
花の都パリの中心部から少し離れた、ユーロポールのセーフハウス。
アンティークの家具が並ぶ豪奢な一室で、アーサーはカタコンベでクロエが落としていった漆黒のカードを、ピンセットで慎重に裏返していた。
『……特殊な不可視インクで印刷されている。日時と場所は、明日の夜。フランス郊外、ロワール地方の深い森にそびえ立つ、ローゼンバーグ家の本城だ』
アーサーが手元のブラックライトを当てると、何もない黒いカードの表面に、剣に絡みつく不気味な薔薇の紋章と、流麗なフランス語の文字が青白く浮かび上がった。
「仮面舞踏会、ね。……いかにもヨーロッパの貴族が好みそうな悪趣味なイベントだわ」
私は腕組みをして、その光る文字を見つめた。
「そこで、魔法薬と暗示による『進化の儀式』が行われる。……ヨーロッパ中に散らばるカルトの信者や、薬の力で特権階級の優越感に浸りたい富裕層たちが集まる狂宴よ。元を断つには、絶好の機会じゃない」
『ああ。だが、問題はどうやって潜入するかだ。この招待状には「同伴者二名まで」とあるが、城の警備は厳重を極めるだろう』
アーサーが眉間を揉みほぐす。
「普通に正面からお呼ばれすればいいじゃない。……もちろん、それに相応しい『仮装』をして、ね」
私は、カードに記された「ドレスコード」の文字を指差した。
***
翌日の夕刻。
セーフハウスの広い姿見の前で、私は思わず深いため息をついた。
「……重い。それに、息が詰まりそう」
私が身に纏っていたのは、アーサーがユーロポールの伝手で用意してくれた、中世ヨーロッパの王侯貴族が着るような、豪奢を極めたドレスだった。
深いサファイアブルーのベルベット生地に、金糸で緻密な百合の刺繍が施されている。幾重にも重なったペチコートがスカートを大きく膨らませ、コルセットが肋骨を容赦なく締め付けていた。胸元には、本物のアンティークだという大粒のダイヤモンドのネックレスが冷たく光っている。
「似合ってるじゃねぇか。……ちょっと、お姫様すぎる気もするけどな」
背後から声をかけてきた悠斗の姿を見て、私は思わず目を見張った。
彼もまた、漆黒のフロックコートに、純白のフリルがあしらわれたクラバット(ネクタイの原型)を締め、見違えるような貴族の青年に扮していた。普段のぶっきらぼうな態度からは想像もつかないほど、その仕立ての良さが彼の長身と引き締まった体躯を際立たせている。
「悠斗こそ、どこかの国の王子様みたいよ。……その背中の『大剣』さえなければね」
私がくすりと笑うと、悠斗はバツの悪そうに首の後ろを掻いた。
彼の背中には、四十キロの『星斬り』が背負われている。もちろん、私の『質量隠蔽』と『光学迷彩』の魔法によって完全に透明化され、重量も消し去っているため、傍目には手ぶらにしか見えない。私のステッキも、ドレスの膨らみの中に仕込んだ特製のホルダーに隠してある。
『準備はいいか。時間がないぞ』
部屋に入ってきたアーサーは、私たちとは少し違う、執事や従者を思わせる燕尾服に身を包んでいた。彼は顔の半分を覆う、装飾の施された銀色のハーフマスクを手にしている。
『私は君たちの「従者」として同行する。東洋から招かれた若き富豪の兄妹、という設定だ。……城内に入ったら、この仮面を絶対に外すな。身元が割れれば、その瞬間に我々は蜂の巣だ』
アーサーから手渡された、孔雀の羽があしらわれた美しい仮面。
私はそれを顔に当て、鏡の中の「偽りの貴族」と視線を交わした。
「……行きましょう。狂乱の宴の幕開けよ」
***
ロワール地方の深い森を、クラシックな黒いロールスロイスが静かに進んでいく。
舗装されていない石畳の道を抜けた先、鬱蒼と茂る古木の間から、それは突如として姿を現した。
シャトー・ド・ローゼンバーグ。
夕闇が迫る黄昏の空の下、鋭い尖塔を幾つも天に突き立てたその巨大な古城は、まるで森の奥で獲物を待つ巨大な怪物のようだった。
何百年もの風雨に耐えてきた黒ずんだ石積みの外壁には、太い蔦が這い回り、城の窓からは、血のように赤い不気味な光が漏れ出している。
『……着いたぞ。気を引き締めろ』
運転席のアーサーが低く囁き、車は城の巨大な鉄格子の門の前で停車した。
私と悠斗が車を降りると、すでに城門の前には、ヨーロッパ各地から集まったと思われる高級車が何台も列をなしていた。
降りてくるのは皆、私たちと同じように中世の衣装に身を包み、仮面で顔を隠した男女ばかりだ。だが、彼らの様子はどこか異常だった。
足取りはフワフワとおぼつかなく、仮面の奥の瞳は異常なほどに見開かれ、淀んだ光を宿している。明らかに、すでに『魔法薬』を摂取し、強力な暗示の世界に片足を突っ込んでいる者たちの姿だった。
私たちは無言のまま、招待状を城の門番(彼らもまた、異様に隆起した筋肉を持つ薬物依存者だった)に提示し、重々しい木の扉をくぐった。
「……すごいな。映画のセットなんか目じゃねぇぞ」
城の内部に足を踏み入れた瞬間、悠斗が仮面の下で小さく息を呑んだ。
広大なエントランスホール。
天井からは、何千ものクリスタルが輝く巨大なシャンデリアが吊り下げられ、眩い光を床の大理石に反射させている。
しかし、その絢爛豪華な光景とは裏腹に、壁に飾られている絵画はどれも異常だった。首のない聖人、血の海を泳ぐ天使、そして、無数の獣が人間を貪り食う地獄絵図。
さらに、空調の効いた室内に充満しているのは、甘ったるい香水と、血の錆びたような鉄の匂い、そして……微かな、獣の獣臭さだった。
『ようこそ、迷える子羊たち。薔薇の血族が主催する、進化の晩餐へ』
ホールの奥、バルコニーのような高みから、朗々とした男の声が響き渡った。
ホールに集まっていた数百人の仮面の貴族たちが、一斉に歓声を上げ、あるいは陶酔の溜息を漏らしてその声を見上げる。
そこに立っていたのは、真紅のベルベットのマントを羽織った、痩身の男だった。
年齢は三十代半ばだろうか。青白い肌に、血のように赤い唇。金糸の髪を長く伸ばし、その手には、半分が黄金、半分が鈍い鉛でできた奇妙な杖を握っている。
男の隣には、カタコンベで取り逃がした毒使いの魔女、クロエが寄り添い、妖艶な笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。
『あれが……ローゼンバーグ家の当主、ヴィンセントだ』
背後に控えるアーサーが、押し殺した声で囁く。
『さあ、今宵も乾杯しよう。古き肉体の殻を捨て、我ら特権階級が神の領域へと至るための、この至高の霊薬に!』
ヴィンセントが高々と黄金の杯を掲げた。
その瞬間、ホールのあちこちに控えていた従者たちが、銀の盆に載せた真紅のワイングラスを招待客たちに配り始めた。
いや、それはワインではない。グラスの中でドロドロと波打つ、極度に濃縮された『魔法薬』だ。
招待客たちは、飢えた獣のようにグラスに群がり、その紫がかった液体を一気に飲み干していく。
「ヒャァァァァァッ!!」
「素晴らしい……力が、力が湧いてくるぞォッ!!」
狂乱が、ホールを支配し始めた。
ある者は自らの皮膚を掻きむしりながら空中にフワフワと浮かび上がり、ある者は口から青い炎を吐き出してシャンデリアを燃やす。
極限の薬物と暗示によって、人為的に引き出された異能。
彼らは自分が選ばれた魔術師になったと信じ込み、その異常な力を無差別に振りまいていた。
「……地獄ね。欲に目が眩んだ大人たちの、醜い見本市だわ」
私は、配られそうになったグラスを冷たく拒絶し、ドレスの影でステッキの柄を強く握りしめた。
その時だった。
『……おや。まだ進化の杯を口にしていない、愚かで、そして見慣れないネズミが三匹ほど紛れ込んでいるようだな』
バルコニーから見下ろすヴィンセントの、蛇のように冷たい視線が、ホールの中央に立つ私たちを真っ直ぐに射抜いた。
クロエが口元を歪め、ヴィンセントの耳元で何かを囁く。
『なるほど。アメリカの市場を荒らし、私の愛しいカタコンベの庭を荒らした、生意気な東洋の子供たちか。……それに、ユーロポールの猟犬も一緒とはね』
ヴィンセントが指を鳴らすと、ホールの重厚な扉が、バタンッ! と巨大な音を立てて完全に封鎖された。
狂喜乱舞していた仮面の貴族たちの動きがピタリと止まり、彼らは一斉に、その淀んだ赤い目を私たちへと向けた。
何百という悪意と、制御不可能な異能の波が、私たちを完全に包囲している。
「……バレるのが早すぎるわよ、アーサー」
私がため息混じりに零すと、アーサーは燕尾服の懐から銀色の大型拳銃を引き抜き、鋭く撃鉄を起こした。
『面目ない。だが、元よりこうなる覚悟はできていたはずだ』
「上等だ。……仮面劇はこれで終わりだな」
悠斗が自らの顔から仮面を剥ぎ取り、虚空に向かって手を伸ばした。
私が隠蔽の魔法を解除すると同時に、彼の右手に四十キロの漆黒の鉄塊━━『星斬り』が実体化し、大理石の床を重く叩き割った。
血と薬の匂いが充満する密室。
黄昏の古城を舞台にした、狂乱の晩餐会の火蓋が、今、切って落とされた。




