第118話:『文化(カルチャー)の翻訳と、新しい必殺技』
第118話:『文化の翻訳と、新しい必殺技』
夜のキャンプ・リバティは、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
無機質な廊下を歩いていると、誰もいないはずの第1訓練アリーナから、鈍い衝撃音が微かに聞こえてきた。
すりガラス越しに中を覗くと、ジャックがサンドバッグに向かって黙々と拳を打ち込んでいるのが見えた。
彼の顔に、いつもの自信満々でアメリカンな笑顔はない。ただ悔しそうに、何度も何度も自分の拳を見つめては、また力任せにサンドバッグを殴りつけている。銀行での大失態が、彼の「ヒーロー」としてのプライドを粉々に砕いたのだ。
そして、施設内にある小さな礼拝堂には、ステンドグラスから差し込む月明かりの下で、膝をついて祈り続けるサラの姿があった。
彼女は銀のクロスを握りしめたまま、微かに肩を震わせている。己の信仰心が揺らぎ、人質を危険に晒してしまった自分を、神に赦してもらおうと必死に懺悔しているのだろう。
「……落ち込んでるわね、二人とも」
私は自販機で買ったホットココアの紙コップを握りしめ、ため息をついた。
「当たり前だ。自分が『正義』だと信じて疑わなかった連中が、初めて現実の重さを知ったんだからな」
隣に並んだ悠斗が、缶コーヒーを傾けながら言う。
「私のせいよ。教官として、彼らに正しい力の使い方を教えられなかった」
私はココアの水面を見つめた。
「でも、どうすればいいの? 彼らには物理学の数式も、エネルギー保存の法則も通じない。言葉は翻訳機で通じるのに、頭の中の『魔法のルール』が違いすぎるのよ」
悠斗は空になった缶をゴミ箱に放り投げ、私に向き直った。
「あいつらに教科書は通じねぇよ、梨花。……お前がやってるのは、英語しか知らない奴に、いきなり日本語の文法書を読ませてるようなもんだ」
「それは……そうかもしれないけど」
「翻訳してやれよ」
「翻訳?」
「言葉じゃなくて、『文化』の翻訳だ」
悠斗は、ジャックが汗を流しているアリーナの方へ視線を向けた。
「ジャックの頭の中は『アメコミ』で、サラの頭の中は『聖書』だ。だったら、お前の持ってる物理の知識を、あいつらの『物語』に合わせて翻訳して教えればいい。……お前なら、できるだろ?」
悠斗の言葉が、霧が晴れるように私の心にストンと落ちた。
そうだ。私は「正しい物理学」を教えることに固執しすぎていた。彼らに必要なのは学者になることではなく、魔法を制御して誰かを守れるようになることだ。
彼らのイメージの基盤を否定するのではなく、それに寄り添い、物理学という「補助輪」を取り付けてやればいいのだ。
私は残りのココアを一気に飲み干し、力強く頷いた。
「……ええ。やってみるわ。あつっ!」
ホットココアはまだ少し熱くて、舌を火傷した。
***
翌朝。
私はジャックとサラを、再び第1訓練アリーナへと呼び出した。
二人の顔には明白な疲労と、自信喪失の色が濃く浮かんでいる。
「ヘイ、リリア……。今日は何の授業だ? また黒板に数式を書くのか?」
ジャックが力なく笑う。
「いいえ。今日は数式は使わないわ」
私はホワイトボードを部屋の隅に追いやり、二人の前に立った。
「ジャック。あなたに、新しい『必殺技』を授けるわ」
『……必殺技?』
ジャックの青い瞳に、微かに光が戻った。
「ええ。昨日のあなたの『ジャスティス・バスター』は威力が強すぎる。あれじゃあ、ヴィラン(悪党)を倒せても街が吹き飛んじゃうわ。真のヒーローは、周囲への被害を最小限に抑えつつ、敵だけを正確に撃ち抜くものよ」
私は、彼が愛してやまないコミックの文法に沿って言葉を紡ぐ。
「だから、エネルギーを『面』で爆発させるんじゃなくて、『点』に集中させるのよ。……アイア〇マンの手のひらや、スーパー〇ンの目から出るビームを思い出して。あれは光のエネルギーをレンズで『集光』させているの」
「フォーカス……」
「そう。あなたの魔法に、見えない『凸レンズ』をイメージして。撃ち出したエネルギーを、一点に収束させる照準補正よ。そうすれば、無駄な爆発は起きないし、威力も何倍にも跳ね上がるわ」
ジャックは自分の掌をじっと見つめ、何かを掴むように指を動かした。
『見えないレンズ……一点に、集中……。よし、やってみる!』
ジャックはアリーナの端にある分厚いチタン合金の標的を睨みつけた。
彼は深く息を吸い込み、掌を突き出す。今度は無駄な力みはない。
『フォーカス……! 喰らえ、ジャスティス・レイッ!!』
ピシュゥゥゥゥッ!!
爆音ではなく、空気を切り裂くような鋭い音が響いた。
ジャックの掌から放たれたのは、極太の光弾ではなく、指の太さほどの凝縮されたレーザーのような光線だった。
光線はチタン合金の標的を音もなく貫通し、背後の緩衝材の壁に小さな、しかし深く焦げた穴を開けた。周囲への爆風も、衝撃音も全くない。
『す、すげぇ……! 貫通した! しかも周りが全然壊れてない!』
ジャックは興奮して飛び跳ねた。
「成功よ、ジャック。それが、物理法則(レンズの集光)を利用したあなたの新しい力。……悪党の武器だけを撃ち抜く、スナイパーのようなヒーローになれるわ」
『サンキュー、リリア! 俺、この感覚絶対に忘れないぜ!』
ジャックの顔に、いつもの太陽のような笑顔が戻った。
「さて、次はあなたよ、サラ」
私は、信じられないものを見るような目でジャックを見つめていたサラに向き直った。
『私……私には、無理です。私の信仰心は弱くて、昨日のように心が揺らげば、また人を傷つけてしまうかもしれない……』
サラが胸のクロスを強く握りしめる。
「サラ。神様がこの世界を創ったのだとしたら、『物理法則』とは何だと思う?」
『え……?』
「重力が物を地面に引き寄せること。光が真っ直ぐに進むこと。それはすべて、神様がこの世界が崩れないように定めた『理』なのよ」
私は彼女の目を見て、優しく、けれど力強く語りかけた。
「あなたの魔法は、神様からの贈り物よ。でも、ただ神様に『守ってください』と祈るだけじゃダメ。神様が創ったこの世界の『理』を理解し、自分の意志でそれを組み上げなければならないの」
『神様が創った、世界の理……』
「昨日の犯人が使った、心を操る魔法。あれは『光』としてあなたの目から脳に侵入したわ。もしまた同じ攻撃が来たら、光を曲げる『プリズム』の壁をイメージして。あるいは、電気信号を遮断する『ファラデーケージ』という聖域を」
私は彼女に、ただの気休めではなく、物理的に確実に自分を守れる強固なイメージの「設計図」を渡した。
信仰心という土台の上に、物理法則という絶対的なレンガを積ませるのだ。
「神様を信じると同時に、この世界を構成する法則の『強さ』を信じるのよ。そうすれば、あなたの心に多少の迷いが生じても、壁は決して崩れないわ」
サラはハッとして顔を上げた。
彼女の目から迷いが消え、代わりに、世界への新しい理解の光が宿っていくのがわかった。
『……やってみます。主の創りたもうた、この世界の理と共に』
サラが両手を組んで祈りを捧げると、彼女の周囲に黄金の光が展開された。
しかし、昨日までの漠然とした「聖域」ではない。そこには、六角形のハニカム構造のような、物理的な強度を思わせる幾何学的な模様が浮かび上がっていた。
悠斗が先ほどよりも強く『星斬り』の峰で打ち据えるが、光の壁は揺らぎすらしない。彼女の精神が、物理的なイメージによって強固に守護されていた。
「……見事な翻訳だ」
悠斗が剣を下ろし、満足そうに笑った。
言葉の壁を超え、文化の壁を超えて。
私たちのアメリカでの「教官」としての本当の仕事は、ここからようやく軌道に乗り始めたのだ。




