第117話:『暴走する正義(ヒーロー)と、摩天楼の悲鳴』
第117話:『暴走する正義と、摩天楼の悲鳴』
ニューヨーク、マンハッタン。
世界経済の中心地であるウォール街の一角が、けたたましいサイレンと赤色灯の海に沈んでいた。
「状況は最悪だ。犯人グループは銀行のメインフロアを制圧。人質は約三十名」
現場指揮を執るNYPD(ニューヨーク市警)の警部が、渋い顔でタブレットの図面を叩いた。
「犯人は四名。……目撃情報によると、奴らは『壁をすり抜けて』金庫室へ侵入したそうだ。物理的なバリケードも意味をなさない」
「透過能力か……」
私は腕組みをして、黄色い規制線の向こうにある重厚な銀行の建物を睨んだ。
量子トンネル効果をマクロなレベルで再現しているのか、それとも自身の体を素粒子レベルで分解・再構築しているのか。いずれにせよ、物理攻撃が効かない厄介な相手だ。
「よし、突入プランを練りましょう。まずは私が建物の構造材に干渉して、彼らの退路を……」
『ヘイヘイ、リリア! 何をちんたらやってるんだ?』
私が作戦を提案しようとした矢先、隣でウォーミングアップをしていたジャックが、退屈そうに首を鳴らした。
『悪党が中にいるんだろ? だったら話は早い。俺が正面からドカンと一発かまして、その隙にサラが人質をバリアで守る。完璧なプランだろ?』
「はあ? 何言ってるの」
私は目を丸くした。
「相手は人質を取ってるのよ! 爆発なんてさせたら、建物の崩落に巻き込まれて……」
『大丈夫さ! 俺は「正義の味方」だぜ? ヒーローの攻撃は、悪党にしか当たらないようになってるんだよ!』
ジャックは根拠のない自信満々の笑みを浮かべ、制止する警官たちの肩をポンと叩いて前に出た。
『行くぜ、サラ! ショータイムだ!』
『は、はいっ! 主よ、我らの道をお守りください……!』
「ちょっ、待ちなさい! ジャック!!」
私の叫びも虚しく。
ジャックは規制線を飛び越え、銀行の正面玄関に向けて掌を突き出した。
『悪党ども、これでも喰らえ、ジャスティス・バスターッ!!』
ズドォォォォォォンッ!!!!
閃光と共に、銀行の分厚い強化ガラスと回転扉が、内側に向けて派手に吹き飛んだ。
もうもうと立ち込める粉塵。ジャックは「ヒャッハー!」と快哉を叫びながら、土煙の中へと突撃していく。
サラも慌ててその後を追い、胸の前で十字を切って光の障壁を展開した。
「……あのアホが!!」
悠斗が怒号を上げ、私たちも慌てて後を追った。
***
銀行のロビーは、地獄のような惨状だった。
ジャックの放ったエネルギー弾の余波で、受付カウンターは半壊し、壁には巨大な焦げ跡がついている。
そして何より━━。
「キャァァァァァッ!!」
「助けてくれぇぇぇッ!!」
床に伏せていた人質たちが、爆風と崩落した瓦礫の恐怖にパニックを起こし、悲鳴を上げて逃げ惑っていた。
彼らにとって、ジャックは救世主ではない。突然ドアを爆破して押し入ってきた、新たなテロリストにしか見えていないのだ。
『ヘイ、みんな! 安心してくれ、俺が来たからにはもう大丈夫……』
ジャックがポーズを決めて呼びかけようとした瞬間。
『━━なんだ、この馬鹿スカな火力は』
土煙の奥から、低い声が響いた。
黒い目出し帽を被った犯人の一人が、ライフルの銃口をこちらに向けて立っていた。
いや、「立っていた」のではない。彼の下半身は、床のタイルの中に半分埋まっていた。まるで水に浸かるように、コンクリートを透過しているのだ。
『見つけたぞ、悪党!』
ジャックは躊躇なく、その犯人に向けて光弾を放った。
ドォンッ!
凄まじい熱線が犯人を直撃する━━はずだった。
フッ。
光弾が犯人の体に触れた瞬間、彼の体が揺らぎ、光は何の抵抗もなくその体を「すり抜け」ていった。
そして、その背後にあった大理石の太い支柱を直撃し、粉々に粉砕した。
『なっ!?』
ジャックが驚愕に目を見開く。
ズゴゴゴゴッ……!
支柱を失った天井の一部が崩落し、逃げ遅れた女性客の頭上へと巨大な瓦礫が降り注ぐ。
『危ないっ!』
サラが悲鳴を上げ、咄嗟に両手をかざした。
『聖なる盾!』
金色の光の障壁が出現し、瓦礫を受け止める。
間一髪だった。だが、サラの表情は蒼白だ。
『ククク……神頼みか? 無駄だ』
別の犯人が、サラの背後の壁から「ぬっ」と上半身だけを出現させた。
彼は実体化した手で、サラの首元にナイフを突きつけた。だが、真の狙いは物理攻撃ではない。彼の目から、毒々しい紫色の光が放たれた。
(あの色は……アルメルシアで嫌というほど見てきた、状態異常特有の淀んだ光……!)
私は直感した。あれは対象の心を直接かき乱す、『精神干渉』の魔法だ。
『お前の神はここにはいない。……見ろ、お前らのせいで、罪のない人間が血を流しているぞ?』
『ひっ……!?』
サラが視線を向けた先。ジャックの爆風で割れたガラス片が、人質の腕を切り裂き、赤い血が流れていた。
守るべき人々を、自分たちが傷つけた。
その事実は、彼女の清廉潔白な信仰心を根底から揺さぶるのに十分だった。
『私が……傷つけた……? 嘘、嘘よ……神様、どうして……』
サラの瞳が揺らぎ、焦点が合わなくなる。
途端に、彼女が展開していた光の障壁がノイズのように点滅し、フッと消滅した。
支えていた瓦礫が、再び人質の頭上へと落下を始める。
ジャックは透過する敵に翻弄され、サラは心が折れて動けない。
完全に、詰み(チェックメイト)だった。
「……そこまでだ」
その絶望的な時間を、冷徹な声が切り裂いた。
ドゴォォォォンッ!!
落下しかけた巨大な瓦礫が、横から叩き込まれた「見えない衝撃波」によって吹き飛ばされ、粉々になって壁際へと散った。
『え……?』
サラが呆然と顔を上げる。
そこには、ステッキを構えた私が立っていた。
「悠斗!」
「おうっ!」
私の合図と共に、悠斗が床を蹴った。
彼の狙いは、ジャックを嘲笑っていた透過能力者の男。
男はニヤリと笑い、再び床へと沈んで攻撃を回避しようとした。
『無駄だ、物理攻撃は通じな……がはっ!?』
ドスッ!!
男が床に沈みきる直前。悠斗の大剣の柄が、男の鳩尾に深々とめり込んでいた。
『な、なぜ……俺は実体を消して……』
「消してねぇよ。お前は自分の密度を変えて、原子の隙間をすり抜けてるだけだ」
悠斗は男の胸ぐらを掴んで引きずり出した。
「すり抜ける瞬間、お前は床と接触するために、必ず一瞬だけ『実体化』する。……そこを狙ったんだよ」
コンマ一秒の物質化を見切る動体視力と、神速の踏み込み。
それは魔法ではない。悠斗がアルメルシアで何万回と繰り返してきた、純粋な戦闘技術スキルだ。
「ジャック、サラ。下がってなさい」
私はステッキを掲げ、パニックになっている人質たちと、残りの犯人たちの間に割って入った。
「『重力結界』」
ステッキを振ると、透明な重力の壁が展開された。
犯人たちが放った銃弾は、壁に触れた瞬間に真下へと叩き落とされる。サラの「聖域」のような信仰心に依存したものではない。物理法則としてそこに存在する、絶対的な拒絶の壁だ。
「……これが、本物の魔法使い……」
ジャックは、自分の手が引き起こした惨状と、私たちが冷静に制圧していく光景を見比べ、力なくその場に膝をついた。
NYPDの特殊部隊が突入し、犯人たちを確保していく。
人質たちは救助されたが、彼らはジャックとサラに感謝するどころか、恐怖に歪んだ目で二人を見ていた。
『バケモノめ……! 殺されるところだったぞ!』
『近寄るな!』
罵声が、二人の若い「ヒーロー」に浴びせられる。
サラは顔を覆って泣き出し、ジャックは信じられないものを見るように、自分の両手を見つめて震えていた。
『俺は……助けようと……』
「……わかったでしょ」
私はジャックの前に立ち、冷たく言い放った。
「これが現実よ。コミックの中なら、爆発の後にはハッピーエンドが待っているかもしれない。でも、現実には痛みと、恐怖と、責任だけが残るの」
暴走した正義の代償。
摩天楼の谷間に響くサイレンの音は、彼らにとって初めての、そして痛烈な敗北の合図だった。




