第110話:『反逆の地図と、越境の覚悟』
第110話:『反逆の地図と、越境の覚悟』
防衛省の地下深くにある医務室は、漂白されたような純白の光と、消毒液の冷たい匂いに満ちていた。
すりガラス越しに見える隣の病室では、泥を洗い落とされた咲が、鎮静剤を打たれてベッドで眠っている。彼女の小さな胸が規則正しく上下しているのを確認し、私は小さく息を吐いた。
その向かいのベッドでは、光輝が両手で頭を抱えるようにしてうずくまっていた。ガントレットを外された彼の手は、まだ微かに震えている。
「……命に別状はない。だが、二人とも重度のPTSD(心的外傷後ストレス障害)を発症する危険性がある」
電子カルテから目を離した佐藤博士が、苦渋に満ちた声で告げた。
「あの凄惨な戦場……本物の死と直面したのだ。中学生と、いくら不良ぶっていても所詮は普通の青年だ。心が壊れなかっただけでも奇跡に近い」
「もう、あの子たちを実戦に出さないでください」
私は、静かに、けれど絶対に譲らない意志を込めて言った。
「もし防衛省が再び彼らを戦場に引きずり出そうとするなら……私は、政府を敵に回してでも彼らを連れて逃げます」
「……わかっている、梨花ちゃん」
佐藤博士は深く頷き、私の肩に優しく手を置いた。
「彼らのケアは私が責任を持つ。……だが、君たちはこれから、もっと過酷な場所へ向かおうとしているのだろう?」
「ええ」
私は医務室の冷たい扉を見つめた。
この扉の向こう側、作戦司令室では、すでに私たちの「反逆」を巡る激しい議論が始まっているはずだ。
***
「正気の沙汰ではない! 某国の軍事中枢への逆侵攻など、事実上の『宣戦布告』だぞ!」
重厚な防爆扉を開けて作戦司令室に入ると、黒田局長の怒声が円卓に響き渡っていた。
普段は冷徹な彼が、額に青筋を立てて声を荒らげている。その正面では、悠斗が腕を組み、一切怯むことなく立ち尽くしていた。
「あいつらはすでに宣戦布告してきてるだろうが」
悠斗が低く、地を這うような声で返す。
「日本海でのプラント占拠、富士演習場への急襲。……全部、あいつらが仕掛けてきたことだ。守りに徹していても、あいつらは何度でも新しい『子供の兵器』を送ってくる。元を絶たなきゃ終わらねぇ」
「国際政治は路地裏の喧嘩ではないんだ、神崎君!」
黒田がテーブルを叩く。
「証拠がないのだ! 彼らは『あれは我が国の正規軍ではない。武装テロリストだ』とシラを切り通している。そんな状況で、我が国が他国の領土へ軍事介入を行えば、世界中から非難を浴びるのは日本の方だ!」
「政治の都合なんか知るかよ。……だったら俺たち二人だけで行く」
「君たちは国の管理下にある特異点だ! 勝手な行動は許さん!」
「……なら、私たちが『勝手に脱走した』ことにすればいいんじゃないですか?」
私が悠斗の隣に並び立ち、黒田の目を真っ直ぐに見据えて言った。
黒田が息を呑む。
「私たちは防衛省の命令を無視して、テロリストとして国境を越える。日本政府は『遺憾の意』を示しつつ、私たちを追放したと発表すればいい。……それなら、あなたたちの手を汚さずに済むでしょう?」
「瀬戸さん……君まで本気でそんなことを……」
黒田は頭を抱え、深く椅子に沈み込んだ。
「彼女の言う通りだ、局長」
壁際で黙って話を聞いていた真田大尉が、一歩前に出た。
「セクション・ゼロは、元々表沙汰にできない『異能』を処理するための影の部隊。……この作戦は、我々が非公式として処理するべきだ」
「真田大尉……! 特殊部隊員である君まで国を裏切る気か!」
「国を裏切るわけではありません。日本の未来(子供たち)を守るのが、俺たちの仕事だと言っているんです」
真田大尉の瞳には、揺るぎない覚悟が宿っていた。富士の演習場で、子供たちが死の恐怖に泣き叫ぶ姿を見た彼は、すでに軍人としての建前を捨てていた。
「……場所は特定できてるのか?」
重苦しい沈黙を破ったのは、円卓のコンソールを占拠していたレンだった。
彼女はキーボードを叩く手を止めず、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「当然だ。日本海のプラントで回収したユーリの『金色のチップ』。あいつの回路を焼き切る直前、俺が仕掛けた追跡プログラム(トロイの木馬)が、親機への逆探知を完了してる」
レンがエンターキーを強く叩くと、壁面の巨大モニターに世界地図が表示された。
大陸の奥深く。国境を越え、峻険な山脈を越えた先にある、一年中雪と氷に閉ざされた極寒の永久凍土帯。
そこに、赤いポイントが点滅している。
「某国の最深部、『アルタイ山脈』の廃坑跡だ。……冷戦時代に作られた巨大な地下核シェルターを改装して、ドールたちを制御する『マザーサーバー』と、数百台のVRカプセルが設置されている」
レンの言葉に、室内の温度が数度下がったような気がした。
「兵力は?」
真田大尉がプロの顔つきで問う。
「判明しているだけで、完全武装の正規兵が約一個大隊(500名)。そして……マザーサーバーと直結している、防衛用の『量産型ドール』が、少なくとも二千体は眠っている」
「すでにそれだけの人数を揃えているというのか」
真田大尉は驚愕し眉間に皺を寄せながら、考え混んでいる。
「自称ホワイトハッカーのレン調べの結果ですがね」
レンは本領発揮と、またニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「二千……!」
私は息を呑んだ。
あの富士の演習場に降下してきたのは、たった十数人だ。それでも私たちは死の恐怖を味わった。それが二千体。想像するだけで肌が粟立つほどの、絶望的な数の暴力。
「さらに厄介なのは、この施設の地形だ」
レンが施設の立体図(3Dマップ)を投影する。
「入り口は山肌に隠された分厚い防爆ゲート一つだけ。空爆は岩盤に阻まれて通用しない。……完全に『物理的な要塞』だ。中に入るには、正面からゲートをこじ開けて、二千体のドールの群れを突破するしかない」
不可能だ。
常識で考えれば、小国が一つ滅ぶほどの戦力差。たった十数人の特殊部隊と、二人の高校生が挑むような作戦ではない。
だが。
「……上等だ」
悠斗が、獰猛な獣のように口角を上げた。
「入り口が一つしかないなら、迷う手間が省ける。……その二千体ごと、ぶっ壊してやる」
「私も行くわ」
私はステッキの柄を強く握りしめた。
「どれだけ敵が多くても、どれだけ壁が厚くても。……私たちの『力(魔法)』なら、絶対に届く」
私の脳内には、すでにあの分厚い岩盤を相転移させて砕くためのイメージが、微かな熱を帯びて浮かび上がっていた。
黒田局長は、私たちの揺るぎない眼差しを交互に見つめ、やがて長い、長い溜息をついた。
「……公式な作戦としては、絶対に認められません」
黒田は眼鏡を外し、疲れたように目頭を揉んだ。
「ですが……今夜予定されていた、セクション・ゼロの『夜間長距離飛行訓練』について、私はまだ中止のサインを出していません。……輸送機一機と、武装の持ち出しは申請通り許可されたままです。もし、訓練中に『航法装置の故障』で機体が国境を越え、消息を絶ったとしても……私には関知できないことです」
それは、官僚としての黒田が示した、最大限の譲歩であり「黙認」だった。
「……恩に着るぜ、局長」
真田大尉が、深く敬礼をした。
「生きて帰る保証はどこにもありませんよ。……それに、某国との全面戦争の引き金を引くことになるかもしれない」
「わかっています。……その泥を被るのが、俺たち大人の責任ですから」
真田大尉は私たちに向き直り、力強く頷いた。
「出発は今夜24マルマル。……準備を急げ。これより、敵マザーサーバー破壊作戦『オペレーション・ウェイクアップ』を開始する!」
時計の針が進む。
帰れる場所を捨て、法を越え、国境を越える。
私たちは、冷たい雨の降る東京の地下で、世界で一番孤独で、最も無謀な戦争への切符を手にしたのだった。




