第1話:『銀の雨と、琥珀色の幻想』
第1話:『銀の雨と、琥珀色の幻想』
二〇四〇年、十二月二十一日。午後五時の渋谷。鉛色の空を、巨大なザトウクジラのホログラムが優雅に泳いでいる。その半透明の巨体は、降りしきる銀色の雨に濡れ、濡れたアスファルトに淡い光の波紋を落としていた。
無数のドローンが傘の波の上を行き交い、空中ディスプレイがクリスマスの安売り広告を騒がしく点滅させている。そんなハイテクノロジーと喧騒が入り混じる交差点の只中を、私━━瀬戸梨花は、凍える手をダッフルコートのポケットに突っ込んで歩いていた。
一七歳の冬。世界はこんなにも情報で溢れているのに、私の頭の中を占めているのは、たった一人の男の子のことだけだった。
(……先輩。こんな雨の中でも、まだグラウンド走ってるのかな)
脳裏に浮かぶのは、同じ高校の二つ上の先輩、悠斗の姿だ。サッカー部のエースストライカー。誰よりも速く、誰よりも真っ直ぐにゴールを見据えるあの背中。 汗に濡れた前髪をかき上げる仕草や、少し不器用な笑顔を思い出すだけで、冷え切った身体の奥がじんわりと熱くなる。
(冬休みに入ったら、思い切って差し入れを持って応援に行こう。……迷惑じゃないかな。でも、頑張ってる先輩に、何かしたいし)
信号が青に変わる。電子音が鳴り響き、人々が一斉に歩き出した。私もその波に乗ろうと足を踏み出す。けれど、私の人生はいつだって、肝心なところで世界とうまく噛み合わない。
「わわっ、おっとっと!」
濡れた点字ブロックに足を取られ、派手に体勢を崩した。右足に左足を引っ掛けるという、漫画のようなドジ。手に持っていたビニール傘が踊るように宙を舞い、周囲の冷ややかな視線が突き刺さる。
「……うう、恥ずかしい。もー、私のバカ」
顔を真っ赤にして、転がった傘に手を伸ばそうとした、その時だった。
――キィィィィィィィィィン!!
鼓膜を引き裂くような、暴力的なブレーキ音。反射的に顔を上げると、雨粒の向こうから、巨大な質量の塊が迫ってきていた。制御を失った配送用トラック。スリップしたタイヤが水を巻き上げ、太陽よりも眩しいヘッドライトが、私の視界を真っ白に塗りつぶしていく。
悲鳴。衝撃。身体が羽根のように軽く吹き飛ばされた。宙を舞う視界の端で、鞄につけていたお気に入りのサッカーボールのキーホルダーが弾け飛び、先輩の笑顔が写ったスマートフォンの画面が粉々に砕け散るのが見えた。
(あ……。ごめんなさい、先輩。私、またドジ踏んじゃった……)
最後に感じたのは、アスファルトの冷たさと、それとは対照的な焼き尽くすような熱。 二〇四〇年の渋谷の喧騒は遠のき、私の意識は深い、深い闇の底へと沈んでいった。
暗闇の中で、誰かの声が聞こえた気がした。それは無機質で、けれどひどく厳かな響きを持っていた。
『━━損傷個所を確認。大脳皮質、および海馬への深刻なダメージ』 『━━プロジェクト・リボーン、緊急シークエンスを起動』 『━━被験者コード、セット。精神接続、開始します』
(……なに? 誰の、声……?)
問いかけようとしても、声が出ない。ただ、意識が光の粒子となって、どこか温かい場所へと吸い込まれていく感覚だけがあった。
……暖かい。頬をなでる風が、まるで春の陽だまりのように柔らかい。鼻を突くのは排気ガスや濡れたコンクリートの匂いではなく、甘い花の蜜の香りと、雨上がりの草木が放つ濃厚な生命の匂いだった。
「……ん、んん……」
重い瞼をゆっくりと開ける。最初に視界に飛び込んできたのは、見たこともないほど澄み渡った、瑠璃色の空だった。そこには雲ひとつなく、代わりにキラキラとした琥珀色の光の粒が、粉雪のように空気に溶け込み、世界全体を幻想的な輝きで包み込んでいる。
「ここ、どこ……? 私、死後の世界に来ちゃったの……?」
身を起こそうとして、私は自分の身体に違和感を覚えた。視線の高さが低い。それに、地面についた手が、驚くほど小さいのだ。白くて、ふっくらとしていて、まるでお人形のような指先。着ているのはいつものダッフルコートではなく、薄汚れてはいるものの、丁寧に刺繍が施された桃色のワンピースだった。
「え、ええええええっ!? 手が小さい! 足も短い!? 私、子供になってるーっ!?」
叫んだ声まで、以前よりずっと高くて幼い。自分の頬をぺたぺたと触る。丸みを帯びた輪郭。柔らかな肌。鏡がなくてもわかる。今の私は、どう見ても一二歳くらいの女の子の姿になっていた。
混乱に頭を抱えようとして、私はまたしても自分の足をもつれさせた。地面の窪みに足を取られ、今度は派手に顔から草むらへ突っ込む。
「ふぎゃっ!? ……うう、子供になってもドジなのは変わらないんだ……。お鼻が痛い……」
涙目で顔を上げると、そこは幻想世界『アルメルシア』の深い森の中だった。現実世界の植物園でも見たことがないような、巨大な発光するシダ植物が道端を覆い、樹齢数百年はあろうかという巨木たちが、神々しいまでの威容を誇ってそびえ立っている。
空気中に漂う琥珀色の光━━「魔素」が、呼吸をするたびに肺を満たし、身体の奥底から不思議な力を湧き上がらせていく。
「夢じゃないんだ。本当に、物語みたいな異世界に来ちゃったの……?」
立ち上がり、ワンピースについた泥を払う。身体が驚くほど軽い。それと同時に、胸の奥で何かが脈打つのを感じた。それは恐怖ではなく、未知の高揚感。指先までトクトクと流れる熱い奔流。
(なに、この感覚……。温かくて、何かすごいことができそう……!)
その未知の力に戸惑いながらも、私は一歩を踏み出した。その時だった。
━━ガルゥゥゥ……。
背後の茂みが大きく揺れ、空気が震えるほどの低い唸り声が響いた。振り返った私の全身が、氷のように強張る。
そこにいたのは、銀色の剛毛に覆われた巨大な狼だった。大きさは軽トラックほどもあるだろうか。その瞳は紅蓮のように赤く燃え、鋭い牙の間からは、シュウシュウと音を立てて白煙が漏れ出している。
「嘘……いきなりモンスター!? 待って待って、戦い方なんて知らないよ!」
逃げようと足を踏み出すが、あまりの恐怖に膝が笑って力が入らない。野生の殺気が、肌をチリチリと刺す。狼が、私を明確な「獲物」と認識して、巨大な身体をバネのように収縮させた。
死ぬ。さっきトラックに跳ねられた時と同じ、あの絶望的な瞬間がフラッシュバックする。
「いやぁぁぁっ! こないでぇぇぇ!!」
理屈ではなかった。極限の恐怖と、「生きたい」という純粋な渇望。その感情が引き金となり、私の小さな身体の中に眠る膨大なエネルギーが暴発した。右手が勝手に突き出され、掌から太陽の欠片のような眩い光が放たれる。
ドドォォォォォン!!
放たれたのは、巨大な光の弾丸。それは空気を焼き焦がしながら一直線に飛び━━狼の三メートル隣にある巨岩に直撃した。
凄まじい爆発音と共に岩が粉々に砕け散り、土煙が高く舞い上がる。その衝撃波の余波だけで、私は紙切れのように吹き飛ばされ、お尻から地面にひっくり返った。
「ひゃうっ!? ……って、痛いぃぃ! 狙った方向と全然違うし、なんであんな威力が出るの!?」
私は涙目で叫んだ。狼は爆発の凄まじさに一瞬たじろいだが、すぐに私へと視線を戻した。今度は警戒心も露わに、より低く、より深く沈み込む。魔力はあっても、それを扱う技術が決定的に足りない。再び狼が宙を舞う。鋭利な爪が、私の喉元へと迫る。
(ダメ、今度こそ終わる……っ!)
私は反射的に目を閉じた。その瞬間。
━━シュンッ!!
耳元をかすめたのは、風切り音よりも鋭く、鈴の音よりも澄んだ、一筋の金属音だった。
熱い風が吹き抜ける。恐る恐る目を開けると、狼の爪は私の鼻先数センチで止まっていた。いや、止まっていたのではない。巨大な狼の身体が、音もなく左右に分かれ、光の粒子となって崩れ落ちていくところだったのだ。
「え……?」
光の粉雪が舞う中、一人の少年が静かに降り立った。茶色がかった黒髪が風に揺れている。彼は身の丈ほどもある剣を軽々と振るい、鞘に納める動作だけで周囲の空気を支配していた。
その背中。無駄のない足運び。わずかに顎を引いて残心を示す、その独特な立ち姿。
私の心臓が、恐怖とは違う理由で激しく跳ね上がった。見間違えるはずがない。雨のグラウンドで、教室の窓から、いつだって私が追いかけ続けてきた、あの大好きな人の背中と、あまりにも似ていたから。
「……悠斗、先輩……?」
震える声でその名を呼ぶ。少年はゆっくりと振り返り、冷徹なまでの静けさを湛えた、吸い込まれるような青い瞳で私を見下ろした。
「……誰だ、それは」
低い声。けれど、そこには不思議と安らぎを覚える響きがあった。彼は私に手を差し伸べる。
「怪我はないか、お嬢さん。……いや、随分と派手な花火を上げる、不器用な魔法使いさん」
その温かい手に触れた瞬間、私の中で、この美しい世界を巡る運命の歯車が静かに回り始めたのだった。




