第1章 始まれ、恋
6月の大阪、梅雨入りした世の中では、人も、高いビルも、どこか輪郭がぼやけている。
空はここ最近ずっと灰色がかっていて、湿った風がコンクリートの独特な匂いを押し上げていた。
俺はバイト前に1人で紫陽花を見ようと、スマホと定期券だけ持って、家の近くの公園に来ていた。
|りゅうた|
|大毅!!今日の夜飲み行こや!可愛い子来るで!!|
通知を確認すれば、こんなDMが来ていたが今日は気分じゃないなぁと思い、すっとスマホを閉じた。
「やっぱりたまには1人でのんびりしたいよなぁ。分かるやろ、紫陽花くんも」
屈んで紫陽花を見ていると、ついつい独り言が口から出てしまう。人付き合いが嫌いって訳では無いが、一人の時間が結局いちばん落ち着く。しかも、ここの紫陽花は去年見れなかったから今年こそは、と決めていた。
「うわ、流石に傘ぐらいは持ってくるべきやったか」
30分ぐらい経った頃、ぽつ、と紫陽花に伸ばしていた手に雨粒が落ちてきた。また水滴が落ちてきた頃には逃げ場のないような雨が途端に降ってきた。
「今日は一日晴れるんじゃなかったんかよ」
朝の天気予報士にツッコミを入れつつ慌てて近くにあった東屋に逃げ込んだ。今までこんなとこに東屋があることなんて意識していなかったが、木の匂いがするその屋根の下はどこか心地よかった。
「びしょ濡れやん、、、これいつまで降るんやろ」
服はもちろん、髪も靴もこの一瞬で濡れてしまった。
今日のセットせっかく上手くできたのに、なんてちょっと不貞腐れてしまっていた。
「この感じだと、結構降りそうだね」
声に反応して振り返ると、全身黒に身を包んだ男の人がベンチに座っていた。
「えっ、あっすいません。まさか人おると思ってなくて。」
「全然。気にしないで」
無表情に近い彼の顔は何かを深く考えているような、何も考えていないような、そんな対極的な顔に見えた。ふと、目が合うと彼はこちらに微笑みかけてきた。彼の笑窪に俺は一瞬吸い込まれそうになった。
(え、顔整いすぎやん。モデルかなんかか、、、?)
内心かなり驚いた。顔を正面にして見ると日本人ではなさそうだった。高い鼻筋、切れ長な一重の目に、ぷっくりとした涙袋、韓国人だろうか。しかも、身体も大きい。座っているから分かりづらいが180cmはゆうに超えているはず。
「雨、急に降ってきましたね」
「そうだね」
素っ気ない返事だけど、どこか優しさも感じられた。
何故か急に緊張してしまって、俺は言葉に詰まってしまった。気まずい沈黙を、雨の音が中和してくれている気がした。雨音に背中を押され、俺は少し距離開けて隣に座ってみた。
「韓国の人ですか?」
俺は思い切って口を開いた。
「なんでそう思うの?」
「んーなんやろ、なんとなく。顔立ちとか雰囲気とか、、、?」
「正解」
一言だったけど、今度は彼の口元に笑みが浮かんだ。またさっきの笑窪が見えた時、俺は少しドキッとしてしまった。
「旅行とかですか?」
「ううん、普通に住んでるよ」
「そうなんですね。働いてる、、とか?」
「いや、まだ大学生だよ。近くの近央大学ってわかる?」
「え、同じです!僕そこの外国語学部2回生です!」
「奇遇だね。俺も外国語学部の3回生だよ」
「え、まじですか?じゃあ僕らもう運命ですね!」
そう言った後、俺は直ぐに後悔した。嬉しくて、ついつい思ったことが口から出てしまう悪い癖。絶対変な奴やと思われた。
「なんか急に子供みたいになって可愛いね」
また、あの笑窪をこっちに向けながら、彼は言った。想像の斜め上どころの話じゃない返答が帰ってきて、俺はどうしたらいいか分からなくなった。
(今絶対顔真っ赤や、、、)
顔を隠すために反対側を向いた。
「名前は?」
「え?あ、大毅です。寺島大毅っていいます」
突然、聞かれて戸惑ってしまった。流石にそっぽ向いて答えるのも変かと思って、彼の方を向いたが、顔がまだ赤いんじゃないかと不安になる。
「じゃあ大毅ね」
「お兄さんは、?」
「ユンス。チェ・ユンス。呼び方は何でもいいよ」
「じゃあユンスさん、、かな?」
「思ったより壁作るね」
「え、だって一応先輩なんで」
「そんなん気にしなくていいのに」
「うーん、じゃあ間とってユンスくん?」
「なんの間なのかよくわかんないけど。まあそれで」
また彼がその笑窪を見せた。それを見る度、確実に自分の心の中の何かがおかしくなった。この人といたらなんかやばいかも、率直にそう思った。
「ユンスくんは、学科どこですか?」
俺は、気持ちを紛らわすように質問をなげかけた。
「日本語学科だよ」
「どおりで日本語がうまいわけですね」
「ありがとう。大毅は?」
「僕は英語学科です。でも韓国ドラマとかよく見るので、韓国語もほんのちょっとなら分かります」
「おぉそうなんだ。じゃあなんか俺に話してみてよ」
「ええ、流石に恥ずかしすぎますよ。発音とかあんまりわかんないですし」
「じゃあ、俺が話すね」
「はい?」
彼は姿勢を少し正し、真っ直ぐ俺の目を見て、少しゆっくりとした調子で話し始めた。
「안녕하세요, 저는 윤수입니다. 만나서 반가워요」
(うわぁ、なんか本物やな、、、)
俺は聞き惚れて、見惚れてしまっていた。
「なんて言ったかわかる?」
「最初はこんにちは、私はユンスですって意味ですよね?でも後半は何て言ったんですか?」
「会えて嬉しい」
ドキッとしてしまった。多分、韓国語ではよくある挨拶のフレーズなんだろうけど真っ直ぐそう言われた俺は、胸の鼓動を抑えるのに必死だった。
「大毅は?嬉しくないん?」
さらに心臓が止まらなくなった。と同時に、彼から余裕というか、悪く言えば弄ばれてるような感じもしてなんだか少しムカついてしまった。
「I’m glad to see you too.」
「なんで英語?」
「やっぱり英語科なのでね」
「面白いね、大毅は」
彼の想定通りの返事をするのがなんとなく気に食わなくて英語で言ってみたが、彼は何とも思ってなさそうだった。初めて見た時と同じように、彼は何かを考えているのか、いないのか、どこか掴みどころのない人だった。
「お、雨少しだけ収まってきたね」
「ですね」
そう言ってスマホを見るともう13時を過ぎていた。
「うわ、バイト行かな」
また、思ったことが口から出てしまった。
「じゃあ一緒に帰ろっか?」
「え?」
「どっちに帰るの?」
「駅ですけど、」
「じゃあ一緒だし、ちょうどいいね」
「いやそんなん悪いですって」
「俺も帰ろうと思ってたし、大毅は傘持ってないでしょ」
「あ、ほんとだ」
勝手に先の展開を想像して、また鼓動が早くなる。
(今日だけで余命5時間ぐらい減ったやろ、、、)
「ほら、早く行こーよ」
そんなことを考えていると、彼はもう立って傘をさしていた。やっぱり相合傘だよな、、、そう思いながらも俺は彼の横に立った。
「ユンスくん、めっちゃ身長高いですね。何cmぐらいあるんですか?」
「187cmかな。でも大毅も平均よりはかなり高い方じゃない?」
「僕は181cmです。でもユンスくんがおっきすぎるせいで霞んじゃってますよ」
「俺のせい?」
「ユンスくんのせいです」
「そっか、じゃあちょっと屈んで歩くよ」
「そこまでしなくてもいいですって!」
この後も、何気ない会話が続いた。でもその間ずっとお互いの肩が触れていた。より近くで彼を見ると、横顔も顎のラインがシュッとしていて、尚且つ胸板も厚くて、腕も太くて、本当にモデルみたいだった。
(モテまくってるんやろうなぁ、、、)
そう思ったと同時に、何故か、どうしてか、分からないけど胸に痛みが走った気がした。
「じゃあまたね」
「 はい。傘、ありがとうございました」
そう言い合って僕たちは別れた。よく分からなかった。彼のことも、彼との時間も、夢を見ていた感覚だった。
「俺、あの人とおったら多分おかしなるわ」
そんな独り言を呟いて、俺は電車へと乗り込んだ。