逃走
部屋に滑り込んだマーカスはやや恐怖の表情を浮かべた顔でこちらを見ている女性には気に停めず、窓の方へと寄った。
「あ、あの?一体全体?」
遠慮がちな質問が飛ばされた。彼女は外で続いている銃声と悲鳴などの混乱が放つ音を耳にして恐怖の対象が移ったようだ。こちらに説明を求めている。
「さあね。ヤバいやつが暴れてるとしか」
マーカスは正直には言わなかった。ただし説明としては何も間違ってはいない。事実ではある。
「それで……あなたは?」
「外の人たちと同じでどこかに逃れようと思って。前が詰まっていたからどこか部屋に逃げ込んだ方が安全かなって」
窓の外にはパイプや束ねられたケーブル、そしてワイヤーがあった。地上までの距離はそんなに無さそうだ。やや危険性は残るもののこれらをたどって下に降りることは現実的に不可能では無い。
「今は一体何をしてるの?」
女性は少し落ち着きを取り戻したのか落ち着いたトーンでマーカスの隣に立って彼と同じように窓の外に視線を向けた。
「何にもないけど……」
「案外そうでも無い」
マーカスは窓を全開にすると、その間に後ろに下がった女性に軽く一礼をして窓の外へ。パイプとケーブル、ワイヤーが連なる所へと助走をつけて斜めなら飛びついた。
ワイヤーがややしなり、細いケーブルは悲鳴を上げていたが彼は壁に張り付くことに成功した。
「本当に何をしてるの!?死ぬ気なの!?」
女性は慌てて壁に張り付いているマーカスにそう叫んだ。彼女も体をだいぶ前に乗り出している。
「いやそんなつもりは。ただ逃れるのにはこっちの方がいいから。君は?」
「無理!無理!無理!無理!無理!こんな格好でただえさえ動きづらいのに出来るわけないでしょ!絶対地面に叩きつけられる!」
「そんなに高くなかっただろ?」
「どんな高さからでも打ちどころによっては簡単に死ねるから!私には無理!絶対頭から落ちる!それで両親が悲しむ!昨日20になったばかりの娘を亡くしたショックで!それに無謀な挑戦による愚かな事故が原因だと知ったらって思うと……」
マーカスはそれを聞くと半笑いで首を細かく縦に振りそれは仕方が無いと意思を示した。
「大人しく部屋にいることを進めるよ。一応ドアには椅子を当てとくといい。匿ってくれてありがとう」
「ちょっと待って。……あなた名前は?私はベディ・ロジャース」
少し考えた後に彼は答えた。
「マルクス・テイス」
マーカスは慎重に足をしっかりと壁につけながら降りていった。
「1階ってのはあれか?地上階の上の階って数え方をしてたわけか?ややこしいから地上階なんて概念を無くしてくれよ……」
案外距離はないと思っていた彼だったがその考えを撤回しなければならなくなっていた。
実際のところそこそこの距離があり上から見ただけではその実感がわかなかっただけだったのだ。
そして彼が少しばかり休息を取ろうとした時だった。
下で、つまりは地上でこちらを驚きながらも取り乱すことはなく見つめていた人物が2人いた。
エレベーターで乗り合わせていたあの2人だ。特徴が一致する。
「まずいなこれは」
マーカスは今にも叫ぼうとする彼らを見て地上へ降りるのを諦めた。やや面倒だがこのまま登りきって屋上に上がることを選択した。現在地から屋上までは高層ビル程の高さは無い。この安全地帯にある小学校より3メートルぐらい高い程度だろう。
足を上手く使えばそんなに苦労はしない。彼はすぐ休息の体制を解除すると上へ上へと進み始めた。
下から叫び声と無線特有のノイズが微かに聞こえてくる。そして増えていく声。
だがマーカスは1度も下を見なかった。
先程匿ってもらっていた部屋の窓には鍵が掛けられカーテンも引かれていた。
その上もその更に上も同様に鍵が掛けられていた。
「銃弾が飛んでこないことを祈ろうか」
マーカスは目を瞑ると深く深呼吸をして、もう少しで手が届こうとしている屋上へ。勢いよく壁を蹴りその縁のフェンスへとしがみついた。
そのままフェンスに全体重を預けて体を引き上げる。幸いフェンスが外れたり折れたりといったトラブルはなかった。
体を全て引き上げて、フェンスを超えた先でマーカスは室外機に腰を下ろして一息ついていた。もう時期ここにも追っ手が来るはずだ。その前に何とか脱出しなければならない。そう考えながら。
目線の先には6メートルほど距離が空いてやや下に一般家庭の屋根が見えている。ここは敷地の1番端のようだ。下には市街地と面していることもありやや高いフェンスがあるもののきちんと整備されていないせいか錆が目立って見える。
またそのフェンスより一般家庭の屋根の方が高いのはどういうことだろうか?
確かに外からの侵入はある程度体を鍛えてそこそこの訓練を積んでいないと厳しいかもしれない。一般家庭に着いている窓と言える物はフェンスの下に位置しているし、第1そこまで大きくない。
だが外からならかなりいい脱出経路になりそうだ。やや体勢を崩す危険はあるがここから数件先には屋上が備え付けてある飲食店が見えてくる。
「ここから行くしかないだろ」
マーカスはやや後方へ下がって助走できるスペースを確保した。
その時彼に向かって叫ぶ者がいた。
「マーカス・テイラー!」
屋上に現れたのは面識はなかったものの1、2
個上の代の教官として有名だった人物だった。
「グレッグ・ロドリゲス……。どうしてここに?あんたは北方まで輸送部隊の護衛に行ってた筈じゃ?」
「予定が変わったんだ。そしてさっき俺の教え子と出会った」
グレッグの後ろから見覚えのある2つの顔が現れた。
ジェフ・クルーソーとウィル・モニアックだ。その後ろには知らない顔ではあるもののテーザー銃や警棒を持って身を固めた者が4人ほどいる。新しい隊員たちだ。
「驚いた。アンソニー・オドアはどうしたんだよ」
マーカスは自信を担当していた教官の名前を出した。
返ってきたのはある程度は予想していた答えだった。
「つい先日、こいつらの入隊前にAliceShoes本部からの通達で後送された。……お前も元隊員とは言え上司には敬語を使え」
「上司じゃないからそれは無理だ」
その一言を合図に、屋上にいた全員が同じ方向へと走り出した。
マーカスを先頭に彼が目をつけていた一般家庭の屋根へと向かって。
マーカスの予想通り、外への脱出ルートとしてこの一般家庭の屋根を通り市街地へと抜けていくのは向いていた。
彼は屋根を伝いながら奥へ奥へと市街地の方へ進んでいく。足場の屋根はだんだん市街地に近づくにつれて安定しやすい平らな屋上へと変わってくる。
「さて、この辺で終わりにしようか」
いつの間にやら横の建物にてジェフが並走していた。彼の手にはまだ拳銃が握られている。
「クソっ!」
マーカスは立ち止まることなく方向を90度右に変え、できる限りジグザグに建物の上を飛び回った。
彼がその動作を取ってから5秒も経たないうちにやや右後ろから空気を切り裂く鉛玉が彼の顔を掠めては発砲音が響いた。
「止まるんだ!止まれ!」
発砲した本人に変わってテーザー銃を構えた男がそう叫んだ。
だが彼のテーザー銃は射程外に外れようとしている。当然マーカスは止まるわけが無い。
少しずつ追っ手との距離が開き出した。とは言っても全員と開いた訳では無い。相変わらずジェフとウィルはこちらと差を詰めようとしてきているしグレッグも若者顔負けの卓越した追跡能力を存分に発揮している。
だが少し変わった点として誰も銃を使用していない。ジェフは手にこそまだ拳銃を握りしめているもののこちらに向けることは無い。
不気味だった。
その体勢が維持されたまま1団はこの安全地帯中心部の市街地へと移った。
ここから先はやや高さのある建物や高層ビルが点在している。だがマーカスは無理してそこに登ろうなんて考えは鼻からなかった。
そんなことをしていてはせっかくやや距離を開けているのに捕まってしまう。
彼が考えていたのは下に降りる事だった。つまり人が多い市街地へと降りるのだ。
そしてそれこそが逃走において最大の利点になると考えたのだ。
今マーカスがいる飲食店からこれまた少し下の所にある小さなアパートの屋根。そこを辿って降りようと彼は考えた。
「さっさと諦めろ!」
後ろから聞こえてくるウィルの声が想像以上に近いことを気にしながらも彼はスピードを落としてアパートの屋根に飛び移った。
それとほぼ同時が少しの誤差で彼が先程までいたところに銀色の針が放り出されていた。
「危なっ!」
そう叫んでマーカスは地面に降り立つと人でごった返している方向へ向かって一目散に走り出した。
「逃がしたか……」
その様子を唇を噛みながらウィルは見ていた。
「落ち着け。どうせ安全地帯内だ。手配書をだせ!あとは適当に歩いていれば嫌でも情報は手に入る」
やや遅れてやってきたグレッグはそう言うとこれまた遅れてやってきたジェフとその横にいた男たちに命令を出した。
彼らはどこかに消えたマーカスの背中を探すのではなく、ごった返している人混みを見つめていた。