混沌
使用人の代わりだろう。2台のロボットが超スピードでマーカスの横を通り過ぎた。
彼らの手にはバインダーが握られていた。
ゆっくりと足を進めるマーカスに目を向けるものはいない。このフロアにはちょくちょく人がいるようだったが誰も彼の方を見向きしなかった。
マーカスは先程の空間から左右に続いていた通路を進んでいた。彼は右側を選んだ。
「明日だったか?」
「ああ」
日常会話が聞こえてくる。
「それで俺はどうしようもなくてあいつを呼んだんだ」
至る所で聞こえてくる。
まるでこの空間自体が声を発しているかのように一つ一つの言葉で空間が揺れる感じがマーカスを襲う。
原因は分からない。
少しさらに進んだところで彼は気がついたことがあった。
このフロアにいる者たちの服装はスーツやドレスばかりだ。今のマーカスみたいにラフな格好では無い。
「そういえばあいつらどこに行ったんだ?」
一緒に降りた武装した2人の姿も見当たらない。その時だった。やや先の方ではあるのだが視線が集まっている集団、いやそう言うには少ない3人組の姿が目に入った。
ただそれは2人+1人と言う方が正しいだろう。両脇をジェフとダンボール箱が積み上げられた台車を押しているクルーソーに抑えられたフェリックスの姿が目に入った。
向こうはこっちには気がついていない。だがこのままやり過ごせるとは思えない。倉庫での逃走劇に加え屋根に昇ったりしたこともあってマーカスの服にはどう見てもこの場には似合わない埃、汚れが付着している。
そもそもこの格好も到底この場に相応しいとは思えない。
彼は踵を返すとすぐ近くにあったトイレに駆け込んだ。
だが不幸なことにそこには清掃中につき使用不可と書かれた看板が立てかけられており清掃ロボットが2台トイレ掃除に当たっていた。
「どうしたんだ?」
「いや、清掃中の所に入っていった物好きがいたから……」
背後からはそんな会話も聞こえてくる。
だがここでマーカスにとっては救いが舞い降りた。
正確には舞い降りたと言うよりも彼自身が思い出したのだがそこはどうでもいい。
清掃ロボットとしてこの安全地帯では主に2種類。SwAとSwDと呼ばれる物が使われている。このうちSwDには掃除機能に加えて古い言い方をすればAEDや職員用制服保管スペースがある。元々は掃除道具を収納するところだったらしいが便利な使い方を考える者もいるのだ。
そして今マーカスが目にしてるのはまさしくそのSwDであり、半透明の保管スペースからこの建物の"非正規"職員であることを示す金色のバッジが見えた。
清掃員なのか臨時の従業員なのかどれを示しているのかは分からないが、この場をやり過ごすには十分な服装が入っていることは確定的だ。
マーカスがトイレに隠れてから2分も経たないうちに彼は清掃スタッフの格好をしてトイレから出た。
帽子を被っているので一目見ただけでは先程トイレに入った人物と同一人物とは思えないだろう。
先程まで着ていた私服は置いていくことにした。別に高いものではなかったのでそこまで残念ではなかった。
彼がトイレから出てゆっくりと来た道を戻ろうとした時だった。
「そこの清掃員の人ちょっといいかな?」
聞き覚えのある声がすぐ後ろから聞こえてきた。ウィルの声だ。
「この先のエレ………。お前……もしかしてマーカスか?マーカス・テイラー?」
「ウィルさん。お久しぶりです……」
できる限りフェリックスとは目を合わさないようにしながらマーカスは差し出されたウィルの手を握った。まだウィルもジェフも共犯者が目の前にいるとは気づいてないようだ。
「久しぶりだな。元気だったか?」
ジェフに至っては先程まで追いかけていた相手の肩を叩いて疲れを労っていた。
「またここで働いてるとは思わなかったよ。今は清掃員か?このフロアの清掃員だ。いい給料貰ってるんだろ?」
ジェフはマーカスを上から下まで眺めてそう言った。
「後輩のお前が戻ってきたと知ったらみんな元気が出るのにな」
ウィルがフェリックスを小突きながら言った。
「そうだ。ちょっと手伝って欲しい。こいつを持っててくれないか?あと愚痴を聞いてくれ」
台車に載せれたダンボールの1番上。倉庫でマーカスがフェリックスの元を離れる歳に自分で置いたそのダンボールをジェフは持ち上げるとマーカスに押し付けた。
「押収品した証拠品なんだが如何せん量が多くて。崩れそうだからな。それもこれもこいつが盗みなんかやらかそうとしたからなんだけど……」
2人の視線が擦り傷の目立つフェリックスに向く。
「こいつもこいつの恋人ももう手遅れだな。弟が可哀想だよ」
「同感だな。こいつがさっきまで何をしてたと思う?……倉庫に潜って酒をそれもありったけの酒を引き上げようとしてたんだぜ?まぁこうして捕まった訳だが」
「だがもうひとつ問題があるんだ。なんだと思う?実は共犯者がいたんだ。そいつが何者かまでは確認できなかった。……そうだ。過去形だから逃がしたんだ。何とか口を笑そうとしてるんだがそれがどうも上手くいかない」
ジェフはテーザー銃をフェリックスの眼球に突きつけた。
「ここで悲鳴を上げさせるのは他の客にとって大迷惑だ。だがそろそろ吐いてもらわないとな」
彼はテーザー銃をしまうと拳銃を取り出した。そしてフロア全体を包んだ緊張感と微かに聞こえる悲鳴を中心とする混乱の声を気にすることなく、フェリックスが嫌でも目に入る位置で弾倉の装填から始まる一連の動作を行った。
「さぁ吐け!誰がお前の共犯となったのかを吐くんだ!」
ジェフの怒鳴り声と共に混乱が辺りを一瞬で包み込んだ。動きにくいスーツやドレスを着ているも者ばかりだったこともありさらに混乱は加速した。
「ああ。分かった。吐く。吐くからそいつを下げてくれ」
フェリックスは突きつけられた拳銃を見て慌ててそう言った。
そしてマーカスの名前が告げられるその瞬間。一足早く混乱に乗じてマーカスは駆け出していた。
「共犯者の名前はマーカス・テイラーだ。さっきまでそこにいたマーカス・テイラー」
ジェフとウィルの間に一瞬の間が出来た。だが彼らは視界から外れかかっていたやや前方にいるマーカス目掛けて走り出した。
マーカスはここで1つ後悔することになった。
というのも彼が駆け出したのはエレベーターに通じている道ではなく、何があるのかイマイチ全貌を把握しきれていないルートだったのだ。
しばらく走れば1周するだろうと予想しているもののそれはあくまでも希望的観測に過ぎない。
後ろからは人混みをジェフとウィルの2人が掻き分けながらこちらに進んで来ている。
流石にこれだけの人がいるとなると簡単には実弾を発砲出来ないようだ。
「どいてくれ!通して!」
マーカスは前方で詰まっている一団を押し通して進んでいた。
その時だった。あろう事か銃声が響き渡ると共にやや後方の照明が落ち、ガラスの雨が降った。
ジェフかウィルか、どちらかが天井に向けて発砲したのだ。
あっという間に今までの日にならない混乱が巻き起こった。それはこれからマーカスが掻き分けながら進んでいかなくてはならない前方でも同じだった。
悲鳴と何かが壊れる音。押し倒されたり引き倒されたりする地獄絵図が今マーカスのいるフロアで引き起こされていた。
マーカスもその例外ではなかった。後ろから、横から、あらゆる方向高さから引っ張られた。2、3度地面に突っ伏すことにもなった。
「おい!どいてくれ!」
そう言って殴りかかって来る者もいた。
後ろではジェフとウィルが銃弾を打ち続けている。まだ距離はあるようだが近くの花瓶やワゴン、照明を襲う弾丸が多くなってきているのはかなりこたえた。
そうなることでさらに混乱が大きくなりけが人も増えてきている。
それから1分ほど走っている時だった。ここでマーカスは先頭集団に合流した。
彼らも後方と同じように、押し合い圧し合い我先にここから逃げようとしていた。
「どけ清掃員!」
急に彼を後ろの方へ引き剥がす好戦的な男が現れた。
「そんなに慌てるなよ!大人しくしてな!」
その相手の脛を蹴りあげてマーカスは前に進もうとした。
「この野郎!やってくれたな!」
相手の男は周りへの被害など考えずに殴りかかってきた。
しゃがんで交わしたマーカスに変わり彼の正面に立っていたこちらは屈強な男の背中に男の拳が直撃した。
「てめぇ何のつもりだ!!」
混乱の元で大乱闘が発生した。
幸運なことにそれを避けるように横にズレた人々の間をマーカスは走り抜けることが出来た。未だ先頭に踊り出た訳では無いが先頭集団の中でもトップを争えそうな位置に来たのは確かだった。
だが物事はそんなに単純な話では無い。それから一息つく間も無いまま彼の目には前方でやや戸惑いながらも小走りで進んでいる人々を発見した。
あくまでもさっきまでいた集団は先程までマーカスが捉えていた者たちの中での先頭集団に過ぎなかったのだ。
次第に小走りだった人々も混乱の大元が近づくにつれて焦りの表情を出しては大急ぎで走り出した。
そんな中、黒地のドレスを身にまとった女性が慌てた様子で部屋のロックを開けてそこに逃げ込もうとしていた。その様子をマーカスは見逃さなかった。
「済まない。少し匿ってくれ」
ロックの解除とともに部屋に逃げ込みドアを閉めようとした女性に彼はそう言い、返事を待たずに部屋に頭から滑り込んだ。
ドアはその後すぐに閉じられ、オートロックの機械的な音が小さく聞こえてきた。