9 消えた後輩
鳶の飛影がポツリと、まだ薄ら明るい曇り空に浮かんでいて、甲高い鳴き声が遠くまでこだましていた。
加太の海岸に届く紀淡 海峡の波が、キラキラと流れている。その海面を、瀬戸内から太平洋へ出ていこうとする船舶が滑っていく。
空を覆っていた雲が流れ去り、太陽がしっかり昇りきって姿を現した。
朝のまばゆい光が、ホテルの窓から部屋の中へと差し込んでいく。
不意に部屋の扉が開いて、冬樹が現れた。ついで春平と皐月が入ってくる。
三人は部屋の中を真剣な表情で見渡していた。
「やっぱり帰ってきてへんなぁ」と冬樹。
「あっ」と言って、布団の側を指差す春平。「あそこにスマホ置いてません?」
「ほんまやなぁ……」
「どこ行ってもたんやろ……」
額を押さえながら皐月が、か細い声で言った。
「皐月ちゃんが起きたときには、もう秋恵ちゃんはおらんかったんよな?」と冬樹。
「うん、そうです……」
「つまり七時半から八時のあいだに、もう出て行ったってことですよね?」
春平がそう言って、冬樹を見やる。
「問題は、どこにおるかやなぁ……」と冬樹。「スマホも持たずに何時間も外へ出ていくなんて、秋恵ちゃんらしくないわ」
突然、春平がハッとした。そして皐月を見るや否や、
「ちょっと秋恵ちゃんの荷物しらべてもらってええか?」と尋ねた。
「なんか分かったん?」
「財布あるか見てほしいんよ」
首をかしげながら、皐月が秋恵の鞄をさぐる。
「あっ……」
皐月が中から財布を拾いあげていた。
「遠出は無いやろなぁ、コレやと」
冬樹が両腕を組んで言った。
「警察とかに連絡した方がええですかね?」と春平。
「う~ん…… その辺を散歩してるって可能性も捨てきれやんさけなぁ……」
「いくらなんでも」と、立ちあがる皐月。「秋恵ちゃんはこんな不用心なこと、せぇへんと思います。そもそも、二時間ちかくも散歩するんやったら、財布とスマホくらいは持っていきますよ……」
彼女が春平へ顔を向けた。
「そう思わん?」
「せやな…… 何も言わずに出て行くんは、やっぱり考えにくいわ」
『──い!』
春平が周囲を一瞥した。
『──先輩!』
「どうかしたか?」と冬樹。
「いや、なんか声が……」
『こっちです!』
春平の視線がガラスケースに向いた。
ガラスの壁にへばり付いている人形の姿が、そこにはあった。
冬樹が春平を見て、首をかしげている。皐月も冬樹と同じ反応だった。
二人は自然と、春平の視線をたどる。
「人形がどうかしたん?」と冬樹。
「あの、それが……」どもりながら春平が言った。「あの人形、動いてません?」
「は?」
「いや、なんか…… さっき動いたような……」
「春平君! 今はそんな話、してる場合とちゃうやろ!」
皐月が眉根を引き締めて言った。春平は慌てた様子で、
「ちゃ、ちゃうんやって!」と弁明し始める。
すると、
「──動いてるね」
冬樹が目を細めつつ、人形の入ったガラスケースへと近付いていた。
「ぶ、部長! 離れた方がええですって!」
「まぁ待ち、春平君」
「ひょっとして、ウチに対するドッキリですか? それやったら性質わるすぎますよ!?」
「早合点やで、皐月ちゃん。よう見てみぃ」
皐月がズカズカと冬樹の隣に立った。
人形はガラスの壁にへばり付いたような格好を取っている。
「見てみぃ、この格好。明らかに昨日とちゃう形になっとるやろ?」
皐月はジッと人形を見たままだから、冬樹の言葉をちゃんと聞いているのかどうか分からなかった。しかし冬樹は、構わずに続けた。
「日本人形はプラモデルみたいに間接が稼働するもんとちゃう。この格好は明らかにおかしいで」
「あっ」
皐月が引きさがった。
人形の顔が、皐月の方を向いたからだ。
「え、ウソ…… 何コレ……」
『先輩……』
秋恵の声だった。今度はハッキリ聞こえる。
「まさか……」と春平。「秋恵ちゃん?」
突然、皐月の足下がおぼつかなくなったと思った瞬間、膝から崩れおちた。
春平が慌てて、前のめりに倒れそうになる皐月の体を受けとめる。
「し、しっかりしぃ!」
「大丈夫、気ぃ失っとるだけや」
冬樹が覗き込みつつ言った。
「全然、大丈夫ちゃいますやん!」
「とにかく布団へ寝かせよら。それと秋恵ちゃんをガラスケースから出しちゃらなアカンな」