悪天の夜、電波の声
昼過ぎから降りだした雨は徐々に勢いを強め、気付けば土砂降りの様相を呈していた。
容赦なく屋根を打ちつける雨音が、どうどうと、くぐもった音を家全体に響かせている。
卓上の時計が示す時刻は深夜2時を回っていた。
「……もうこんな時間か」
読みかけのページに栞をはさんで本を閉じる。
上空で甲高い悲鳴を上げて吹き荒れる暴風は時折風向きを変え、リビングの窓ガラスに雨粒を叩きつけた。バチバチと喧しい音がここまで聞こえてくる。
台風が近いのだ。
「窓に養生テープでも貼っとけばよかったかな」
家に自分しかいないせいか、最近どうも独り言が増えた気がする。
二階リビングの奥、2.5畳の小さな書斎。
建築基準法がどうとかでドアを付けることはできなかったが、壁のかげになってリビングからは直接見えない造りになっている。
デスクチェアの背もたれに寄りかかり、大きく伸びをした。
納戸のようなスペースにひっそりと存在する書斎は、椅子に座る私から見て右側面と背面が作りつけの本棚になっており、左から抜けて角を曲がるとリビングだ。
正面には壁付けデスクとデスクライト。
暖色に照らされたデスクの上には、たった今置いたばかりの読みかけの本が1冊ある他には、卓上時計と、ポケットラジオが3つ並んでいる。
今現在起動しているのは一番手前のラジオ。二年ほど前に骨董市で購入した、木目調の外装のものだ。
はじめは異音があったが、内部を清掃してボリュームに接点復活剤を軽く吹いたら問題なく使えるようになった。
残りのふたつも似たような経緯で手に入れたもので、かれらはローテーションで私の読書の供を務めている。
まだ少しぼんやりとした頭のまま、聞くともなしにラジオに耳を傾ける。
木目調のポケットラジオからは男の話し声が流れていた。
読書に耽っているうちに、気づけば番組が変わっていたようだ。
ぼそぼそと話す男の声はどこか陰気で、ラジオのパーソナリティにしては聞き取りづらい、こもったような声だった。
私が「なんだ、何と言っている?」と耳をそばだてるのを見計らったように男は一度話を区切り、少し間を置いてからつぶやくように続けた。
『妻を殺したんです』
薄暗い声に一瞬ギョッとしたが、今は夏だ。
おおかたホラー番組でもやっているのだろう。サスペンス仕立てのラジオドラマかもしれない。
『妻とは職場の友人の紹介で知り合いました。2年ほど付き合って、そのまま結婚。仲はそう悪くないほうだったと思います』
男は淡々と話を続ける。
『私は本を読むのが好きなんですが、読んでいる途中でそのまま寝てしまうことも多いんです。そんなとき、机に突っ伏して寝ている私に、妻がカーディガンをかけてくれるんですよ。グレーで、アクリル素材の、妻が自分で編んだやつです。私が起きると妻はだいたいそばにいて、"風邪ひくわよ、あなた"って言うんです』
語り口調で進む番組なのだろうか。
相槌もBGMもない。男の声がとだえてしまえば、聞こえてくるのは家を揺らさんばかりの暴風と激しい雨の音だけだ。
『妻は嫉妬深い女で……いや、"嫉妬深い"というのとは少し違うかな。私を、私の持ちものを支配したがるんです。ある日ね、妻が私にネクタイを買ってきたんですよ。さして気にもとめずに受け取りました。"ありがとう"と言って。それまで使っていたネクタイがクローゼットから消えていることに気付いたのは、あとになってからです』
どこにでもあるような話だ。
『服や靴、イヤホンやらボールペンのような小物のたぐいまで、妻は新しいものを買っては、それまで私が使っていたものを捨てるんです。私に断りもなく。妻のものじゃない、私の持ちものをですよ。新品のものや気に入っていたものも、お構いなしにです。“やめてくれ”と、“せめて捨てる前に私に聞いてくれ”と言っても、その場では“わかった”と納得したふうでいて、また黙って捨てるんです。本だって……同じタイトルのものを買っては、それまで本棚にあったものと入れ替えるんですよ。おかしいでしょう? 意味がわからない。そんなことをして何になるっていうんです。それに、妻が捨てた本のなかには今では初版が手に入らないものだってあったんだ。流石に怒りましたよ。怒鳴りました。妻は“もうしない”と泣いて謝りましたが……それでも結局、またやるんです』
「……くだらない」
浅いため息とともに独りごちる私をよそに、男の話は続く。
『私が選んで手に入れたものが私の周りからひとつずつ消えていき、妻が選んだものが増えていく。じわじわと居場所が侵食され、自分が蝕まれていくようで、私には耐えられなかった』
くだらない。
出来損ないの三文小説でも読んで聞かされている気分だ。
そう思って聞き流してしまいたいのに、屋根を暴力的に叩きつける雨音が激しくなる一方で、聞き取りづらいと思っていたはずの男の声はいやにはっきりと聞こえ、いつの間にか冴えてしまった頭がその一言一句を拾い上げる。
『ある日、妻が私の携帯電話を無断で持ち出してスマートフォンに機種変更してきました。それで言うんです。“これからは、ラジオはラジオアプリで聴けばいい”って。――私の書斎から、読書のときにいつも使っていたポケットラジオが消えていました』
どこにでもあるような話だ。
『私が中学生の頃に自分で作ったものです。安物のキットをただ組み立てただけの、たいした思い入れのあるものでもない。でもそのとき、私の中でなにかがはじけました』
うだつの上がらない脚本家がおざなりに書いたような、粗放で、陳腐で、ありきたりな話であるはずだ。
『この女は異常だ、まともじゃない、そう思いました。人のものを勝手に捨てておいて、したり顔で新しいものをあてがってくる。このカーディガンだってそうだ、私は化学繊維のものなんて嫌いなのに――』
そうでなければおかしいだろう。
『気付いたときには、脱ぎ捨てたカーディガンで妻の首を絞めていました』
でなければなぜ、どこの誰とも知れないラジオの演者が、さも自分のことのように私の罪を告白しているというのだ。
すいと、氷でなぞられたように背筋に冷たいものが走った。
やにわに立ち上がり、木目調のポケットラジオに手を伸ばす。電源スイッチを乱暴にスライドさせると男の声はブツリと途切れた。
どうどうと、地鳴りのような雨音がこだまする。
私はデスクライトのほのかな明かりに照らされるポケットラジオを、底気味の悪い思いで見下ろしていた。
「……ただの偶然だ」
やっとのことで絞り出した声はかすれていた。
偶然だ。
偶然、たまたま、どこぞの脚本家の考えたシナリオが似通っていただけだ。
私は誰にも言っていない。
誰に知られてもいない。
ラジオ番組で告発? ばかばかしい。そんなことをするくらいなら、とっくの昔に通報されて、ここへ警察が来ているはずだ。
デスクの上に並ぶポケットラジオ。
3つ並んだ一番奥、シルバーのポケットラジオが赤く点灯している。電源ランプだ、いつからついていた?
残りのふたつに電源なんて、入れていない。
『…………の……まの……いは、カーディガンと一緒に近所の川沿いに埋めま…………何食わぬ顔をして“妻がいなくなった”と警察……相談して……』
シルバーのポケットラジオが、途切れ途切れに濁った音声を流しだす。
喉からせり上がる悲鳴を必死で飲み込み、私はシルバーのポケットラジオにつかみかかるようにして電源を切った。
そうだ、妻の死体は近所の川沿いに埋めた。
今でもはっきりと思い出せる。湿った土の匂い。あの夜も雨が降っていた。
『……ザザ…は、……家出として……され…………』
心臓が跳ね上がった。
なにが……どうなっている……なんで……
残りのひとつ、今度はブラックのポケットラジオが話し出すのを私は愕然と見つめた。
『……正直……が気じゃ……ませんでした……今にも警察が私を逮捕しにやってくるんじゃないかと…………』
妻を埋めてしばらくは、いつ警察が家のチャイムを鳴らすのか、怯えて暮らす毎日だった。
でも……
『……でも警察は来なかった。そうしているうちに川では法面の補強工事が始まり、妻の上には大きな土嚢が何個も積み上げられて――何ヶ月も経たず、私の罪はコンクリートで埋め立てられました』
震える手でブラックのポケットラジオを持ち上げ、電源を落とした。
妻は家出として処理された。
周囲の人間も私に同情的だ。
誰も私を疑っていない。警察すらも。
それなのに、いつまで経っても忘れられない。
どれだけ忘れようと努めても、ふとした瞬間、脳裏に鮮明によみがえる。
首を絞める私を見つめる妻の目が。
雨に打たれながら穴を掘る、その横で流れる川の音が。
ぬかるんだ、泥の感触までも。
「これだから、雨の日は――」
『雨の日は嫌いです』
男の声は、私の背後から聞こえた。
『ありえない、恐ろしい妄想が次々に浮かぶんです』
匂いがする。
雨でじめついた、土と草の混ざったような匂いだ。
私はゆっくりと振り向いた。
『雨で堤防が崩れるんじゃないか』
背面の本棚、並んだ本と本の間に少し空いた隙間。
小さな箱型の物体が、ザラザラとした音質で男の声を流している。
それは色すらあいまいなほど泥にまみれ、しかしそれが何であるのか私にはすぐわかった。自分で組み立てたものだ。
『ぬかるんだ冷たい土の中から、今にも妻が這い出てくるんじゃないか』
探した。けれど、見つからなかったじゃないか。
とっくの何年も前に妻に捨てられたはずの、自作のポケットラジオ。
『もしそうなったら、妻はきっと私のところへ来るでしょう。妻は私に執着していましたから』
震える手を伸ばし、土がこびりついた電源ボタンをオフにする。それと同時に、リビングのほうでなにかが開くような音がした。
聞き馴染みのある音。リビングの窓を開けたときのような……いや、気のせいだろう。雨の音がうるさくて、聞き間違えただけだ。
もしも窓が開いたのなら、今よりもっと風や雨の音がするはずだ。
だいたい、ここは二階だぞ。一体誰が入ってくるっていうんだ、鍵だって――鍵は、閉めただろうか。
ベチャ……ベチャ……
何かが床を這うような音が聞こえた気がして耳をすます。
聞き間違いだ。気のせいだったと安心したいのに、激しい雨の音が邪魔で確信がもてない。
ベチャ……ベチャ……
まただ。近づいてきている。
いや、窓ガラスに当たる雨音が、そんなふうに聞こえるだけだ。
リビングへと抜ける廊下は、ここからでは壁しか見えない。
あの壁まで、あそこまで行って、右に曲がればリビングが見える。
そこから見えるリビングは当然、窓なんて開いていないし、書斎へ向かって這いずる何者かだっていやしない。そのはずだ。
行って、確かめてみればいいだけの話だ。
それなのに足がすくんで動けない。
突如として、それまで無言だったポケットラジオが一斉に鳴り出した。
心臓が止まる勢いでびくりと体が震える。
4つのポケットラジオが吐きだす歪んだ電波波形は壁という壁に反射して、狭い書斎中にガリガリ、ザーザーとノイズの不協和音を充満させた。
『……ザ、ザザ……ツ…マガ……ァ…ア……』
それらは、みな一様に特定の言葉を伝えようとしていた。しかし雑音がひどすぎて、もはや何と言っているのかすら聞き取れない。
乱高下する音波は、さきほどまでの男の声にも聞こえたし、ときに女の声のようでもあった。
ベチャ……ベチャ……
『…ァ……ア……ナ…タ……アァ……』
震えるほどの恐怖とともに、私は確信していた。
私を長年苛んできた妄想が、今、現実となっている。
アイツが――妻が私を迎えにきたんだ。
薄暗い廊下、その壁のかげ、膝丈ほどの高さから、黒いなにかがゆっくりと現れた。
まとわりついた泥をぼたぼたと床に落としながら伸ばされる、女の手。
『アナタアアァァァ』
「わああああああ!!」
叫びと共に、飛び起きた。
机に突っ伏していた体は、今持ち上げた上体からデスクチェアに腰かける下半身に至るまで、ぐっしょりと汗だくになっていた。
木目調のポケットラジオが朝の天気予報を放送している。
卓上の時計が示す時刻は5時を回っていた。
「……夢…………」
雨はいつの間にか止んでいる。
夢……夢だ。
すべては私の罪の意識が引き起こした妄想だった。
息を整え、深く安堵のため息をつく。
ふと、肩に何かがかけられていることに気付いた。
この手ざわりには覚えがある。カーディガンだ。グレーで、アクリル素材の。
おや、と思う間もなくすぐ耳元で
「風邪ひくわよ、あなた」