塩屋縁起 ~鍾馗さんの導き人形~
ある冬の日、塩屋の地名の謂れを聞き取りに訪ねた時のことを記す。
これはこれは、遠いところよう来いしゃった。
ささ、こちらへ、火にでも当たりなせ。今、茶を淹れもすでの。
さて、塩屋の起こりの話じゃったかの。
それは、はるか遠い昔のころで、ここら辺がまだ別の名前で呼ばれていた時の話ですじゃ。
その年は、春先から続く長雨での、そこらの田畑中に水があふれておったそうな。
ごらんのとおり塩屋の在は、川向こうの宮木や出後よか低いところにありましてな。
ああ、汽車の線路が走っておる辺りから上は、御一新の後に水を引いて耕したところでして、昔は汽車道から下の平地ばかりでしての。
水は低きに流れるの言葉んとおり田畑は水に浸かって、雨はいつ止むやも知れず降り続いている。
そこで、近郷の名主が揃って占ったところ、それには、川に棲む龍神が花嫁を欲しておって、娘を嫁に差し出せば雨は止むであろうとの卦が出まして。
そんなこて、近郷の未婚の娘の中から神饌当て矢で選ばれたのか、金伏の郷の花という娘での。
神饌当て矢では如何ともし難く、花は縁のものと泣く泣く別れの杯を交わして、精進潔斎を整えると、しきたりのとおり儀式の前日に勧進堂に籠りましてな。
ところで、花には清重という言い交わした仲の相手がおりまして、彼も、泣く泣く花を見送ると家で床に就いたのじゃが、気がたかぶってなかなか寝付けずにいたのですじゃ。
ようやくまぶたが落ちた明け方かと言う頃合いに、清重の夢の中に貴人の服装をした髭面の男が現れ、清重にこう言うた。
『明日、神饌供儀があるやに聞いたが真か?』
夢うつつで清重が頷くと、
『其奴は龍神の名を騙る偽物にて、我はこの地を守護する権現に命ぜられ、其奴を打ち果たしに参った。
ついては、其方に頼みがある』
何事でしょうかと、清重がおずおずと尋ねると、
『我を供儀の場へ案内して欲しいのだ。小狡い奴は我が来たと知れば一散に身を隠すであろう。此度の仕儀はそれでも良かろうが、又いずれ他所で同じ災厄を引き起こそう。何より、権現様に討ち果たせと命ぜられた我の面目が立たぬ。すまぬが頼まれてはくれまいか』
清重は、あまりのことに声には出せずとおったが、ようやっと絞り出す様に、
はい。
と答えると、男は破顔して、
『そうか。
では形代を置いていく所以、よしなに頼む。
奴輩は小狡いゆえ甘い息を吐いて贄の他を眠らせようとするであろう。くれぐれも眠ってはならぬぞ。
ではな』
言い終えると、かき消すように姿が失せた。
翌朝清重は、明け方の夢のことを思い出して、花愛おしさに妙な夢を見たのかと思うたが、枕元に置かれた武人の人形を目にして、これはまことの夢枕と合点して、支度を整え宵を待った。
そして、花が勧進堂から出る刻限の少し前に、道端の藪に身を隠した。
男の言うたとおり、刻限が近づくにつれ猛烈な睡魔が襲ってきての。
清重は持っておった金串でおのれの掌や二の腕を刺して、眠気に耐えたのじゃった。
不意に睡魔が遠のくと、勧進堂の扉が開いて、花と介添えの大婆が姿を現した。
清重は二人をやり過ごし、気付かれぬようこっそり後を追うた。
集落を出て丘を下り、腰まで水に浸かりながら川の堤に向かう二人を、清重は間をおいて追いかけた。
二人が堤に登ると、今にも堤を乗り越えようと轟々と音をたてる川の流れが、さらに渦巻いて激しく波立って、川の中から大きく青白い龍が姿を現した。
清重は、竦みそうになるところを己を叱咤して堤へ駆け上がると、龍に向けて人形を投げつけたのじゃ。
すると人形は、龍にも負けぬほど大きな武人の姿へと変わっての。
腰に帯びた剣を抜き放って一振りした。
体の真ん中で断ち切られた龍の変化が解けると、そこにおったのは六十尺を優に越す大百足であったとな。
武人は、なおも暴れる大百足に剣を振るって、四半刻の後には幾十にも切り刻まれた大百足はついに動かんくなった。
武人は清重達に向き直ると、
『其方のお陰で悪しき物を討ち果す事叶うた。礼を言うぞ。
そして花を近場まで招くと、手のひらを出させて剣先に触れさせた。
すると、剣に触れたところから不思議な紋様が手のひらに広がってな。
『娘に権現様からの邪気払いの印を授けた。
村へ戻り此度の仔細の証とするが良い。
奴輩の骸は疾く消え失せようが、この地には暫く邪気が寄り付こう。
塩など置いて清めるが良かろう』
それだけ言い置くと、清重の夢と同じく、融けるように姿を消した。
話を聞いた村の者は、それは鐘馗様ではあるまいかと話したそうな。
やがて話が都へと伝わり、この地に塩の置き屋を設けることになったのじゃ。
塩の置き屋の在るところが次第と詰まって、じきに”しおのや”と呼ばれるようになったのが、この地の名の起こりと伝わっとります。
清重は、そののち塩の置き屋を任されての、花と夫婦になったあとこの地の名主を束ねておったという事じゃが、さて、その家は今はどうなっておるのでしょうな。
これで、塩屋の起こりの話は終いで。
どうじゃったかの?
そう言って、塩屋の大庄屋のご老主人は、話を終えたのだった。
いつかどこかで有ったかもしれない、ゆめまぼろしの昔語り。