4・現在
「・・・それで、目の方はどうなんだ?」
木村先輩が聞く。
「なんだろう、脳を弄った所為かな?視力は大体戻ったんだけど、前と見え方が違って面白いよ。」
目の前に一枚薄いブルーのレンズが入ったようだと、両手で眼鏡の形に作る。――昔なら、他人の前には絶対に出さなかった右手に、黒い指なしグローブを嵌めているのが見える。
「光度に敏感になったのかな?自然物とかスゴイ光って見える。あんまり面白いから、画を始めたんだ。」
楽しそうに言うから、うっかり大事なことを聞き逃しそうになる。
「え〜!!いつから!?」
「木村ぁ・・・そんなに、驚かなくたって・・・」
呆れたように笑う。
「だって、お前。イラストだって筆使わないじゃないか。油絵の道具だって全部捨ててるし・・・」
冴木さん本人とは知らなかったが、彼のP.N.のイラストレーターが特集された雑誌の記事で、イラストを始めた頃はクレパスで、最近はパソコンを使って作品を制作していると見たことがある。
――“事件”後、画の道具を全て捨てたという冴木さんの心情を思う。
「見たい?」
悪戯っぽく聞く冴木さんが可笑しい。
それに勢い良く「勿論!!」と立ち上がった木村先輩も。
「じゃあ、ウチに来いよ。」
冴木さんがキャップを被り直す。
「あの・・・冴木さん。ウチって・・・」
叔父の範行さんの家には同居していないと聞いていたから、どこに住んでいるのか分からない。
「そこだよ。」
そう、垣根の向こうの古びた平屋・・・こちらの母屋と比べたら随分こじんまりとしている・・・を指す。
「ええ〜!!こっちの家に住んだらいいのに・・・。こんな立派な家放置してるんでしょう?勿体無いですよ。」
思わず叫んでしまう。
「だよな?みんなそう言うよ。」と、木村先輩。
「・・・だって、こんな部屋数の多い家、掃除が面倒なだけだろ?」
こんな風に言う冴木さんは、昔のままだ。
高等部の頃、徒歩10分の通学距離を惜しんで作品制作のため美術棟に寝泊りしていたことを思い出す。
「2年くらい前から1人で住み始めて・・・。妹と住み始めて1年半くらいかな。」
さっき会った小学生の繭結を思い出す。・・・だから、あんなに先輩とも親しげだったのか。でも、冴木さんが、妹とは言え小学生と暮らしていると聞いて不思議な気がする。
「あいつがいると、自分がしっかりしなきゃ・・・って思うのかな?面倒も煩いことも多いけど、いっそ神経が落ち着いていい感じかな。」
相変わらず叔父が自分と妹の後見人の形を取っているが、妹と同居して薬の量が減ったと言う。
「放置してたのはあっちの家も同じだけど、俺が住むって決めたら範行が修理させたんだ。だから、中身は見た目ほどひどくないよ?」
過保護だよな・・・冴木さんが右足だけ脱いでいた靴を履いた。
松葉杖が必要だった頃を思い出して、近くに杖がないか探してしまう。
「冴木さん、あの・・・杖は?」
「大丈夫だよ。たいした距離じゃないし。手術前はもう少し歩けたけど、まだ体が本調子じゃないのかな・・・だから、木村。肩貸せよ・・・。」
そう、左手を木村先輩の肩に手を掛ける。先輩も慣れているのか、にこりと頷いている。
左足を引きずるように肩を揺らして歩くのは、昔のままだ。
ボクは、少し離れて冴木さんと木村先輩の後ろについて行く。
庭園と離れを分ける枝折戸へ続く石畳へ出たところで、マスターに呼び止められた。
「これからウチで2次会だけど、晃らも来るだろ?」
宇梶医師や笈川夫妻、瑞歩さんがこちらに歩いてくるのが見える。桜の木の下では、一林さんと降三さんがバーベキューセットを片付けている。
そう言えば、陽が陰って風が冷たくなってきたようだ。
「う〜ん、これから俺んちに行くんだ。木村たちが画を見たいって。後で気が向いたら行くよ。」
な?そう、ボクの方に振り返る。
「あ・・あの、いいんですか?お客さんも行くんでしょう?宇梶医師と笈川弁護士にはお世話になったって・・・」
冴木さんが行かないと悪いように感じる。
「宇梶さんと、笈川さん?別に・・・問題ないよ?・・・ねぇ?」
冴木さんが不思議そうな顔をして、後から来た4人に問いかける。
「えっと、久保田君だっけ?気にしなくて大丈夫だよ。晃をサカナにして呑むと悪酔いしそうだし・・・」
宇梶医師が言うので、みんなが笑っている。
「そうそう、晃がヤラカシテくれた話は沢山あるけど、一番最近のは、この間病院抜け出したヤツかな?」
「ああ!あの時は、また失踪したのかと慌てたよ」
笈川さんとマスターが楽しそうに合いの手を入れる。
「ほらな。この人たちは、俺なんかいなくても仲良しだから大丈夫なんだよ。」
元々、マスターと瑞歩さん笈川さんの奥さんは大学の同級生で、笈川さんはマスターのサークルの先輩だそうだ。宇梶医師は、冴木さんの精神科の主治医だったけど、マスターとバイク好きの共通点から、今ではすっかり呑み友だちだそうだ。
「まったく・・・病院で友だち作んなくてもいいだろう?母友じゃないんだから・・・しかも、場所が精神科だぜ?」
肩を竦めて、冴木さんが大袈裟に溜め息を吐く。
「そういうことだから久保田君、ゆっくりして行って。晃のことだから、なんのおもてなしもしないんだろうけど・・・。」
勿論、あとで店の方に顔を出してくれたら嬉しいけど・・・そう、マスターが言ってくれる。
枝折戸を開けて垣根の向こう側の駐車スペースに停めた車にみんなが乗り込むのを見送って、冴木さんが「あの人たちは、底なしだから延々と呑み続けるんだぜ?」信じられねぇ・・・と笑う。
「晃は飲まないからな。」
木村先輩がクスクスと笑っている。
「飲まないんじゃなくて、飲めないんだよ。薬が効きすぎちゃうから。」
やっと、薬と縁が切れたと安心したのに、今回のことでまた服薬が増えてしまったと、うんざりしたように言う。
「なぁ、久保田って身長どの位?」
冴木さんの隣に並んだら、そう聞かれてしまう。
「・・・175です。」
「木村もそのくらいだろ?」
木村先輩の左肩へ両手を回して上目使いでめねつける。ふざけてそうするのだろうが、何故かその様子が艶かしくてボクの中の何処かに熱くて重い何かが燻る。
「晃だって、高等部の時から伸びたろ?」
木村先輩も、目のやり場に困る・・・そんなカンジで目を逸らす。
「伸びたっていうか、2センチ?せめて170は欲しかったな・・・範行は180あるから、あそこまでは無理かと思ってたけど、期待してたんだよな。」
むくれたように言う冴木さんがあんまり可愛らしくて、笑いたくなるのを押さえるのに苦労した。
いつも不機嫌で沈鬱な顔をした美少女・・・としか表現できなかった美術棟での冴木さんと、目の前の冴木さんがあまりに違いすぎるので、最初は戸惑いを禁じ得なかった。しかし、すぐにこちらが素の冴木さんだと理解する。
木村先輩が冴木さんとの関係を大切にしている理由が少しだけ分かるような気がして、肘で突いたら「この位置は渡さない」と目で牽制され、殴ろうかと思った。