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夏の夜のゴーストライター

作者: 十衡一

 彼女と僕は文通から始まった。僕らは同じ日の同じ時間に、入れ違いになってお互いの机に手紙を入れたんだ。

 何度かの文通のあと、僕らは結ばれた。……叫びたくなるほどに、幸せだった。

 それから二年後。大学に進学した僕は、田舎に帰省する。そこで起きたのは忘れることの出来ない、不思議な出来事だった。

 ──死んだ恋人から、手紙が届いた。見覚えのある筆跡。幾度も頭に刻んだ文体。いつかの記憶が蘇ってくる。



 ──ねぇ、なおくん。もし私が死んで、もう会えなくったら──



 “Ghost writer”


 幽霊も、手紙は書けるのだろうか?





 僕が騙されたと気づいたのは、財布から出た一万円が素早く彼女の懐に吸い込まれた時だった。既に彼女はどこか遠いところを見ていて、手だけが僕の来た道を指差している。


「はい。貴方は帰っていいよ」


「……これって霊感商法ですか? それにしても雑じゃありません?」


「貴方がそう思うのならそうかもね。でも私は貴方に話すことはないよ。あのさ、たとえばの話、今私がどうこう言ったところで貴方はその言葉を信じるの?」


「信じませんね」


「そういうこと。あ、最初に言った通り返金は不可だから」


「はあ」


 ――どうでもいいか。僕は胡散臭い屋台から踵を返し、気紛れに訪れた路地を抜けていく。最後に、『故人の想い、貴方に伝えます』と書かれた看板をちらりと見た。

 その脇に、布で顔を隠している、まだ若そうな声色の女の子。彼女は何を思ってこんなことをしているのか。僕は気になったけれど、気にする気にはなれなかった。

 八番目の月が始まったばかりの夜。蒸し暑い空気を押し退け、幾度目かの詐欺に引っ掛かった僕は空を見る。

 街明かりに星も隠れた夏の夜空。死者は星になると言うが、天国というのは何光年と離れた場所に在るというのだろうか。そこに行けば、彼女は居るのだろうか。

 下らない妄想。決して消えることのない妄執。


「カヤ…………」


 かつて何度も囁いた愛しいその音を、消え入るような大きさで空に飛ばす。一瞬、何処かで星が瞬いたような気がした。同時に、誰かに名前を呼ばれたような錯覚。


 ──なおくん。


「────っ」


 直後、僕は訳もなく走り出す。無性に叫びたい衝動を飲み込み、酸素を求めて口を開き、不安という闇が水のように喉に入り込む。

 かつて恋に溺れた胸は、今は絶望に溺れていた。遂に力尽きて立ち止まったとき、肺が限界を訴え僕は喘いだ。


 ──三ヶ月前。僕は事故で恋人を失った。


 彼女を忘れまい。そう誓った僕に訪れたのは、綺麗事とはほど遠い現実だった。いくら彼女を愛していようが、徐々に薄れる記憶、感触、香り……温もり。

 消えていく彼女の残滓を、狂うほどに僕は求めた。

 街灯の下。空の光は、余りにも遠かった。





 カヤは言う。


「お帰りなさい」


 僕は言う。


「ただいま」


 家に帰れば、カヤが居る。それが僕の日常の普遍だった。手を伸ばせばカヤに触れられる。それが僕たちの不変だった。

 ……いや、きっと、不変だと信じていたんだ。

 実際そんなことはなく、僕らがその瞬間何を信じようとも、ちっぽけなその願いは年を経れば必ず変わっていく。どんな思いでも弱まったり、強まったりするだろう。結局そこにはただそうなっているという事実しかなかった。それだけが唯一絶対の不変で、その前には僕らの気持ちなんてあまりにも無力だった。僕は、それを知っている。

 なのに、事実しかない事知っているのに、それでも僕は追想に揺れて不変を求めていた。そんな矛盾をとめどなく繰り返す。

 彼女は死んだ。僕は、その事実を未だ受け入れられていない。今も何処かに居るんじゃないかと、そう、信じ続けている――





 電車が一際大きく揺れて、僕が夢想から連れ戻されたのは、既に正午を過ぎた頃だった。

 田舎を走る車両は、陽の光に熱せられてにわかに歪んだ線路の上で揺れていた。僕も揺れる。運ばれていく。

 上京して二年半、久方ぶりの帰省になる。窓の外の風景は以前とあまり変わらず、ひたすら緑を大地に敷き詰めていた。

 窓を閉めているのに、土と草の青臭い据えたにおいを微かに感じられるほどだ。


「…………懐かしいな」


 窓の外を見ると、久々に見る景色が僕を迎えた。夏も真っ盛りなこの時期、青々とした森や、光を撒いたように煌めく川を見ると、少年だった折、虫取りに勤しんだ自分を思い出す。しかし、


「あれ……? 誰だろう、あの人」


 見慣れない人影が川の畔に在った。素足を流水に委ね、麦藁の帽子を被り、白い服の背に長い黒髪を滑らせている。

 何処かで、見覚えがあった。目を凝らしてみると、それはかつての光景に酷似していた。電車が川を過ぎ去る僅かの間が、限りなく拡張される錯覚。


「あ…………」


 引き延ばされた時間の中、彼女はゆっくりと振り向き──僕と、目が合った。

 その一瞬時間が止まる。現実と夢の狭間で、僕は彼女と逢った。遥か記憶のかなたで、今では決して叶わぬこなたにあった、彼女のまぼろしと。

 瞬きの間に焼き付いた今の映像と、遠い昔に記憶した過去のフィルムが、重なっていく。死と生の境界が曖昧になり、激しくなった動悸を抑えるように、自分の胸を強く掴む。

 あり得るはずが、なかった。


「…………見間違い、だよな……」


 言い聞かせるように呟くと、引き延ばされた時間はすぐに元に戻った。同時に自分に呆れる。カヤに対する妄執も、ここまで来ると乾いた笑いしか出ない。

 涼しい車内で、僕は異様なほど汗をかいていた。馬鹿馬鹿しくて仕方ない。どこかで、他人にカヤの面影を求める自分が。そしてこうして、自分を無理やり責めてなんとか心を保とうとしている自身の精神の脆さも。カヤが、今の惨めな僕を見たらどう思うだろうか。

 荒くなった呼吸で喉が渇く。一度深呼吸をして、何かを誤魔化すように僕は目を瞑った。





 電車を降りて少し田んぼ道を歩けば、すぐに祖母の家に着く。昔と変わらない時間の流れるこの村では、各家には鍵などかかっておらず、引き戸は何の抵抗もなく開いた。


「こんにちはー」


 挨拶すると、家の奥から足音が聞こえた。色褪せた床はギシギシと軋み、この家の年季を語る。

 そして間もなく、嗄れた声と共に祖母が現れた。僕の顔を見ると、瞳を輝かせ顔を綻ばせる。


「おやおやまあまあ……久しぶりだねぇ」


「うん、久しぶり婆ちゃん。お盆の間、お世話になるよ」


「はいよ。ほら、早く上がりな。今冷たい麦茶淹れるからね」


 言われて僕は遠慮なく家にあがらせてもらった。そう、今はお盆だった。大学に通う僕は休みを利用し、母の実家に帰省したというわけだ。

 十三日の迎え火から二日。僕は今日から祖母の家に泊まり、最後に送り火をして十八日に、東京へと帰る。そして迎え火は……もう、済ませた。この辺りのお盆も形式的なものなので、今日を含めた四日間は特にすることもない。

 祖母に貰った麦茶を嚥下しつつ、そんなとりとめのないことを考えていた。ふと、祖母が思い出したように声を出す。


「ああ、そうだそうだ。さっきナオが来る前にね、女の子が来たんよ」


「女の子だって?」


 僕が聞くと、祖母は頷く。


「そう、女の子。そんでナオにな、手紙渡してくれって頼まれたんよ。不思議な子でな、名前だけ言ってどっかに行っちまったわ」


 手紙だって? 僕は首を傾げた。田舎に知り合いは居ないし、心当たりは……。



 ──ねぇ、なおくん。私が死んだら──



 ……そんな、馬鹿な。


「ねえ、婆ちゃん。その子、名前なんて言ってた」


「ああ、そうそう。なんて言ってたかね……ちょっと待ってな。最近忘れっぽくてかなわん。えっと確か……」


 ……まさか。あり得ない。僕の頭に否定の言葉が木霊する。僕の脳裏を電車で見た光景が過る。それだけで、僕の心臓は激しく脈をうった。喚く鼓動に脳が耐えられなくなったみたいに、思考がまとまらなくなる。

 そして──


「あ、思い出したわ。すまんね。確かその子、名前は〝かや〟ちゃんって、言うてたわ」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の思考は真っ白に染まった。


「……か、や……?」


 カヤ。僕の恋人。かつて愛した、今はもう居ない。あの時の彼女の言葉が、鮮明に甦る。


 ──ねぇ、なおくん。もし、私が死んだら――

――それでも私はきっと、君に手紙を書いて会いにいくよ――



 彼女の言葉が、僕の頭にこだました。追憶が、何度も反復する。

 僕は動揺を悟られないように、しかし暑さ以外の要因で溢れる汗は止められないまま、湿った手で手紙を受け取った。


「あの、さ。婆ちゃん、手紙くれた子、どんな見た目だった?」


「ん? ああ、めんこい子だったわ。こう、白い服着ててな。髪がこんな長くての。なんだ、ナオの彼女け?」


「……いや、知らない」


 知っている。記憶の少女と、電車で見た彼女。気のせいじゃ、なかった……?


「婆ちゃん、僕、部屋に行って荷物出してくるわ」


「おう、行ってきな。部屋わかるか?」


「大丈夫、覚えてるよ」


 そう言って僕は居間を出て、部屋に着くなり封筒を開いた。中身を見ようとするものの、手が震えて上手く取り出せない。


「何を焦ってるんだ、僕は……」


 あり得るはずがなかった。幽霊が、手紙を書くなんて。でも、僕は彼女が本当に約束を果たしに来たように思えてならなかった。僕が見た人影、祖母が見た少女。特徴は酷似している。

 そして何より──約束を交わしたあの時、彼女の瞳の光は、確かに本気だったから。


「────あ……」


 ようやく、折り畳まれていた手紙を開けた時。僕は、言葉を失くした。

 彼女の──カヤの字だ。

 間違えようはずもなかった。少し丸みを帯びた文字も、癖のある「?」の書き方も、僕は全部知っていた。

 〝ゴーストライター〟。

 幽霊も、手紙は書くのだろうか──?





『拝啓、なおくんへ』


 そう始まる手紙には、実に色々なことが書かれていた。天国はなかったけど幽霊はいたとか、壁を抜けようとして顔を思いきりぶつけた、だとか。ありふれた日常を語るように、カヤの文字は非日常を綴っていた。

 信じられないような話は、驚くことにすらすらと僕の中に入り込んできた。何故かは分からない。ただ、確信していた。これは彼女の手紙だと。

 手紙には他愛ない話しか書かれていなかった。ドラマや小説のような感動的な文面など一切ない。それが、彼女らしくて僕は笑った。

 気がつけば、僕は荷物から紙を取り出し、ペンを滑らせていた。確証はない。でもそうすることが当たり前のように感じて、僕は返事を書いていた。

 そして、予想は現実のものになる。

 夕食を食べて部屋へ戻った時、障子の奥から聴こえる虫の羽音が、ひどく透明感のある音色で僕の耳に流れこんできた。水のように、さらさらと。

 畳と押し入れ、テレビ程度しかない簡素な部屋。唯一の家具といえる卓袱台に、封筒が一封、ぽつんと佇んでいる。

 驚くと同時、奇妙な安心感と、得も言われぬ高揚感が僕を包む。或いは、半ば確信していたことが当たったことへの感慨か。ともかく、自分でもよく分からない強い感情が僕の中で存在を鼓舞し、自らを主張していた。ただ、満たされていく。

  僕は手紙を書いて部屋に置いていた。だけど、今机に在るのは剥き出しの書き置きではなく封筒だ。

 僕はそれを手に取った。そう――僕と彼女の、三日間の文通の始まりだった。





 僕とカヤは手紙を通じて交際を始めた。今時、手紙による文通なんて古いかも知れない。だけど、だからこそ僕らにとって手紙というのは特別な意味を孕んでいた。

 高校時代。同じ日、同じ時間、入れ違いにお互いの机に手紙を入れて始めた文通。文字から、文面から懐かしい日々の追想が、今の時間と重なっていく。

 手紙を貰えば返事を書く。それを相手に見つからないように渡すのが、僕らのルールだった。今回だって、きっとそういうことで。

 手紙を読んだ僕が返事を書き、それを部屋に置くと僕がいない間に返事が置かれている。祖母と母の墓参りに行ったりする間、そんなことを繰り返した。

 単身赴任の父から仕送りを貰いつつ、祖母の家から電車で学校へ通っていた二年前。そんな僕らの関係を祖母は知る由もなく、僕はカヤと同じ大学に進学し上京した。

 カヤと僕の、同じ場所への帰省。僕らの間の大きな隔たり。生と死という断崖。三日間、僕らはそんなくだらない境界を気にもせず、向こう岸へと折った手紙を紙飛行機にするように飛ばし合った。


 ――夕飯は何だった?

 また、素麺だったよ。

 ――でも私、素麺好きだよ。

 そういえば、カヤのつゆにわさび入れたら怒られたことあったよね。

 ――もう。あれは絶対に許さないから。私わさび苦手なのに。


 ――おはよう。

 うん、おはよ。

 ――いい天気だね。空が真っ青で凄く綺麗。

 そうだね。そういえばカヤは空見るの好きだったよね。


 なんて、世間話みたいなやり取りを、僕らは繰り返す。

 手紙でやる話じゃないかもしれないけれど、僕らにはそれが十分幸せだった。単純な日常を語り合うのが、ただそれだけの時間がたまらなく愛しくて、幸福で。いつもそうだった。そういえば、よく食べ物のことで喧嘩したことがあったっけ。そんな時のために、喧嘩の約束事を決めたりもした。僕らはお互い頑固だからそれを破ることなんてなくて、喧嘩はいつだって長続きしなかった。

 思い出話も世間話も、尽きることなんてなかった。どんな話でも楽しかった。ただ普通の話をするだけで、こんなにも楽しい人が他にどこに居るだろう。ただ筆跡を追うだけで、こんなに幸せになれる相手がどこに居るだろう。

 僕は何の疑問も持たず、幸せな時間に身を任せた。次の手紙を読むのが待ち遠しくて、楽しいはずの時間もゆっくりと過ぎていく。

 しかし。

 ささやかな幻想はいつか終わる。迎え火があるならば、送り火が。幸せな文通も、長くは続かなかった。

 三日目の朝、朝食を取った僕はいつもと同じように手紙を開けた。


『ごめんね、なおくん。今夜、私は帰らなくちゃいけない。もとの場所に、還らなくちゃいけない。最後に話したいことがあるから、ここで待っていてください』


 手紙に書いてあったのは、そんな簡潔な言葉だった。

 え。と僕は情けない声を出して、今読んだばかりの文字を初めから追っていく。内容はまったく変わっていない。

 自分の目を疑う光景を目にした、物語の登場人物がよくやるみたいに、僕はまぶたを擦った。すると指が少し湿っていて、僕はようやく自分が泣いていることに気づいた。

 世界が揺らいでいた。僕は手紙の内容を信じたくなくて、自分が見ている光景も、全部が偽物なんじゃないかと否定したい衝動に駆られる。

 そしたら、僕の感じているものが、音も匂いも味も光も感触も、全部がどこか違う世界のものに感じた。そうすると、僕は仮初めの安心感に包まれることが出来た。カヤはまだ生きていて、ここは嘘の世界なんだ、と。そう、カヤの最期の日と、同じように。

 だけど、そう考えることはもう一つ恐ろしい可能性を浮上させる。もしかすると、〝カヤと過ごした日常そのものが、嘘だったんじゃないか〟。

 そんな風に僕は自己防衛をしようとして、その度に自分自身の内側を深くえぐる。そんな悪循環を自発させる。自分で自分をえぐってくりぬくたびに、僕はその身のやわらかさに自覚させられた。

 ――僕はこんなにも脆くてやわらかくて、弱い人間なんだ。

 あまりの無力感に、僕は泣きたくなって、でもとっくに自分が泣いていたことを思い出すと、もう涙は止まらなくなっていた。頭が真っ白になって、なんで泣いてるのかも分からなくなるほどに、ひたすら泣き続けた。

 僕はしばらくして、嗚咽を聞きつけた祖母が様子を見に来るまで、くしゃくしゃに握りしめた手紙を持ってうずくまっていた。

 世界が遠くなって、現実感が消えても、喪失感はなくならない。

 最後に、話したいことがある。カヤが残したその文字だけが、遠くに行ってしまった世界と僕を、かろうじて繋ぎとめていた。





 深夜になって、僕は台所に向かった。昼食も夕食も取らず、水さえ飲まずにからっぽになった胃がとうとう限界を訴え、僕は冷蔵庫の麦茶をがむしゃらに飲み下した。

 こんな時でも、生理的欲求に耐えられない自分に嫌気がさす。渇きを満たした体はさらに欲を張り、僕はラップにかけられていた冷えた夕食を腹にかきこんだ。

 僕を気遣って放っておいてくれた祖母はもう眠っていた。明日、お礼を言わないといけない。

 僕はなるべく音を立てないように部屋に戻り、ふすまを開く。


 ――影がひとすじ、部屋にさしていた。


 障子越しに月明かりに照らされていた部屋。畳に映った影は、長い髪をさらさらと泳がせている。呼吸を忘れていて苦しくなり、僕ははっとして頭を振る。

 そしてふらふらと障子に歩み寄り、


「待って」


 懐かしい声に、足を止めた。


「障子は、開けないで。見られたら、消えちゃうから」


「カヤ……なのか……」


「うん。久しぶりだね、なおくん」


 苦笑しているような声。僕の愛した人の声。少し違和感はあったけど、その声、その言葉は、紛れもなく彼女の、カヤのものだった。

 障子がとんとん、と音を立てる。


「ここ、座って。なおくん」


 僕は素直に従った。僕が座ると、カヤも座ったようだった。障子を挟んで、カヤと背中合わせになる。

 境界線だ、と僕は思った。この障子は僕とカヤを隔てる境界だ。生と死を別つ線引きだ。向く先も、居る場所も全く違う。だけど僕らは今、こうして話している。

 そんな嘘のような奇跡に、僕は先ほどまで感じていた絶望や自己嫌悪をすっかり忘れていた。奇跡みたいな奇跡に縋るように、僕は今まで感じていた後悔や悲しみをカヤに吐き出した。

 カヤはそれを全部、「うん、うん」と言って聞いてくれた。いつまで話し込んでいたのか、僕は口が渇いて咳き込んで我にかえった。

 僕は、何を言っているんだろう。もっと言いたいことがあるのに。伝えたいことがあるのに、僕の頭はそれをとらえきれなくて、カヤに手渡すことも出来ない。

 いきなり無言になった僕に、カヤは「大丈夫」と聞いた。僕は「うん」とだけ言って黙りこくった。

 少しして、


「ごめんね」


「……なにが?」


「私、いなくなっちゃって」


 泣きそうな声でカヤは話す。さっきの僕みたいに、後悔とか、悲しさとか、色んなことを。懺悔するように、僕に吐露した。やめて欲しかった。


「カヤは、悪くないよ」


 悪いのは、僕のほうだ。カヤが話した後悔や悲しみは、カヤを失ってぼろぼろになった僕のことだった。カヤは置き去りになった僕のことを気にしていたのに、僕はカヤを責めるように愚痴をこぼしていた。

 だけど、カヤは苦笑して。


「ちがうよ。誰も悪くないの。偶然が重なって、こうなっただけ。でも、そう思っちゃうところがなおくんらしいな」


 そう言うところが、カヤらしかった。変わっていなかった。カヤは自分がこうなってしまっても、カヤのままだった。

 そのことに安心した僕は、くすりと笑ってしまう。

 次の瞬間、背後でやった、とカヤが小さく叫んだ。僕はびっくりして「え?」と狼狽する。


「なおくん、今笑ったよね。私の勝ち」


「あ……」


 その言葉を聞いて僕は思い出した。喧嘩になったときや、どちらかが頑固になったとき。先に笑わされた方が負け。負けたほうは、勝ったほうの言うことを聞く。

 僕とカヤの約束。僕らはお互いに約束を破ったことはない。心底負けたと思った。

 僕は約束を守るしかない。


「なおくん、聞いてくれる?」


「……うん」


 カヤは何を言うんだろう。優しいカヤのことだから、私を忘れて幸せに生きて、と言うんだろうか。

 カヤを忘れる。想像しただけでも辛い。だけど、約束なら僕は守るしかない。守らなくちゃ、いけない。


「なおくん」


 そして、カヤは。


「私を、忘れないで」


 そう言った。


「どうか、私を、忘れないで生きてください。これから他の人を好きになっても、結婚しても、子供が出来ても。私が過ごせなかった世界で、私を忘れないで生きてください。それだけが、私の願いです」


 そう言われて、僕はその時初めて気づいた。

 結局、カヤはどこまでも優しくて、どこまでも僕のことを理解してくれていたんだ。だから、僕が一番傷つかなくて済む言葉を、彼女はくれた。


「……うん、分かった。分かったよ」


 そんな彼女が僕は大好きで、たまらなく愛しくて、抱き締めたくて、でもそれをしたら消えてしまうことを僕は知っていて、ひたすら瞳から涙をこぼすことしか出来なかった。


「カヤは……ひどいよ」


「うん」


「その言葉が、僕が一番僕を赦せてしまうのを知ってて、そんなことを言うんだ」


「……うん」


「そんなカヤが僕は好きで、愛しくて、愛してるんだ」


「……うん。私も、だよ。愛してる、なおくん」


 そこから僕らは何も言わず、ただ涙を流した。カヤも、嗚咽を漏らしていた。僕はどうしようもなく生者で、カヤはどうしようもなく死者だった。

 僕たちは、人の死に対してあまりにも無力だった。死は覆せない。僕らの出来る抵抗は、精々が生きてる時間を伸ばそうとする足掻きでしかない。

 だから僕は泣いた。僕が信じてた言い訳が、理解によって壊されて泣いた。カヤも、それを伝えてしまって泣いていた。

 奇跡の終わりが、近づいていた。


「……そろそろ、行かなくちゃ」


「……うん」


 不意にカヤが言った。いきなりだったけど、突然じゃなかった。これ以上ないほどの奇跡を僕は知った。

 もう縋る必要はなかった。彼女の記憶を運んで、薄れていく罪悪を背負って、僕は生きていく。彼女を忘れながら、でも結局忘れきれずに、もがきながら生きていく。


「最後に二つ、言わせて」


「二つ? いいけど、僕に先に言わせてくれるかな」


「うん、いいよ」


 肯定を受けて、僕は最後の言葉を手向ける。


「また、逢おう。最初で、最後の恋人」


 愛した人に、言葉を手向ける。それはとても勇気のいることだったけれど、僕はなんとかそう言えた。本当に伝えたかった言葉は簡潔に、あっさりと出てきた。

 カヤは、どう思っただろう。伝わったかな。涙声で返ってきたのは、三つに増えた言葉だった。


「ありがとう、大好きだよ。……また、逢おうね」


 それを最後に、奇跡は終わった。

 僕はしばらくぼうっとしたあと、頬が乾いたのを確かめ、荷物を持って外に出る。

 リュックからここ三ヶ月書き溜めた、もう必要のない手紙を取り出して、火をつける。マッチを落とすと手紙は端から黒くなっていき、送り火は空へと火の粉を散らした。



「さようなら――夏夜(かや)


 夏の夜のこと。

 僕は確かに彼女と一緒に在り、奇跡を見た。そして、今度は夢を見る。いつか彼女に逢った時、どんな土産話を持っていこうか?





 ――歩きながら、私はウィッグを取る。

 振り返ると、遠くで炎の光が揺れていた。

 それを見た彼女は優しく微笑んで、それから申し訳なさそうに私を見る。


「いや、気にしないでいいよ。好きでやってることだから」


 だって、お代はもう貰っている。

 彼から渡された一万円。旅費だけで殆ど消えてしまったけど、それで私は十分だ。

 世の中には不思議なことがある。幽霊が居ること。それが見える人、見えない人。……身体に幽霊を宿して、声を変えられる人。幽霊が居る奇跡があるのなら、そんな奇跡もあっていいのだろう。

 霊媒体質。そんなものがあっても見た目だけは変えられなくて、あの時、障子の奥を見られたらおしまいだったけど、彼女は彼が見ないことを分かってた。彼も、決してこちらを見なかった。二人はお互いを分かりきってるんだなって、そう思った。

 それが少し羨ましくて、私は笑う。


「うん、それじゃあ――」


 消えてく彼女を見守る。

 私はゴーストライター。

 死者の気持ちの代弁者。


 語られるのは、私じゃないけれど。得る物もないばかりか、失うことも多いけれど、それで私は満足だ。こんな綺麗な物語を繋げることが出来たなら。


「じゃあね――夏夜さん」


 ある、夏の日の夜。

 これは私が二人をもう一度繋げる手伝いをした――彼と、彼女の物語。


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