#9
その小さな教会の裏手には、告解室へと通じる扉がある。通用口から敷地に入れば、誰にも見られずに告解できるというわけだ。
通用口の鍵と告解室の扉は、日中は開けてある。
五月中旬のよく晴れた昼下がり、ひとりの男が通用口を通り抜け、告解室に入った。長身でがっしりとした体つき、黒いスーツの上下、白いシャツにノーネクタイ、とどめに黒いサングラスなどかけていれば、どう見ても堅気には見えない。若くはないものの、身のこなしは隙がない。顔立ちはなかなか精悍ではあったが、一般人であれば避けて通るだろう。
男は「暑いなあ、チキショウ」と文句を言いながら上着を脱ぎ、椅子の背にかける。勝手知ったる様子で、乱暴に椅子に腰をおろした。外は陽気がよく、少し歩けば汗ばむが、室内はひんやりと冷えていた。
告解室は通常、仕切りがあり、神父には相手の顔が見えないようになっている。ここの告解室は漆喰の壁で、向こうと隔てられている。その白い隔壁の真ん中は、テーブルの高さのあたりがいくぶん張り出していて、そこに椅子にかけた告解者が肘をつけるようになっている。祈るときの支えにせよ、というのだろう。その出っ張りの上には、小さな横長の窓がある。ガラスの嵌っていない窓は、声を向こうに通すためのものだ。顔が見えないか気にする告解者のために、木枠に紗が貼られている。いつもは窓は閉じてあるが、がらりと引き開けられ、ぬうと出てきた手が、小さなグラスを置いた。
「遅かったな。まあ、飲め」
向こう側の神父の声は若いが、命令に馴れた横柄な響きがある。
小さなグラスの中身は水ではなく、どろりと濁った赤で満たされている。男は嫌そうな顔をして、鼻をつまんで一気に飲んだ。
「うぇっ……せめて、酒で割ってくれ」
「すっぽんじゃあるまいし。持ち込みなら勝手にしろ。……仕事だ。これを見ろ」
窓から、何枚かの写真が渡される。からからに干からびた遺体が角度を変えて、何枚も写っている。年齢は不明だが、男のようだった。
「20代後半の会社員。一週間の無断欠勤で、家族に連絡がいき、自宅の鍵があけられた。外傷はなし、失血死。一滴の血も残っていない。『ヤツら』の仕業だ」
「…………」
写真を見る男の眉間に、皺が寄る。
「犯人は金髪の西洋人、女だ。被害はこれだけじゃない、他に4人。いずれも若い男で、同様の失血死だ。被害者のマンションのエントランスのカメラと、駅構内の映像を入手している。女の行き先をつきとめて……」
「始末しろ、だろ」
男は写真をまとめてジャケットのポケットにつっこんで、立ち上がった。
「資料はのちほど、事務所に届けよう。経費として、いくらか振り込んでおく。地方にいく必要があるみたいだからな」
「面倒な仕事だな……報酬、はずんでくれよ」
相手の返事は待たず、男は上着をひっかけて告解室を出る。舌打ちして、忌々しそうに呟いた。
「灰は灰に、塵は塵に、か……因果な商売だぜ」
商店街のはずれにある雑居ビルの二階が、男の事務所だった。表札には、小さく手書きで「科学技術情報分析センター」などと書いてある。狭苦しい急な階段を上がって、右側に古びた木製のドアがある。ドアに貼られたプラスチックのプレートには、同じく手書きで表札と同様の内容が書いてある。鍵などかかっていない。ドアを開けて入ると、若い男が椅子から立ち上がった。
「木場さん! 仕事っすか」
木場と呼ばれた男は、写真を机の上に放り出した。室内は、ドア横に仕切り、その向こうに応接セット。部屋の中央にデスクが三つ。馬鹿でかいパソコンが、そのうちのひとつのデスクを占領していた。まだ液晶もない時代なのでブラウン管、画面は黒地に緑色の文字が走るタイプだ。
「仕事だ、よかったな。あとで山ほどビデオテープが来るから、分析はまかせる」
「ええーっ!」
若いほうの男は、肩までの長髪を明るい茶系に染め、髑髏をプリントしたTシャツにダメージジーンズを履き、指輪やチェーンのアクセサリーをじゃらじゃらと身につけていた。木場よりは背が低く、細身で彫りの深い顔立ち。かなりの美男子だったが、出す声はひたすらに情けない。
「一人でなんて、きついっすよ。手伝ってくださいよー」
「リュウに手伝わせればいいだろ」
「あいつ、高校生っすよ。まだ学校だし、遅くなると家族の爺さんがうるさいんっすよね~」
「……まあ、手が空けば手伝ってやるよ。ちょっと、情報屋と会ってくる」
地道な作業の苦手な木場は早々に逃げ出し、若いほうの男は、のちほど届いた大量の資料に悲鳴をあげることになった。
* * *
とある山の上にある秘密の吸血鬼学校は、棟が三つに分かれている。一般生徒のいる一般校舎、特別クラスの生徒のいる校舎、そして教員らが寝起きする教員棟。上から見ると、正三角形を形作っている。それぞれの棟の最上階には、見晴らしのよい大浴場がある。
教員棟の最上階で、Tシャツ短パンと気楽なかっこうのアルが入浴道具片手に脱衣所に入ると、ちょうど教員のシスター・テレジアとシスター・セシリアが出てくるところだった。それぞれ、風呂あがりとあってラフな格好だ。シスター・セシリアは六分丈のパジャマの上下で、意外に可愛らしい柄のものを着ている。シスター・テレジアはバスローブだった。
頬をほんのり赤く上気させ、豊かな胸の谷間を大胆に露出し、濡れた髪をタオルで押さえるシスター・テレジアの色っぽさときたら、まさしく滴るようだったが、アルに色気は通じない。
「でねぇ~、そりゃもう、久々の東京はたまらなかったわ。ついつい、やりすぎちゃった。やっぱり若い男はいいわよね! 血が濃厚で、芳醇で、それでいてしつこくないの! もうもう、いつも飲んでる廃棄寸前のなんて、腐った青汁みたいなもんよ。まったく、比べられない美味だったわ~……あら」
テレジアはそこでアルに気がついて、いくぶん端によって、すれ違った。他人の耳を気にしてか、教員ふたりのやりとりは、いくぶん小声になる。
「でも……大丈夫なの?」
「大丈夫よ、ここが分かるもんですか」
同僚の不安を一蹴し、テレジアは微笑した。
二人はなかよく並んで脱衣所を出て行った。
(どうやらシスター・テレジアは、ゴールデンウィークに東京で色々やらかしたらしい……)
なんとはなしに、面倒なことになりそうな予感がして、アルはため息をついた。
ため息をつきたいことは、もう一つあった。かなめのことだ。
あれ以来、さらに質問攻めにあって困っている。
「私には準備が必要だから。やれることは全部、やっておかないと!」というのが、かなめの言い分だ。
自棄になったアルは、もう差支えない範囲がどうのと考えず、知る限りのことを教えてしまっている。
教員の誰が吸血鬼で、そうでないか。狼の子の忠誠心が、どの程度か。実際に、校長に対するとき、誰が敵に回るか。
さすがに、アルゲンテウスも、自分が知らないことは教えようがない。校長に関することなどが、それだ。
校長が何歳で、どれほどの実力かなど、実はよく知らない。自分を救ってくれたときの状況で、神のように強いと思っていたが、もしかしたら、それは思い込みで、実は校長は弱いかもしれない。仮にそうだとしても、あれだけの配下がいるのだ、簡単に勝てるはずがない。
(かなめは……勝つだろうか?)
勝ち目のない勝負だと思っていたはずなのに、どうしたら、かなめが勝てるかを考えてしまっている。
自分は果たして、どちらの味方なのか。
同僚にも釘を刺された。
「あんたさあ、あの特別クラスの生徒とよく喋ってるけど。なに考えてんの? あいつらは、私たちより使い捨てなんだよ。同情は禁物だからね」
ストロベリー・ブロンドのロシュは、アルと同様に愛らしい少女にしか見えないが、中身は手練れの女戦士だ。
釘を刺されても、アルはかなめと人目を盗んで会合した。どうしても、気になった。かなめが勝てるのかどうか。
(これは興味で、肩入れじゃない。勝ってほしいわけじゃない。ただ、気になるだけだ。どっちが勝つのか。ハブとマングースぐらいのいい勝負になればいいな、程度の……)
情報の漏えいが校長に露見すれば、なんらかの罰があるかもしれない。
それでも、アルはやめるつもりはなかった。自分でも、自分がよく分からない。
最近は、ここに居続けるべきかどうか悩んでいる。かなめに賭けることで、その答えを見つけたいのかもしれなかった。