#8
かなめは物心つく前に、両親を亡くした。以来、施設で暮らしていたが、いろいろと制限された生活は幼い子供には厳しく、辛く思っていた。そこへ、なかなか子供のできない夫婦が養女にと申し出てきたのだ。
かなめは喜んだ。面接で会ったところ、身綺麗な、裕福そうな夫婦だった。いい子にして、好かれようと思った。きっと、明るい未来が待っている、そんな気がした。
かなめは頑張った。養父母に好かれようと、家の手伝いをしたり、勉強を必死にして、常によい成績をとった。運動も頑張って、逆上がりができなければ、帰り道の公園で、暗くなるまで練習した。
母親はやさしく、父親はおっとりしていて、家庭は居心地がよかった。しかし、気に入られようと必死なかなめは、家でくつろぐということがなかった。部屋はいつも綺麗に掃除していて、消しゴムのかすひとつなかった。日曜も早起きしてジョギングして、ひたすら勉強した。
5年ほどして、かなめが十歳になるころ、母親が妊娠した。もうとっくに妊娠を諦めていたので、両親にとっては望外の喜びだった。
母親はかなめに約束した。
「弟ができるけど、わたしは変わらず、あなたのお母さんだから」と。しかし、かなめは不安だった。実子に勝るものはないのではないか。母親の愛は失われるのではないか。
父親はのんきに笑った。
「愛は増えるものだ。弟のお手本になる、りっぱなお姉さんなのだから、胸をはりなさい」と。それでも、かなめは不安だった。
かなめはますます、勉強に運動に打ち込んだ。そうすることで不安を解消しようとした。
母親は無事に出産を終え、しばらく実家に戻ることになった。赤ちゃんの世話で大変だからと、かなめは連れていってもらえず、置き去りにされた気分で、父親とふたりで暮らした。
父は多忙な人だったので、家のことは臨時で雇われた家政婦がすることになった。家政婦はかなめにとっては余計な邪魔者だったが、手際のよい仕事ぶりは見習うべきかと、掃除を手伝ったりした。
三か月ほどして、母親が弟をつれて、家に戻ってきた。かなめにとって弟は、泣くばかりで役に立たない異物だった。かわいいと思えなかった。
進路について大事な話をしていても、赤ん坊が泣けば、母親は話を中断して「あらあら」と弟のところに走っていってしまう。
父はほとんど家にいないし、かなめの不満はたまっていった。
おかあさん! こっちを見て!
必死の訴えも母親の心には届かない。身近に友人の少ない母は、育児の悩みを聞いてくれる人が少なく、だんだんとノイローゼになっていった。
あるとき、弟がベビーベッドから落ちた。母親は激昂した。かなめがしつこく話しかけるから、気づくのが遅くなったのだと、かなめを怒鳴りつけ、ひっぱたいた。母親は落ちた子をすぐに抱きかかえ、タクシーで病院に行った。置いていかれたかなめは、ただ泣くしかなかった。
弟にはたんこぶが出来た程度で、脳などに異常はなかったが、かなめに対する母親の態度は、ぐっと冷たくなった。
「いいお姉さんになりなさい」が口癖になった。
父は海外出張も増えて、家にいない日々が続いた。かなめは、たまに電話をくれる養父のほうを心の拠り所にするようになった。なつかない娘に、母親はますます冷たくなった。
弟は歩けるようになると、母親のあとをついて回った。そのうち、姉のあとを追いかけるようになった。
かなめは弟を振り切って、走って逃げた。弟は置いていかれて、泣いた。
中学受験の時期がきたが、かなめは遠慮して近所の公立にするつもりだった。母親は無関心だった。父親は、せっかく成績がいいのだから、私立にいけばいいと言った。
「女の子なのに、そんなに勉強ばっかりしてどうなるのかしら」という母親の言葉に反発したかなめは、難関の私立を受験して合格した。
「お金ばっかりかかるわね。下もいるのに」と母親は嫌味をいった。かなめは聞かないふりをした。
いっそ、医大まで行ってやろうか。遠くの大学なら、一人暮らしできるかもしれない。
そう考え、ますます勉強に打ち込んだ。
弟が物心つくころには、もうすっかり嫌われていた。母親がかなめを嫌うので、弟もかなめを馬鹿にした。
母親は弟を溺愛し、なんでも買ってやった。弟はそれをかなめに自慢した。無視すると癇癪をおこし殴りかかってきて喧嘩になり、母親にかなめが怒られた。
「どうして仲良くできないの、きょうだいでしょ」
きょうだいなもんか、とかなめは心のなかで言い返した。
同じテーブルで食事をしていても、話をしているのは母と弟だけで、かなめは食べるだけ食べると、すぐ自室に戻った。
こんな冷たい家は、いたくない。すぐにでも出ていきたい。弟が出来た時点で施設に戻ったほうがよかったのかもしれないが、あの不自由な暮らしを思うと、どうしても戻りたいとは思えなかった。
17歳になったあるとき、家に戻ると、騒がしかった。弟が友達を呼んで、誕生パーティーをやっていた。
そういえば、今日は弟の誕生日か、と思い、弟がベビーベッドから落ちて以来、誕生日にケーキも買ってもらえなくなっていたのを思い出した。
「長い!」
アルの抗議に、かなめはむっとした。
「あとちょっとだよ、かっとした私は弟の誕生パーティに乱入して、ご馳走の載ったテーブルをひっくり返して、めちゃくちゃに大暴れして、施設に戻される。ってだけ」
「……それだけで戻されるものか? 不自然じゃないか。かなめの養父は、かなめをそれなりに大事に思ってたんだろ。その程度で施設に突っ返すのか?」
「…………」
かなめは自分の設定の甘さに、唇を噛んだ。
ゆきが去ったあと、かなめは良子について悩み、狼の子を味方につけられないかと企んだ。
教師は校長の味方だろうし、用務員は何も知らない可能性が高い。狼の子だって校長の味方だろうが、見た目が幼いので、餌づけでもしたら、なにか情報でも貰えるかもしれないと、絶賛、餌付け中だ。
今日も、家庭科の時間で作ったクッキーが余ったという口実で、身の上話をおっぱじめ、どうにか親近感を持たせられないかと画策しているところだ。
狼の子は四人ほどいるらしいが、アル以外は日本語で返答してくれない。懐柔する対象はアルしかいなかった。
昼休み、中庭でアルとふたり並んで芝生に腰をおろし、校舎によりかかってクッキーをかじる。クッキーの出来はそこそこだったが、焼き立ては香ばしく、二割増し美味しく感じる。よい天気で、木漏れ日が気持ちよかった。黒いベールからこぼれたアルの銀色の髪が、日の光に煌めいた。
さきほどのアルの指摘は、的を射ていた。実際にはそのとき、養父が帰ってきていて、家にいづらいだろうからと食事に連れ出してくれたのだ。
その際、「かなめはずいぶんと綺麗になったね」などと、ねっとりした手つきで腰に触れられて、言うとおりにすればこれからも経済的援助を惜しまないなどと取り引きめいたことを言われつつホテルに連れ込まれそうになり、養父の鼻っ柱を文字通り叩き折ったのだった。
養父は怒り狂い、ついで妻にばれたらまずいと青くなった。食事の最中、急に暴れて鼻を折られたと養父はでっちあげ、養母は以前からかなめに不満があったので、これ幸いと語調をあわせ、叩き出されたという顛末だった。
唯一の心の拠りどころで尊敬していた養父が実は下衆男であったのは、かなめにとっては大変なショックであり、そのとおりに語るには、あまりに思い出したくない出来事だった。さらに、ゆきに性的虐待未満のことを話すのは抵抗があって、そのへんを変えた身の上を話していたが、狼の子には本当のことを言うべきか、とかなめはしばし逡巡し、けっきょくは本当のことを話した。
アルは自分の推測が正しかったことに満足したのか、面白そうに微笑して聞いていた。
「で、結局は何が言いたいんだ? 私は可哀そうなんです、ってわけじゃないんだろう?」
「私は……ちゃんとした家族がいなかった。でも今は、特別クラスのみんなを家族と思っている。だから、良子の無事をたしかめたい。でも私には確かめることもできない。……正直、もう死んでしまっているかもしれないと思っている。たぶん、荷物の一切合財を焼却炉で焼かれたんだ。何一つ持ち出せなかったか、良子もここから出ていないか……。良子がどうなっているのかを知りたい。そのためなら何だってしたいと思ってる」
「なんでも、といっても、お前に出来ることは少ないだろう? 死んでもいい、ということか」
「死……」
かなめは、生唾をのんだ。かなめたちは、日光では死なないが、首を切り落とせば死ぬという。心臓を抉られても死ぬ。死ねば、瞬時に灰になるらしい。死体は残らない。
「死んでもいいから真実を知りたいというのなら、校長室に行けばいい。校長はおそらく、喜んで教えてくれる。その後、どうなるかは保証できないが、たぶん、教室には戻れないだろうな」
アルゲンテウスは、横目にかなめを眺めて、こともなげに言う。
かなめは、自分が校長室に行くことを考えた。絶対に、いやだ。死にたくない。
「アルは、良子がどうなったか知ってるんでしょう?」
すがるような思いで尋ねると、アルは首を振った。
「残念だが知らない。が、仮に私が良子の行方を知っていたとして、校長に口止めされていたら、その信を裏切ってまで、お前に話す利点がどこにあるんだ?」
「利点って言われても……もし、良子がもう死んでいるとすれば、校長は人を人とも思わない最悪な教育者だから、そんなのに仕えていても、あんたも使い捨てにされるだけなんじゃないの?」
吸血鬼学の授業を思い出す。狼の子について。
「もともと、吸血鬼は、昼間は土の中や暗い館、墓地などで眠り、夜間、活動するものでした。しかし、昼に人間に襲撃され、心臓に杭を打たれ、首を切り落とされることが続発すると、身を守る必要から、下僕をつくったのです」
シスター・セシリアの玲瓏な声を思い出す。
吸血鬼が吸血鬼を作るには、からだ半分の血が必要だが、人狼をつくるには、ひとすくいの血で足りる。契約者に飲ませれば、恭順な獣をつくりあげ、守護者になるという。
ただ、血は毎日、与えなければならない。そのため、吸血鬼ひとりで持てる人狼の数は限られる。
昼間、活動し、あるじの寝所を守る。吸血鬼の血のおかげで、歳をとらない。しかし、不死ではない。怪我がひどければ死ぬ。四肢は再生しない。そして戦闘時には、変身する。
(変身か……そういえば、アルは何に変身するんだろう)
人狼なのだから狼だろうと思っていたが、教師の口ぶりによると、どうも狼に限定されないらしい。ちょっと興味があった。
ともかく、今はアルの説得だ。どうにか、味方にしなければならない。
(そうだ、私は……良子がどうなったのかも知りたい。けど、それ以上に、ここから逃げ出したいんだ)
最初から、違和感があった。得体のしれない校長がおそろしかった。なのに、なぜ契約してしまったのかといえば、施設に戻されてやけくそになっていたからだとしか思えない。
自分を追い出した、あの最低な家族たちを嘲笑ってやりたい。そんなつまらない意地のために、どれほど大切なものを手放してしまったのだろう。後悔したってしきれないが、ここが踏ん張りどころと、かなめは気合いを入れた。
「少年兵のこと、調べたよ……。あんたはあんたで、大変な人生を歩いてきたんだろうけど、校長がその救い主というのは、ちょっと違うと思う。都合がいいように利用してるだけだ。私だったら……こんな小さい子たちに、仕事なんてさせない。ちゃんと養って、学校にいかせて、大きく……って、大きくはならないんだっけ」
「私はもう、子供っていう歳じゃないよ。子供にしか見えないだろうけどね。校長が私を利用しているというなら、私も校長を利用してるだけだ。のんびり仕事して、給料をもらっている。安全な家と、食料を提供してもらっている。かなめに与して、私にどんな得がある?」
「わ、私には……経済力もないし、でも……良子をどうにかしたのが校長なら、そんな非道なやつ、私以外にも殺したいって思う人はたくさんいるよ。そのとき、味方したあんただって、酷い目に遭う。そのときになってから慌てたって遅いよ」
「そういう覚悟もしてるさ。でも、そうだな……。かなめが校長より強いなら、かなめにつこう。約束するよ」
「え……ええ~~~~~~~~~~~~~~~!?」
「校長より強ければ、校長に対面しても生きられる。良子のゆくえも聞けるだろう。頑張れ」
「頑張れっていっても……」
かなめはよろよろと、その場を去った。
アルゲンテウスは立って、膝のあたりに落ちたクッキーの粉を払いながら、悄然としたかなめの後ろ姿を見送る。
かなめが校長に勝てることなど百万にひとつもないだろうが、立ち向かう覚悟があるのなら見直してやる。そう、心の中で呟いて笑った。