#39 三寸金蓮(4)
珠蘭は死にかけていた。懐に抱いた猫だけが温かい。猫は薄汚い茶色の猫で、その茶色が毛皮の色なのか汚れなのか判別できないほどだったが、珠蘭には無二の友で唯一の懐炉だった。
あれから数十年が経った。
――――あのとき、隣国に攻め込まれて王宮が燃えあがり、珠蘭は逃げ隠れしながら、どうにか生まれた郷里へ戻り、実家をたずねた。実家は焼失して、焼け残った数本の柱と焼け焦げたあとだけが燻っていた。おおかたの財産は持ち去られ、あるいは盗まれていた。祖父母や親戚、両親の姿もきょうだいの姿もなく、ごろごろと黒焦げの死体が転がっていた。家屋敷が燃えるまえに毒をあおって死んだらしく、焦げた棒切れのような死体のなかに家人のものがあるかどうか、珠蘭は探す気力もなくなり、よろよろと敷地を出た。
懐にあるのは王宮で与えられた宝石や貴金属など、急いで持ち出せた、わずかな財産だけだ。女ひとり、これでどうやって生きていけばいいのか。分からないままに珠蘭はなるべく遠くの都市をめざし、誰も知らない街で、あらたな人生を出発させるしかなかった。
女ひとりでは商売もできないから、男に頼るしかなかった。街の孤児たちを乞食に仕込んで、上前をはねるようなけちな男をたらしこみ、妻におさまったつもりだったが、数年して珠蘭が若くなくなると、男は遠慮なく珠蘭を捨てて新しい女を後釜にすえた。わずかな財産はとうに取り上げられ、無一文で放り出された。怒って抗議したが、纏足を失敗するような女と罵倒されて、悔し涙をのんで諦めるしかなかった。新しい商売をするからと共同で出資したつもりだった。甘かった。
次の宿場町では、珠蘭は飲み屋に居座り、派手ななりをして男に言い寄り、宿についていって体を売る娼婦になった。三十路という珠蘭の年齢と足ではまともな売春宿で雇われるわけもなく、ここでも失敗した纏足が文字通り足を引っ張った。ときに買い叩かれ、ときには払い渋られ、ときには金を奪われ殺されそうにもなり、しばしば乱暴にされた。
いままであった国は一晩で無くなり、別な名前の国になり、流通する金銭も変わった。今度は善政だといいがと飲み屋で男たちが噂した。珠蘭は王宮での贅沢な生活を思い出し、懐かしくなった。が、その生活の金は、民から吸い取った税金だった。
(でも、私は……悪くない)
珠蘭は流されるままに生きるしかなかった。こうして落ちぶれていても、自害する気にはなれない。皆、どうしてためらいもなく毒を呷ったり、喉を短剣で突けるのだろう。私が意気地なしなのか。珠蘭はうじうじと悩みながらも、その日その日を暮らしていった。
そのうちに病気になり、足腰が立たなくなった。外見も一気に老い衰え、もう裏路地で筵にくるまって、ただ死ぬのを待つしかない。夜中に飲食店の裏のゴミ箱を漁る。ただ、ゴミ箱にも縄張りがあり、料理屋の廃棄の手つかずの残飯があるようなゴミ箱は体格のいい男の浮浪者たちが独占していた。戦争のあとで手足を無くして働けなくなった者、年老いたが身よりがなく養ってもらえない者、身内に捨てられた者、戦争で身寄りを無くした老人などなど。まともな働き口のない者は意外に多くいて、路地裏で熾烈な争いを繰り広げていた。そして戦争で親を失った子供たち。健康で手足がそろっているが、まだ世知がなく、大人の言うなりに騙されがちな彼らを使って商売をする珠蘭の前夫のような者もいた。乞食、掏摸、強盗。なんでもやっているようだ。いかにもな旅行客に高い土産品を売りつけたりもしていた。
珠蘭の陰部は性病で爛れて、尿は垂れ流しになっていた。尿が流れるたびに染みて、じくじくと痛んだ。そんな有様でも、夜、娼妓を買う金もない老いた浮浪者たちが来て、気まぐれに輪姦していった。まさしく便所のような扱いだった。少しばかりの食料をお礼がわりにか置いていく者もいたが、ほとんどは唾を吐きかけて笑って去っていった。猫は怯えて、男たちが去るまで物陰に隠れていた。珠蘭は屈辱と痛みに泣いた。乾ききったそこに乱暴に突き入れられるのも激痛だったが、なによりも意思のないモノ扱いされるのが悔しいなんてものではなく、屈辱のあまりに死にたかった。売春婦であったときも屈辱の極みだと思っていたが、それよりさらに下の地獄があるとは思ってもいなかった。女の地獄には果てがなかった。
川に体も洗いに行けなくて、数ヶ月して垢と汚泥に塗れて酷い臭いをさせるようになると、さすがに男たちも寄ってこなくなった。
何日も食べていないが、もはや空腹も感じなかった。屈辱と苦痛と絶望の果てに、ようやく安息が手に入るのか。もう早く死にたかったが、腕の中のぬくもりが失せているのに気付いた。唯一の友が、ひっそりと先に息を引き取っていた。猫はひとりで物陰で死ぬものなのに、珠蘭が心配で、離れがたかったのだろう。以前はよく、小獣や虫など取ってきて、珠蘭の枕元に並べたりしていた。弱って動かない珠蘭を子供のように思っていたのだ。猫も老齢で、ここしばらく眠ってばかりいた。おそらくは寿命で逝ったことだけが慰めだったが、ひとり置いていかれた悲しみはどうしようもない。
もう涙も尽きたと思っていたが、わずかに目の横を流れていった。
どうして、このまま死ねるだろう。こんな世界に、天に唾も吐けずに、何も出来ないまま、ごみくずのように死んで、死体はそのまま打ち捨てられるか、疫病を恐れて、どこか町外れに埋められるのかもしれない。このまま大人しく死ぬなんて、冗談じゃない。怨霊となり、誰彼かまわず祟ってやる。数百人といわず道連れにしてやる。そうでもしないと。
(わたしの、生まれてきた意味は……なんだったというの……)
纏足は新しい政府が野蛮だと禁じて、小さい足の娼妓たちは西から入ってきたハイヒールを履いた。美しいエナメルの宝石のような、小さい、踵の高い靴。客の男たちは喜んで褒めそやしたという。纏足のできない農家の女たちは大足と馬鹿にされてきたが、いまや大足の女たちが普通の世界になっている。纏足が美しいという価値観を定めたのが権力者の男たちなら、それをひっくり返したのも男たちだった。纏足が失敗して死のうとしていた自分を、今なら笑ってしまえる。あれほどに纏足に血道をあげて、血と膿と涙を流して必死に頑張っていたことが、こんなにもくだらないことだったとは。認めたくなかったが、認めたくもあった。
生まれたことに意味はなく、ただ、虫がもがいて死んでいくだけだった。
でも、それならば、自分が生きていた証を大地に刻みたい。消えないほどに深く、強く。だから人々は名を残そうとするのかもしれない。子供を残そうとするのかもしれない。ただ、飯を食い糞をして老いて死んでいくだけなんて、あんまりではないか。
子を産んだが全員死んだし、名を残そうにも残せなかった珠蘭のできることといえば、この世に祟ることだけだった。
「それで……祟れたの?」
ずっと自分の内から見守っていた何かが、静かに尋ねる。
「どうなんだろうね」
思ったよりも素直に、その声に応える自分を、珠蘭は他人のように眺めていた。
それから――――不思議な声がして。
「祟りたいの?」
やさしい女性の声で、瞼の裏には、ふわりと赤い髪のイメージが踊った。珠蘭は意識もうろうとしながら、激昂した。
(また――――また、赤毛の女! またでしょ、また私を騙そうっていうんでしょ。もううんざり、もう利用されるもんか。もうイヤ、放っておいて、静かに死なせて。もう、もう……疲れたんだから!)
心で叫ぶと、女性は、あらあら、と微笑んだ。
「このまま……死ねるの? 死にたいの? ごみくずのように打ち捨てられて。共同墓地に埋葬されて。誰にも知られず、祈られもせず、路傍の石ころのように忘れられていきたいの?」
(あなたはなんなの)
死に瀕した珠蘭が問う。女性は答える。
「私は……大いなる流れに逆らうものよ。運命に刃向かう者。道連れを探しているの。あなたは……自分の運命を受け入れる? 一度は纏足を失敗しながらも王宮にあがり、栄耀栄華を尽くし、この世の春を歌ったじゃない? ここまで落ちぶれて、それでいいの――――? やり直したくはないの?」
悪魔のささやきだった。
珠蘭はいつの間にか、13歳ぐらいの外見になり、暗闇に立っていた。纏足の失敗したあの歳、死のうとして痛む足をひきずって、滝壺にまで行ったあのとき。
ぼうと灯る光のなかで、目の前に立つ赤毛の女性は、あのときの仙女もどきに髪色は似ていたが、まったく違うというのはすぐに分かった。並外れて美しかった。なかなか顔を見せようとしなかったあの女と違って、堂々と珠蘭に顔を見せている。ながい睫毛。エメラルドの瞳。女王のように立っていた。理不尽な運命に傲然と立ち向かう女神のようだった。
「わたしの戦いは、ひとりではとても難しいのよ。あなたのような……心のつよい味方が必要なの。それもたくさん。あなたも加わる? それとも……そのまま安らかに死ぬ?」
(うわーっ、『力が欲しいか?』だよ。珠蘭はこれに乗ってしまったの?)
心の中の者が尋ねて、珠蘭は頷く。
「だって。やっぱり……あのまま死ぬのは、あまりにもみじめだったもの……」
せめて、猫を埋めてやりたかった。唯一の友を見送りたかったし、この世のすべてをひれ伏せさせ、見返したかったのだ。
(それで……夢は叶ったの?)
「…………」
珠蘭は俯く。
赤毛の女王は問う。
「わたしの戦いは絶対の味方が必要なの。裏切らないと誓える? 命にかえて誓える? ……誓ってくれるなら、力をあげる。ただ、その力は……裏通りの闇のなかのものなの。もう表舞台には出られない。有名になりたいとか、そういう願いは叶えられないから」
「……あなたのこと、もっと知らないとなんとも言えないわ。……名前を教えて?」
「わたしはね……」
女王が名をつげる。臣下は忠誠を誓った。女王の血を下賜され、眷属となった。
その晩、その街が燃え上がった。女王の配下たる眷属たちが集い、新入りを歓迎して、血の祝宴が行われた。珠蘭を踏みにじった男たちも、無関係の女子供も、すべての命が失われた。街は一晩で焦土となり、そののちに生きている人間は一人もいなかった。
「…………」
珠蘭の人生を見つめてきた、かなめは考える。そして途中で打ち切られてしまったクオンの人生をも考える。これは正義なのか。自分が与する陣営として、どうなのか。
かなめが手をひと振りすると、舞台は炎上する都市から白い部屋へと切り替わった。
銀子の座する白いソファの隣にかなめが落ち着くと、対面の一人用のソファに珠蘭がかけた。クオンの思い出に登場したときのように13歳くらいの少女の姿で、短い赤いチャイナドレスからすんなりとした足を見せつけるように組んでいる。黒髪はかわいらしいお団子に結いあげ、気の強そうに目尻の釣りあがった大きな瞳で、かなめをじっと見つめていた。
「つまり、お前はその赤毛の女王の使いなんだろう」
銀子が茶を淹れる。中国茶の細工茶で、ガラスのティーカップに湯を入れると、花のように葉が開いた。床に腰をおろして頬杖をつき、間近にその様子を眺めながら、珠蘭がこたえる。
「……そう。山ひとつ潰したんだもの、あなたたちは世界中の有名人なのよ。どの陣営も欲しがっている。私たちの女王様も、あなたたちに興味津々なの。新兵器みたいなものよ、手に入れたら力関係が変わってしまう。だからウチはあなたたちの知り合いの港を使ったんじゃない。……あんまり役には立たなかったようだけど」
かなめは目をしばたたく。
「そんなことないよ、私はどうしても港を助けたい。……あなたたちといる港は幸せには見えないから、どうにかしてあげたい。……どうしたらいいだろう」
銀子に尋ねると、首を振られた。
「問題外だな。……桜庭のほうが人間の味方なだけ、まだマシかもしれん。お前たちの陣営は……なんという名なんだ」
珠蘭に聞くと、「世界」と答える。
「……『世界』は人類の支配を、『教会』は吸血鬼の殲滅を目的としている。……かなめはどちらに与するんだ?」
銀子の問いに、かなめは唸る。
「教会は人狼を使い捨てにするんでしょ? ……私たちのことも餌にして敵を釣るなら、もう信頼できない。……一緒にはいられない、そうなんでしょ。……でも、珠蘭の組織も人を犠牲にするというのなら、私には人間の友達がいる、何よりも大切にしないといけない友達なの、だからあんたらにも協力はできない。……とくれば、もう……どっちもご免、という結論にしかならないけど……」
「両方からは逃げ切れないぞ」
銀子の言葉に俯く。
珠蘭が提案した。
「かなめの愛する人間がひとりかそこらなら、それだけを助けることは出来るかも。……女王様に聞かないとだけど」
かなめは心を決めた。
「……ゆきと港は助けたい。あなたたちの女王様と話してみたい。案内してくれる?」
「教会を抜けるってことでいいの?」
尋ねる珠蘭に同意する。
「そう。……しょうがないね」
銀子に目で伝える。どちらにもついていけない。港のことがあるから、表面上は世界のほうに友好的に振る舞って、それまでは教会の追撃を振り切り、世界のリーダーに会えたなら……。
(たぶん、戦うことになる)
かなめが勝てるかは分からない。が、街ひとつ潰すような吸血鬼の組織は、存在してはいけないと思うのだ。
(どうなるかは分からない、けど……)
銀子がそばにいるなら、何でも出来るような気がした。
――――と。その前に。重要な懸念がひとつあった。
「銀ちゃん、教会と対立するということは……もう日本に戻れない、ゆきに会えないってこと!?」
どうしよう、と困り果てた顔をするかなめに、銀子は渋面になるのだった。




