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黄昏と暁のあいだ  作者: 七篠いくみ
永遠の少女と狼の子
35/39

#35

 ふわりと、芳香が鼻先を撫でた。旨味をたっぷりと含んだ、滋養あるスープの食欲をそそる匂い。銀子が数時間煮込んだ、ボルシチのものだ。

 食事は当番制だった。かなめはいつも当番のときは、料理本と首っぴきで、レシピ通りに作った。それでも、うまく行ったり行かなかったりで、料理はなかなか難しいと感じていたところだ。銀子と二人暮らしする以前は家事は義母まかせで料理などしたこともなかったのだから、これは仕方ないといえる。まだまだ練習が必要なのだ。

 銀子は料理本などは見ず、目分量で作る。だいたいは炒め物か煮込み料理で、煮込み料理のときは寸胴で作った。どこから買ってきたのかと問いたいほどに大きな、プロ仕様のような寸胴鍋で、ラーメン屋がラーメンのだしを取るのに使うような、カレーを煮込めば三十人前以上は楽に作れそうな、そんな寸胴鍋だ。そこへ、材料を切っては入れる。そして煮込む。大量に出来た汁物を、数日間、いや下手すると一週間は食べることになる。それでも味はなかなか素晴らしく、かなめは文句は言わなかった。ただ、二人暮らしなのに、どうしてそんなに量を作るのか、とは聞いた。

 銀子は懐かしそうに微笑して「……以前は、大所帯だったから。大きな鍋でたくさん作るのに慣れていたから、ついな」と言っていた。

 かなめは銀子の以前の生活を想像し、ずいぶんと長く校長とともに学校にいた様子なのに、学校にいたときは食事は厨房が出していて自分では作っていないだろうに、それでもそれ以前の生活が染みついているのか、本当はその以前の生活が懐かしいのだろうか、と考えたりなどした。銀子の普段の口ぶりでは、幼い少年少女を犠牲にする軍隊での生活を呪っているような様子だったので、あまり詳しくは尋ねないのだったが、それでも、そこにいた何年かは銀子に重大な影響を及ぼしたのだろうと思われた。

 ボルシチのスープの透明感のある赤い色はトマト由来ではなく、ビーツによるものだ。東欧でも日常的に食べるメニューではないらしいが、長時間煮込まれたそれを口にするたびに、かなめは銀子の来歴に思いを馳せたものだったが、それらを想起させたボルシチの芳香も、すぐに周囲にぶち撒けられた大量の血の鉄錆くさい臭い、臓腑と排泄物の悪臭にかき消された。

 吸血鬼のかなめには、いつもは甘く感じる血臭も、大量に人狼が死んだ今は悍ましく、身が震える思いがする。

 白い部屋を出ると、赤子だったクオンも元の青年の姿で、血の海に尻もちをついた港に大刀を振りかぶった態勢のままでいる。そして、寸胴を抱える銀子をかなめが抱えていたはずだったが、寸胴は派手にひっくり返り、数時間、丁寧に煮込んだ中身は盛大にぶちまけられ、血の海と混ざりあっていた。

 かなめは、悲鳴を上げたかった。数時間、煮込まれた銀子渾身のボルシチを一口も味わえないまま、床に流してしまうなんて。そんな事が許されていいのだろうか。誰かに――――敵に、償わせたい。しかし、そんな鬱屈した思いをだらだらと並べている猶予はなかった。

 瞬時に室内の様子を把握する。クオンと銀子のあいだの空間に亀裂が生じて、そこから白いすんなりとした少女の足が伸びていた。可愛らしい刺繍をされた布の靴を履いた足は、既に銀子の首へと絡みついていた。かなめは銀子を光の蛇へと変えて、少女を白い部屋へと引きずりこんだ。



「う~~~~ん」

 きょうで三度、白い部屋に舞い戻り、かなめはため息をついて、真っ白なソファに身を沈めた。となりには銀子が座して、物言いたげな視線をかなめに投げている。

 部屋の中央には、敵方の少女だったモノがいる。猫だった。ふわふわの毛並みの、可愛らしいペルシャ猫だ。瞳の色は快晴のような曇りなきブルー。くつろいで、ごろごろと寝転んで、手足を舐めて、丸くなっている。

「なんだか私の戦い方って、ワンパターンじゃない? それに、今回、このお団子少女しか持ってこれなかった」

「光の性質については教えたのに、まだ分かってないんだな。クオンはこいつの向こう側にいるんだから、いっぺんに二人は無理だ」

「うう~~~~ん」

 レーザーで貫通させるのはどうなんだろう、でもそれだと死んじゃうかな、などと考え込むかなめだったが、内心は、またも銀子を無駄遣いしてしまったと忸怩たるものがあった。

 人狼には使用回数制限がある……と、以前、無理矢理に聞き出した。銀子にも当然あるだろう。しかも巨大な竜に変身などした後であれば、どれだけ回数が残っていることか。できれば銀子の力は使いたくない。しかし、現状、使わざるを得ない。それがまた、かなめを苦しめる。どうしたらいいのか……と、常に改善策を探していた。

 かなめの懊悩をよそに、銀子は猫を指さした。

「ともかく、今度はこいつだ。こいつの精神に侵入し、弱みを探るんだ。そうすれば……あっち側につくとっかかりにはなるかもしれない」

「なんか私たちのしている事って、正義っぽくないんじゃない?」

「正義とは? 弱者を巻き込まないことなんじゃないか? 我々で言うと、その他大勢の一般市民を巻き込まないために竜に変身しないことは、正義以外のなんだと言うんだ?」

 臆面もなく述べる銀子に、かなめは首を傾げながらも頷くしかなかった。

「ま、まぁ、そうかもしれない……けど……」

「ともかく、我々はこいつに信用されたい。信用を得るには相手を知ることだ。頑張れ、かなめ」

「頑張れったって……」

 誰だって、心を覗かれるのはイヤだろう。それを本人の同意なしに、無理やり覗くのだ。それがかなめの能力なのだ。どうしてこんな力なんだろう、とかなめは疑問だった。

「私は、人の心を覗きたいとかは思ったことなかったのに……」

「理解したい、と思ったんだろう。理解するには知ることだ。知るには覗かなければならない。それがかなめの異能だ。誇ればいい。今は、かなめに頼るしかない……」

 銀子が、縋るようにかなめを見上げる。自分の力のなさに落ち込みがちだったかなめの心が多少、上向く。人の心を覗く後ろめたさをごまかしつつも、気を取り直したかなめは猫に近づいた。猫は、かなめに気付くと「フゥー!」と毛を逆立てた。銀子は顔を曇らせた。

「まずいな。怒っている。猫は小型の肉食獣だぞ。捕らえるのは至難の技だ」

「えー! どうしよう銀ちゃん!」

「まぁ、こういう物もある」

 銀子はどこからか洗濯ネットを取り出し、猫を包んだ。猫はごろごろと喉を鳴らし、大人しくなる。

「おお。すごい」

 ペットを飼ったことがなく、猫の習性に疎いかなめは目を丸くした。

「じゃあ、さっそくアレを探せ」

 喜ぶかなめに、銀子が遠慮なく指示する。ぬいぐるみのように従順になった猫をネット越しにまさぐるが、どこにもジャックのようなものはなかった。

「差し込み口がないような……?」

 困ってまさぐっていると、銀子が警戒した声をあげた。

「かなめ! 気をつけろ!!」

「えっ……?」

 まさぐっているものが、猫ではなくなりつつあった。ふわふわの猫からもちもちの餅のようなものになり、べたべたと指に絡みつき、どろどろの泥状になり、液状になり、指のあいだをすり抜け落ちて、床に白い水たまりを作った。

「これは……!? 攻撃か!?」

 銀子がとっさに、かなめと水たまりの間に身を割り込ませる。

 水たまりは白色から暗色へと色を変え、いつしか黒々とした穴へと変貌していった。

 穴の端には小さな木の立て札があり「お一人様ご案内」とある。銀子は眉間に皺を寄せた。

「かなめにだけ入れ、という事だと思う。かなめのテリトリーである白い部屋で、こんな事がまだ出来るほどに自我があるなんて、凄まじい精神力みたいだな。クオンというあの男は素直に赤子になったのに、なかなか素の自分を見せない。すぐにジャックなどの接続端子を出さない。拒んでいる……けれど、本当の自分を理解してほしい、と思わない人間はいない。罠かもしれないが、かなめは理解者にならないといけない。こいつの。どういう人生を歩んできたのかは知らないが……それを見せたいというんだろう。ただ、かなめ……理解はしても同情はするな。深淵は見ても飲み込まれるなよ。かなめが飲まれたら、我々の旅も終わる。心しておけ」

 重ねて色々と言われて、かなめの内心は怖気づいている。けれど、と拳を握った。ここで退くわけにはいかなかった。

 銀子には既に身を削らせている。自分に出来ることが、この深淵に身を躍らせることなら、それをするしかないだろう。

「いつだったか、銀ちゃんは言っていたけど……人間と人間は、真に理解し合うことは出来ないんでしょ。違う個体だから。心は分け合えないから。いくら言葉を交わしても、言葉は言葉でしかないから。記憶を見たって、真の理解にはほど遠いとは思うけど……理解するふりは出来る。だから……見てくるよ。きっと帰ってくる。だから心配しないで」

 かなめは決意すると、黒々と底知れない深さの穴に、ひと思いに飛び込んだ。

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