#33
夫人との待ち合わせ場所は、その町一番の高級ホテルのラウンジで、クオンは1時間も前から来て、ふかふかのソファに座ったり、立ったり、あたりを歩き回ったり、何杯となくお茶を飲んだりして、落ち着かなかった。
「動物園の熊みたい」かなめがそっけなく評すると、銀子は軽く窘めた。
「15歳で結婚して、半年ですぐ生き別れになって、十年以上経っているんだ。落ち着かなくて当然だ。かなめだって、私と十年離れていたら、あんなものでは済まないだろう」
銀子の指摘に、かなめは、その状況を想像してみた。そして、すぐに目頭を押さえる。
「やめて……! 私が悪かったよ! 銀ちゃんと十年なんて……!! ひどい! 銀ちゃんは元気だったの? この十年、何をしていたの……!?」
「はいはいはいはい。落ち着け」
ハンカチを握りしめて膝の上に突っ伏す相棒の肩に、なだめるように手を置いて、銀子は嘆息した。
「さあ、あれが夫人だ……」
小走りに夫人が登場すると、周囲は一変した。
はるか天上からの光が、夫人を照らし出す。ふわっと周辺に花びらが舞う。
夫人は――――美しかった。神々しかった。女神のようだった。むしろ、眩しすぎて顔が見えないほどだった。
「クオン……」
夫人の切れ長な瞳から、ほろりと涙の粒が落ちる。きらきらと光って真珠のようであったが、それにしても――――と、かなめは疑問に思う。
ダオという少女は、丸っこくてちんまり、ころころしていて、頬っぺたが真っ赤で、いつも元気で明るくて、四六時中ニコニコ笑顔を浮かべているような少女だったはずだ。ぼろを着て、毎日朝から晩まで働いて、髪はぼさぼさ、手は荒れてざらざらだった。
それが、目の前にいる貴婦人はどうだろう。肌は磨き抜かれて真珠のように滑らかで、漆黒の髪は艶やかでさらさらで、なんだか物凄い高級そうな髪飾りでまとめられている。指先の爪は注意深く磨かれ鮮やかな色が塗られていて、まつ毛の先にまで銀色の粉が載っていた。まとう衣類は一目で高価と分かる。そんな、頭の先から足の先まで金のかかった女が、かつての婚約者であるなどとクオンに分かるはずもなかった。
ホテルの豪奢なラウンジで、クオンは、まじまじと現れた相手を眺めていた。
(雑誌で見たときは、確かにダオだと思ったのに。……こんなに違うなんて。別人だったろうか……なら、なぜ夫人は俺と会ってくれるのか)
クオンの混乱をよそに、かなめは銀子に率直な意見をぶつけた。
「別人じゃん?」
銀子は、呆れ果てたように溜息をつく。
「……だったら、夫人が会いに来るわけないだろ。夫人は真面目で色々とボランティア活動もしているみたいだ。要するに暇じゃないんだ。わざわざ、多忙な日々の時間を割いて、会ってくれるだなんて、理由はひとつだ」
「ええっ……? でもこれ、違いすぎない?? 15の頃のダオは可愛いけど、体型が全然違うじゃん。コロボックルがスーパーモデルになったくらい違うよ」
「かなめ、これは映画やTVじゃないんだ。クオンの記憶なんだ。つまり、正確じゃない。嫌いなやつは醜く、好きな相手は輝いて見えて、なおかつ3割増しになる。そして15歳の少女は、まだ成長期だろ。多少は身長も伸びるし、体型もすんなりするだろう。そして13年ぶりの再会となれば、5割増し、千倍増しでも驚くには値するまい」
「そういうもんかね……」
かなめは唸って、腕組みをする。
戸惑うクオンに、夫人は縋るような目を向けた。二人はもじもじと、ソファの対面に座した。すぐに来たウェイターに茶を注文してから、夫人は悲しげに眉を寄せた。
「クオン……会いたかった。13年前に……」
やはりダオなのだと、クオンは驚きに目を瞠った。
「ダオ……ダオなのか。本当にダオなのか」
「ええ……でも、もう、その名は……」
捨てたの、とダオは囁き、また瞬きとともに雫が落ちた。夫人はハンカチを目に当てた。
「ごめんなさい。私は待てなかった。絶対に、あなたは生きている、見つけてくれると必死に願って、泥を啜るようにして生きてきたけれど……」
ダオの背後に、恰幅のよい裕福そうな男が立っていた。表情は気がかりそうに、ダオを見つめている。指輪でぎっしりの手がダオの肩に触れ、ダオは上から繊手を、そっと重ねた。
「この人と、今は生きているの。この人がいたから耐えられた。あなたのいない日々を……あなたの来ない日々を……最下層の、私のいた部屋を知らないでしょう。着るものもなくて、じめじめした部屋に閉じ込められて、日も射さない部屋で……。毎日、毎日。知らない男たちに体を売ってた。乱暴な人、親切な人……親切そうに見えたけど、騙そうとする人。助けてあげるといってお金だけ巻き上げて消えた人もいた。そんな人、ひとりじゃなかった。私は何度も希望を掴みかけて、裏切られて……死にたい、と思った。消えてしまいたい。でも、でも……最後に見た、私たちの故郷。焼けて、煙があがり、殺された皆を思うと、こんなところで死んでたまるか。絶対に、絶対にもう一度、あなたに会って……せめて一言、言ってから死にたいと思って、歯を食いしばって、上客を掴もうとして、ちょっとずつ、ちょっとずつ、這い上がってきたの。もちろん、仲間同士の足の引っ張り合いもあったし、時にはつかみ合いの喧嘩もした。上客を取ったの、取られたの……泥棒猫だの。でも私、平気だった。あなたにもう一度会うためなら、なんでもやるって決めたの。そうしたら、驚くほど商売がうまく行くようになって……嘘の笑顔も、嘘の言葉も上手になって。贔屓が増えて……売り上げが上がって……自分の貯金で自分を買い戻すことすら出来たけど、私はもう、この商売で頂点にまで行くと決めていたから。そうして有名になれば、いつか、クオンに会えると信じていたから。でも……いい部屋に住んで、いい服を着て、美味しいものを食べているうちに、私はどうして、この商売をしているのか、何をしたかったのか分からなくなってしまった。あなたとは全然会えないし、私はどんどん歳をとる。その時、私は25歳で高級娼婦の頂点を極めたと思ったけれど……けっきょく、娼婦は娼婦だった。
私は高額の依頼で、政府関係者がいるというホテルの部屋に行ったけど、そこで気絶させられて、どこかへ運ばれた。気が付くと、目の前には飢えた虎の檻。猛り立って、檻に体当たりしていた。檻の扉が開いたら、私はすぐさま虎に圧し掛かられ、爪でずたずたにされる運命だった……。美しい女が、残酷に殺されるという演し物なの。そういうのが好きな金持ちたちが、安全な場所から高見の見物をしていた。その中のひとりが「檻を開けろ!」と叫んだ。私は虎をじっと見つめた。最後まで目を閉じるものかと思ってたの。どんな残酷な運命でも……どんな惨い死に方でも、私は最後まで目を閉じたくない。見ていないと、故郷の親戚たちに、どうだったって言えないでしょう……。だから、怖くても目を開けていたの。
ゆっくりと扉が開く。その前に飛び降りてきたのが、この人。……3年前はもうちょっと、痩せていたのよ。この人は扉をすぐさま閉めて、大勢のブーイングを物ともせず「彼女は僕の妻だ! この虎が証人だ! 反対する者はこの虎に挑むがいい」と言い切ったの。細かいことは分からないけど、この人はこの地下闘技場を丸ごと買い取ってしまった。彼がオーナーだから、何でも出来るの。皆は黙り、私は顔を少し変えて、新しい身分を手に入れて、半年後に彼と結婚した。……娼婦をしていたせいか、子どもは生まれなかったけれど……この3年間、幸せだった。だから、クオン……ごめんなさい。分かって。私はもう……」
ダオの瞳が潤み、真珠のような涙がこぼれる。
クオンは、ばっと立ち上がり、ダオに背を向けた。
「……ここにいるこの女性は、私の知らない人だ。立派な人が夫だし、きっと幸せに……暮らしているだろう。ダオは私だけの思い出として抱えていきます。どうか……お元気で」
そのまま、ホテルを足早に出ていく。残された二人は手を取り合い、クオンの去った方向を見つめて寄り添った。
ホテルを出るなり、クオンは走った。ホテルの従業員の態度を見るかぎり、あの高級ホテルもダオの夫の持ち物らしかった。
町一番の金持ちと、しがない自分。どちらが幸せかなんて判りきったことだ――――と思いながらも、否定する自分もいる。金がすべてか? 否! 否!
(ダオは……ダオは、金目当てで結婚するような女じゃない。彼は金持ちだけど……態度も立派で……ダオを大切に思っていて……)
ぐだぐだと思い悩みながら、やみくもに走り、疲れてきて早足になり、やがて、疲れ切った歩きになり、足を止めたところに飲み屋があった。
もう飲んでしまおうと、クオンは店に入る。やみくもに杯を重ね、やりきれない思いをどうしようもなく、いつしか口からは「なぜだ」という言葉が出てくるのだった。
(なぜ、自分を待っていてくれなかった。なぜ、あと3年待てなかった。なぜ、そいつを拒まなかった。なぜ、なぜ、なぜ……)
貞淑な花嫁かと思っていたが、娼婦に身を落とし、汚濁に塗れ、金に目がくらみ、彼女は穢れてしまった。あんな女、どうでもいいじゃないか、と。そういうどす黒い思いと、ようやく探し当てた運命の女に裏切られた怒りと、ぐるぐると色々な鬱憤が吹き溜まり、渦を巻き、荒れ狂い、身内を轟々と焼いていった。
(どうして! どうして! ダオ!)
潔く身を引いたのは、ダオのためではなかった。みっともなく縋りついて、振り払われたらどうしよう……という、ちっぽけなプライドを守りたかった。ただ、それだけだった。
(あんな……あんな女)(どうして、ダオ!)(待っていてくれなかった)(愛している)(幸せに……)(許せない)
侮蔑と哀惜と憤怒と悲憤と嫉妬と、どろどろと渦巻く愛憎に、クオンは目が回り、気が付くと、路傍に寝転がっていた。髪も服も反吐と泥にまみれ、財布は盗まれたようで、体中が痛い。殴られたようだった。酔っぱらって喧嘩したらしかった。
「…………」
飲み屋の連なる、騒々しい往来の片隅で、店の明かりが煌々として夜空すら見えない。物売りは口々に自店の品を勧め、客は遠慮なく値切り、時には罵倒しあい、折り合いをつけ、何事もなかったように去っていく。この国のこういうところが最初は苦手で、しかし今は、ほっとする。
(ダオ……どうか、幸せに)
心のほうもどうにか折り合いをつけられたらしく、今は素直な気持ちで、ダオの幸せを祈ることが出来る。――――しかし。そこへ、鈴のような声が割り込んだ。
「えーっ、そんなの、つまんない!」
若い女の華やかな声。明るく、無邪気で、苦労ひとつした事のなさそうな声。
上から降ってきた声を見上げると、黒髪をふたつに結い上げた、顔立ちの整った少女が、くるくると表情の変わる大きな瞳で、面白そうに一階の窓から身を乗り出してクオンを見下ろしていた。
「あたしはそういうの、どうかと思う! 13年も待ったのに、裏切り者!って刺しちゃえばいいじゃない。その方が面白いし、なにより、あんたの気持ちが済むでしょ。やせ我慢なんて体に悪いもん!」
ずけずけと楽しげに口にする少女に、クオンは何がなし、背筋の寒い思いをしていた。
「きみは……いったい……」
「あたし? あたしはねぇ……魔法使いみたいなもん。ねぇねぇ、それよりさ……あたしは、ずーっとあなたを見てたんだよ。13年も……長かったよねぇぇ。ねっ、あんな女、殺しちゃお。八つ裂きにしちゃおうよ! 腹を裂いて、はらわたを引き出して、長く苦しませようよ。裏切り者なんだもん、それくらいしないとね! ダオちゃんの、苦しむ姿を見てみたいっ! あっそれ、それ~」
楽しげにはしゃぐ彼女は、獲物を前に舌なめずりをする猫のようだった。いつしか彼女は倒れているクオンの傍らに膝をつき、顔を覗きこんできた。瞳孔が猫のように縦に長くなった。
「……自分の本当の心に素直になろうよ。だって……そのほうが面白いし……あたしは血が見たいの。力が欲しいでしょ? あげるよ。ほら……」
少女が片手で腕を撫でると、真っ赤な血潮が噴き出した。少女の指先は、いつしか鉤爪が長く伸びていた。自身で切り裂いた腕からは、鮮血があふれ落ちて、クオンをずぶ濡れにした。
「い……いやだ! いやだ! 助けて、ダオ……」
「あはははは! 何だ、あんな女に助けを求めやがって! この軟弱もの! 性根を鍛え直してやるよ!」
もがくクオンの両腕を、少女は哄笑しながら開いた足で押さえつける。少女は短いスカートで、クオンからは下着が丸見えなのに、まったく恥じらう様子がない。少女の体重は軽そうに見えるのに、クオンが頑張って身動きしても、少女の足はびくとも動かなかった。
血潮が口に注ぎこまれ、クオンは無理やり飲み込まされた。通常の人間であれば、すでに絶命している量が腕から流れ落ちているのに、少女は平気な顔をしていた。
口中に鉄錆くさい匂いがあふれ、吐き気がして、それでもなお飲み込まされ、クオンは気が遠くなっていった。
※ ※ ※
それから、どれくらい経ったろうか。
クオンが我に返ると、目の前に、ダオの美しい顔があった。目はどこか虚ろで、少し悲しげに眉を寄せ、何らかを訴えているようだった。目尻に、涙がこぼれた跡があった。
「ダオ……」
クオンが身を起こす。ダオはそのままだった。先ほど、13年ぶりに再会したときと同じ、美しいダオの顔。その首は、根元ですっぱりと切断され、生々しい切り口を晒していた。




