#29
「銀ちゃん……!」
かなめは、たった一つの望みが絶たれた悲しみに目を潤わせた。
塩が切れていれば。味噌でも砂糖でも、マヨネーズでもいい。何かしら用事で小一時間ほど出かけていてくれたら、こんな悲しい再会はなかっただろう。
会いたかった。しかし、今一番、会いたくなかった。
けれども、今日死ぬかもしれないと思えば、死ぬ前に一目会えて、嬉しくもあった。
かなめは、複雑な心境に喉を詰まらせる。
(ああ……)
久々に目にする銀子は、愛らしかった。朝、出かける前に会ったから半日ぶりの再会だったが、港との邂逅、そして監視役の人狼少女の無残な死のあとは、十年、百年を隔てたように懐かしかった。
お洒落のおの字もないような、実用本位の長袖Tシャツの腕をまくり、適当にそのへんで買ったかのような、いかにも安っぽいエプロンをかけ、その下からはGパンを履いた細い足が覗いている。銀色に輝く長い髪は、料理中はいつもポニーテールにまとめられて、揺れている。
もう、この銀子も見られないのか。どうして、この日この時この場所にいるのか。あの日あの時、出会わないほうがよかったのか……まで考えて、かなめは目を潤ませ、どっと落涙した。
「銀ちゃん……!!」
港の手前、どうしてここにいるのか、とは言えなかった。代わりに銀子の足に縋りつき、古くからある台詞になぞらえて詰った。
「どうして銀ちゃんは銀ちゃんなの……!?」
「ロミオとジュリエットごっこか? それより、来客なんだろう。港、夕飯、食べていくだろ。席をひとつ増やそう」
かなめの異常な言動にも、銀子は構わず冷静だった。港は、眉間に皺を刻んでいた。
「かなめは……銀色の狼ちゃんと、そういう関係だったの?」
「そういう、とは?」
かなめと銀子が同時に返すと、港は言いにくそうに指摘した。
「つまり、その……恋愛関係……」
「吸血鬼は肉欲ないじゃん?」
かなめが首を傾げると、銀子はそっけなく言い放つ。
「かなめは色々オーバーなんだ。気にするな」
「気にするな、つっても……」
港は納得しかねるのか、首を捻っている。
気を取り直そうと、港が再び口を開きかけると、電話が鳴った。
かなめは、はっと真顔に戻ると、靴を瞬時に脱ぎ捨てて、電話のある場所へと走った。といっても、玄関を上がって、すぐの廊下に置いてあるので、玄関からは丸見えだ。
受話器に手を伸ばしたかなめの素早さに、港はあっけにとられていたが、すぐ我に返って叫んだ。
「電話に出るなっ! 応援を呼ぼうとしても無駄だ」
「うるさい!」
かなめが一喝する。先ほどまで、めそめそ、うじうじとしていたのが別人のように、マシンガンのように喋り出す。
「これは、ゆきからの電話なんだよ! ゆきは私が電話に出ないと死ぬ。死のうとする。すぐに手首にカミソリを当てる。不安定だから、痛みと血を見て落ち着こうとするんだ。また、ゆきの傷が増えるだろ。増えるだけならまだしも、死んだらどうする。あんたに責任とれる? ゆきはね、苦しんでいるんだ。思春期の娘がいるのに実母が考えなしにヒヒ爺と再婚するもんだから、性的虐待されたんだ。でも、ゆきは、母親の悲しむ顔を見たくなくて、自分のことで苦しめたくなくて、言い出せなかった。母親が大好きだったんだ……。女手ひとつで苦労して育ててくれた母親の、やっとの幸せを自分の一言でぶち壊せなかったんだ。だから自分が壊れるまで我慢しちゃったんだ。抵抗もしたけど、髪の毛を掴んで引きずり回されて、なんなら母親に言ってやると言われて、諦めて従っていたんだ。あんただって、同じ女で、似たような苦しみを味わってきたんだから分かるよね? そのゆきが今、助けを求めているんだ。私が中途半端に優しくして、そのあと、無責任にもほったらかしたから、怒っているんだ。私は自分が人外になったからって、手を離すべきじゃなかった。後悔してる。だから今は責任をとろうと、ゆきが幸せになるまで支えようと、電話くらいはいつでも出られるようにしてるし、会いたいと言われたら駆けつけるよ。ゆきは今、頑張ってる。泥の底みたいな苦しみから這い出ようとしてるんだ。それを邪魔する権利が、あんたにあるの……? ないでしょ、出るからね」
かなめは港に一気に言い捨てて、受話器を取った。
「あっごめん、ゆき! ちょっと信号で引っかかって……トイレが限界で……手間どっちゃって……ごめんごめん、本当にごめんね。うんうん。だよね……本当ごめんね」
かなめはさっそく、電話相手に宥めたり謝ったり相づちを打ったりで、電話は長くなりそうだった。
かなめの剣幕に港はあっけに取られていたが、銀子に玄関から上がるよう手招きされて、しおしおと膝上丈のブーツを脱ぎだした。
※ ※ ※
ブーツ自体は、サイドのファスナーを引き下げれば脱げるが、むくんだ足先を取り出すのがまた一苦労で、港は脱ぎ慣れないブーツに四苦八苦した。
やっとのことでブーツを放り出し、銀子に差し出された客用のスリッパをつっかけ、銀子のあとについてダイニングへと向かう。
とりあえずダイニングテーブルの椅子に腰掛けると、銀子が「茶を飲むか。紅茶とコーヒーと日本茶と、どれにする?」と聞いたので、港は「……紅茶」と答えた。
やかんを火にかける銀子の小さな背中を眺めながら、廊下で電話しているかなめの声を聞く。今となっては百万光年も遠い記憶の山の上の学校時代、港がゆきを見たのは数えるほどだったが、かなりの美少女だったので記憶には残っていた。ゆきの、あの大人しそうな、儚げな容姿を思い出すと、大魔神でも起こしてしまったかのように必死に応対するかなめの様子は可笑しくも思えるが、ともかく、と港は頭を切り替えた。テーブルに肘をついて、じっと銀子を見つめる。
「私の用件は分かっているでしょ。うちの組織にスカウトに来たの。そっちの組織『教会』と、うちは敵対してるから、このままだと、私がかなめを殺すことになっちゃうじゃん? それは可哀そうだから、上にお願いして、お使いに出させてもらったんだよ。あなたは、かなめより利口そうだから、どっちについたら得かぐらいは分かるでしょう」
やかんが、しゅんしゅんと音を立てる。やかんの隣のコンロには、大きな寸胴鍋が火にかけられている。銀子は振り向いて、港に尋ねた。
「紅茶は、何にする?」
「…………へっ?」
「ダージリン、アッサム、セイロン、キームン、ニルギリ。フレーバードならアールグレイしかないが」
「えっ……? その…えっと……」
紅茶なんて適当に買うティーバッグしか知らない港が戸惑っていると、銀子が戸棚を開き、中の色とりどりの紅茶缶を指さした。
「茶葉の種類だ」
「な、何でもいいよ…そんなの……」
話の出鼻をくじかれて、いささか苛立った港は、どんとテーブルを拳で打った。
「ちょっと、ちゃんと聞いてよ。命が懸かってるんでしょ、分かってるの? かなめと同じく、あんたもちょっとおかしいの? 私の狼はね、さっき、あんたらの監視役もやっつけたし、あんたらが私と来ないなら……」
「まあ、まあ。落ち着け。紅茶くらい飲んでいけ。……そうだな、ストレートが好みならダージリンにしよう。ミルクを入れたいならアッサムがいい」
「……ミルクと砂糖いれて」
「よし、アッサムだな」
銀子は、ティーポットに手早く茶葉を入れ、湯を注ぐ。砂時計をひっくり返す。ポットには、保温のための布製のカバーをかけた。
「……すぐ飲めないの?」
「ティーバッグも蒸らすだろう。蒸らし時間は必要だぞ」
「……知らないよ、そんなの」
ぐぎぎ、とダイニングテーブルの端をつかむ港の指に力が入る。分厚い板が、びきりと音を立てた。
「紅茶とか……蒸らしとか……ゆきとか、どうでもいいんだよ。まかり間違えば、今すぐ最強の狼が来て、あんたは死ぬってのに、随分と余裕かましてくれるじゃない? で、どうなの。かなめはあんたの言う事聞くんでしょう。あんたを犠牲にしたりしないでしょう。一緒に来るって言いなさいよ。あんたが、かなめを説得しなさい」
港が銀子に指を突きつけると、銀子は、ふっと息をついた。
「人狼はあくまでも従であり、主は吸血鬼だ。私はかなめに従うのみで、意見を言うことはあるが、決定権はかなめにあるし、決定したことに逆らうことはない。これは我々の基本だが、港、お前がこういう事を知らないということは……ついてきている人狼は、お前の人狼じゃないな」
「!!」
はっと、港が息を呑む。
「だっ、だから何だってのよ!? 私の知る限り最強の人狼であることに間違いは……」
「あちらの組織では、それなりに強い人狼なのだろうが……お前のお目付役で来ているんだろう、信頼関係はなさそうだ」
「だから……何なの!?」
「その焦り、苛立ち、余裕のなさ……は、お前の立場から来ているんだろうな。この役目、自ら進んでというのは嘘だ。かなめと知り合いならば、お前が連れてくるようにと仰せつかったのだろう。しかも……『絶対に』というおまけつきで。使命を果たせなければ罰が待っている……とくるならば、それほどに良い組織とは思えないな。今いる組織は全世界にネットワークを持っているし、資金源も潤沢、政界とも繋がりがあり、人界では保護されている。そちらに鞍替えするメリットが今イチ見いだせないんだが」
港は、かっとなって立ち上がった。
「金目当てに人間に尾を振るっての……? プライドはないの?」
「プライドで飯が食えるなら、誰しも雇われにはならんだろう」
港の目が据わる。
「言う事を聞かないってのなら……外にいる最強の人狼と戦うことになるけど? それでいいの?」
「本当に最強かどうか、試してみたくもあるが」
銀子は微笑を浮かべた。
「ここは敵地のど真ん中だぞ、分かっていて乗り込んで来たんだろうな?」
※ ※ ※
かなめがゆきからだと疑いもしなかった電話の受話器からは、脳天気な女の声が響いていた。
『どうも、お疲れ様でーす! 私は小鳥ちゃんです。小鳥さん、じゃなく、小鳥ちゃんって呼んでくださいね~。ところで、私のことはゆきちゃんだと思って、とりあえず私すっごい怒られてますって感じで話し続けてくださいね~~~~』
かなめは不意をつかれたが、どうにか取り繕い、ゆきだと思って話し続けた。
「あっ……ごめん、ゆき! ちょっと、信号で引っかかって……」
『ずーとずーと電話待ってたのに、ひど~いかなめちゃん! ぷんぷん! って感じでゆきちゃん怒ってますので~。勝手にお話ししつつ、こちらの指示を聞いてくださいね。お宅に侵入者が来ているのも、敵方の人狼が、こちらの監視役をひとり倒したのも知ってます。こっちの縄張り内で大胆なことですよね~。とりあえず5人ほど向かってますので。港さんと楽しくお話ししててください。敵方の人狼を処理したのち、港さんも処理しますので~。という事です。ではでは☆』
「…………」
かなめは電話が切れたのちも、しばらく呆然としていたが、はっと我に返って、すぐにゆきに電話した。ゆきと長電話していたはずなのに、この後すぐ、ゆきから電話がかかってきてはまずいからだ。
すぐに電話に出たゆきは、なかなか、かなめに電話が繋がらずふて腐れていたので、機嫌を直させるのには相当苦労しそうだったが、今度会ったとき色々我が儘をきく約束をてんこ盛りにして、どうにか、いつもよりは短めに電話を終えた。
ほっとして受話器を置き、愕然とする。
自分たちはどうにかなりそうだが、港は。
(港は……どうなるの)
夜の公園にいた少女のように、無残な屍すらも晒せずに、消え失せるのだろうか。
(いや……)
自分たちだって、後から来る5人が勝つとも限らないのだから、どうなるか分からない。
胸のうちを、どろりとした黒いものが渦巻いていた。




