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黄昏と暁のあいだ  作者: 七篠いくみ
永遠の少女と狼の子
25/39

#25

 朝から空は薄暗く、雲は低く垂れ込めて、しょぼつく雨が地を濡らしていた。人々は袖や裾を雨で湿らせ、苛立たしげに傘を畳んでは駅へと吸い込まれていく。あるいは傘を開いて、駅から表へと歩き出す。時刻は夕方になりつつある。帰りの通勤ラッシュまでは、まだ少し間がある。それでも大きな乗り換え駅であるため、けっこう人の行き来がある。信号が変わると、交差点に、どっと人があふれ出す。

 皆、行き先があり、急ぎ足だったり、楽しげであったり、友達同士で話しながら歩いていたり――――とにかく、目的を持って歩いている。それが、羨ましかった。

(わたしは、どこへ行けばいいんだろう)

 ゆきは傘を片手に、我が身を抱きしめる。寒かった。

 はや、季節は秋から冬へと移り変わりつつある。雨で冷えた地表を吹く風は、遠慮なく冷たい。秋用の薄手のコートでは、防ぎきれない。ゆきは補導を恐れて、制服から私服へと着替えていた。コートの中身は、白いブラウスに地味な色のスカート。まさか、こんなに冷えるとは思っていなかったので、冬の服装ではない。しかし、物理的な意味以外でも、寒かった。ゆきは、一人だった。孤独だった。

 そこへ、目の前に男が立った。中年で、いかにも金のありそうな身なりのよい男だった。腹も出てないし豊かな頭髪もある、顔立ちもそれなりに整っているにも関わらず、やにさがった笑みが下品で、どれだけ良いスーツを着ていようと、高価な腕時計をしていようと、その表情ひとつで男の印象をどん底にまで引き下げていた。

「お待たせ。ほら、これ」

 薄手の情報誌をゆきの目の前に突き出す。ゆきも、同じ雑誌を小脇に挟んでいる。待ち合わせの目印だった。用が済んだ雑誌を、ゆきはカバンに丁寧に入れる。男は、自分の雑誌をゴミ箱に叩き込む。用が済んだわたしも、あんな風にゴミ箱に叩き込まれるのだろうかと、ゆきはぼんやり考える。

「ほんとに、これでいいの」

 男は、指を1本立てる。ゆきはテレクラで相手を誘う際、相場より、かなり安めの値段を提示している。ゆきは黙って頷く。

「なんか悪いなぁ……こういうの、趣味だったり?」

 にやにやと笑う男の視線を避けて、ゆきは俯く。肩までに切り揃えられた茶色がかった髪が頬にかかる。男は遠慮なく、少女のきゃしゃな肩を抱いた。

「よし、じゃあ行こう」

 その二人の前に、さっと立ちはだかる者がいた。

「あっ、久しぶりー! 元気だった?」

 かなめだった。腰に届くほど長かった髪が、肩より下にかかるくらいに短くなっている。どこかの学校の制服姿で、肌の色は抜けるように白い。どこか不吉な、不健康なまでの白さにゆきはかなめの身が心配になったが、しかし、相手は元気そうだった。しょんぼりと項垂れて、雨に打たれる路傍の花の風情のゆきとは違う。

 ゆきは顔を強張らせ、肩にかかっていた男の手を振り払う。

「わっ、私……」

 一番、会いたい人に、もっとも見られたくない場面を見られている。その事実に押しつぶされそうになり、ゆきはやみくもに、混雑する交差点へと駆け出した。

「ごめんなさい! 用事が……」

「…………!」

 かなめはゆきの名を呼ぼうとして、見知らぬ男を一瞥し、男にゆきが仮名を使っていたら、わざわざ本名を教えることもあるまいと思い直し、無言で、そのまま後を追う。男は肩をすくめて、ため息をひとつ吐くと、駅へと踵を返した。


 * * *


「ゆき! ゆき!!」

 かなめの声にも、ゆきは止まらない。止められない。どうして、どんな顔で振り向けばいいのか。

(私が何をしようとしてたか、なんて……)

 察しのよいかなめだ、当然、分かっているだろう。

 穴があったら入りたいところだが、かなめなら穴に飛び込んでくるだろう。

(ああ、ああ、ああ……)

 死にたい。死んでしまいたい。こんな恥ずかしい自分など、どこか海の果てにでも置いてきたい。目に涙が滲んでくる。自分が情けなくて。

 しかし、ここは繁華街の雑踏だった。身を投げる海は遠かった。

 人ごみをすり抜け、ゆるやかな坂を上る。

 息が切れる。のどが焼けるように痛い。わき腹も足の裏も痛い。走るのには向いていない、薄茶のローファーだ。

 足がもつれる。段差に躓いて、つんのめる。

「あっ!」

 よろめいて、地に手をつく寸前に、ぐいと肘を後ろから支えられた。驚くほどしっかりとした力で、前にのめった体を引き起こされる。

「ごめんね、驚かせちゃったかな」

 予想外の言葉に、ゆきは振り向いた。傘を放って走ってきたため、ゆきもかなめも乱れた髪をじっとり湿らせ、髪の毛の先から雫を垂らしていた。

 てっきり、平手打ちでもされて「どうしてこんなことしてるの!」と怒鳴られるかと思っていた。

 かなめは、また逃げられるかと恐れているのか、ゆきの腕から手を離す様子はなかった。

 しばらく互いに黙ったままだったが、ゆきが先に、聞きたい衝動に負けた。

「かなめちゃん……どうして、いつから東京に……」

「ゆきが行ったあと、そんな経たずに。……住所、分からなかったし……東京で会おうとは言ってたけど、東京、広いから……なかなか見つけられなくて。ごめんね。すぐ会えなくて……ごめんね」

 かなめは悲しい目をして、謝り続ける。何もかも察したようなその瞳に、ゆきの腹の底から怒りがせり上がってくる。

「かなめちゃんには、分からないよ。綺麗なままだもの。私は、汚れちゃったの。毎晩、眠るたびに夢を見るの……抵抗すると髪の毛を持って引きずり回されて、髪の毛が束で根本からぶちぶちって引きちぎられて……すごく痛くて、殴られて、組み敷かれて……」

「ゆき」

「聞きたくない? 聞きたくないでしょ。普通の人は、こんな目に遭わずに、家族に守られて、毎日が楽しくて、平和で、なんだろ……希望があるんでしょ? 私には、何にもないの。毎晩、眠れなくて……眠ると夢を見て……夢のなかでは過去じゃないの。そのたびに私は苦しくて、ただの肉の塊みたいな、人間じゃなくて家畜みたいな……自由な意思のない奴隷みたいな……気持ちになるの。この気持ちをなくすには、あれが……もっと意味のない、軽いものにならないかなって……つまり、もっと大勢の人に……してもらえれば、楽になるんじゃないかって……」

「…………楽に、なった?」

 冷静に問うかなめに、ぐらぐらと灼熱のマグマのようなものが、胃から頭へとせり上がり、脳髄を焼いていく。

「なるわけないでしょ!?」

 渾身の力で、かなめの両腕に爪をたてた。

「おじさんもおばさんも優しい人なのに……私がこんなで……申し訳なさが増えるばっかりで! でも、そうせずにはいられなくて……! 私がこんなになってる間、かなめちゃんは楽しく過ごしてたんでしょ!? 私のこと考えた? ちょっとでも、考えてくれたの……!?」

 泣きながら、その場に蹲るゆきを、通行人たちが無遠慮にじろじろと眺めていく。

「ごめん。ごめんね、ゆき」

 脱出時に大怪我して、銀子と暮らしていて楽しくて浮かれていて、ほかに色々あったとはいえ、ゆきを積極的に探そうとはしなかった自分を、かなめは悔いていた。

 ゆきを助け起こしながら、誓う。

「これからは、連絡を取り合おう? 眠れないときは、電話して。放課後も、いっしょに遊ぼう。都合があえば、だけど……。連絡があれば、すぐに行くから。ずっと、一緒だから……」

 涙で顔をぐしゃぐしゃにしたゆきが、こくこくと頷く。ゆきは、嵐の海の小舟みたいなものだ。かなめという錨がなければ、どこかへ漂流してしまう。

 かなめは、銀子の忠告を思い出していた。


 ゆきに会いに行く前に、かなめは銀子と話し合った。

「かなめ、ゆきに会いにいって……どうする? 援助交際やめろと言うのか」

「言うよ。たぶん、私がそばにいなかったせいだから……これからは、そんな事させない」

「といっても、お前がゆきに会えるのは、あと十年くらいだろう。我々は歳をとらないからな。いかにメイクをしようと、老けないと言い訳をしても、それくらいが限界だろうな」

「…………それだけあれば、きっとゆきだって、人並みの幸せを掴んで、結婚して、子供を産んで……その頃には私がいなくても、なんとかなってるはず……」

 こんな体でなければ、こんな身の上でなければ、普通に友人として、十年でも二十年でも、老いて死ぬまで親しくやっていけただろう。

 かなめは吸血鬼になったことを、ひどく後悔した。

 ゆきに接触することも、上からはよく思われないだろう。それでも、ゆきには幸せになってほしい。絶対に。

 ゆきを大事に思いながらも、帰ってから問い詰めるつもりの、銀子の回数制限という言葉にも動揺していて、心は千々に乱れていた。

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