#18
びょうびょうと耳元で風が鳴っている。
すさまじい速さで移動していることが感じられる。
高く高く、さらに高く。
(飛んでる……飛んでる!)
ばうっ、ばうっ、と力強く羽ばたく音。
そんな速さで飛んでいれば、寒いに違いないのに、寒くなかった。もさもさの毛皮に包まれて、ふかく潜り込んでいて、ほかほかにあたたかかった。
真っ白な長い毛足のじゅうたんに埋もれている、というのが、かなめの第一印象だった。
しかし、そのじゅうたんは動いていた。呼吸していた。激しく羽ばたいていた。
風の強さに、顔をあげられなかったが、どうにか毛皮のあいだから覗いた。見えたのは、長い長い首。首も真っ白な毛皮に包まれて、遠くに小さく見える頭がある。
東洋の龍ではなかった。西洋の竜。首は長く、ずんぐりした胴体には羽があったりなかったりの、あれだ。白くて美しくて強くて――――というかなめのイメージのせいか、真っ白な毛皮の竜は、可愛らしくも美しかった。
(銀ちゃん……なの、本当に……?)
両手で必死に竜の首の根っこに捕まっているこの状況では、ほっぺたをつねる余裕もない。竜はとても大きく、かなめ一人を背にのせても、まだまだ余裕だった。かなめが今日まで通っていた学校の体育館におさまりきるか、という大きさだ。十トントラックだって、軽いキックで潰せるだろう。
「すごい……すごいっ! 銀ちゃん、すごいーっ!」
まだまだ夢の中のことのようで現実感がない。
――――本当は、地下の迷宮のなかで必死の抵抗もむなしく、なりそこないの吸血鬼の二匹もとい、ふたりに貪り食われているところなのかもしれなかった。
そんな恐怖を吹き飛ばすべく、これは現実なのだと信じ込むべく、叫ぶ。腹の底から、力のかぎりに。
「銀ちゃん、すごい、すごいよ銀ちゃん…………!」
毛皮の隙間から、景色が垣間見える。はるかな眼下に、ちいさく町々が見える。雲に包まれ雲上に出て、青空のなか、太陽のひかりを浴びた。
――――そして。かなめは気がつくと、どこかの病室のベッドの上にいた。
消毒液のつんとした臭い。真っ白な室内。怪我には手当がされていて、左腕には点滴の管が刺さっている。
枕元には銀子がいて、うつらうつらとしていた。服装は修道服ではなく、その下によく着ている、Tシャツにスパッツに、大きめのカーディガンを羽織っている。
相手の首ががくりと大きく前にのめり、はっと目を覚ましたのか、見開いた銀子と、かなめの目が合った。
「かなめ……」
「銀ちゃん、私たち……助かったんだよね?」
銀子は頷いた。
「ここは? ……あの子たちは……」
なりそこないの二人を思い出す。銀子が巨大な竜になったのが夢ではなく本当なら、あの地下は崩れてしまって、あの二人もただでは済まなかっただろう。
「両手で掴んで飛んだけど……安全なところに降りたら、白いほうはショック死してた、みたい。黒い狼みたいなほうは、自分の腕に噛みついて出血多量で……」
助からなかった、と銀子は暗い面持ちで呟いた。
かなめは悲しい気持ちで、それを聞いていた。
「そう……」
いつか元に戻れるようになるまで、できれば守ってあげたかった。戻れるなんて保証もないが、かなめが一歩間違っていれば、同じ立場になっていたはずだと思うと、他人とは思えなかった。かなめは、もっとほかにどうにか出来たんじゃないのかと悔やんで、唇を噛んだ。
「ごめんね、私が……」
「銀ちゃんのせいじゃないよ!」
謝りかける銀子の言葉を、かなめは遮った。
「とにかく、私は銀ちゃんのおかげで助かったんだから。私たちは助かったんだから。それ以上のことは、出来なくてもしょうがないよ。自分たちが助かるだけで精一杯だったんだから……」
必死に、自分に言い聞かすように言葉にする。そうでもしないと、罪悪感で押し潰されそうだ。
「……私が助かったのは、銀ちゃんのおかげだよね。ありがとう。……ついててくれたんだよね。でも、ここって、誰が……」
入院費、という言葉が頭にうかぶ。と同時に、捨てた家族の三人の顔が思いうかぶ。
あんなやつらに頼りたくない、いや、でも、もう縁は切ったんだった。じゃあ誰が……と思ったところで、病室のドアが開いた。
「やあ、入ってもいいかな?」
エリート然とした、しかし優しげな笑顔のスーツ姿の男が入ってきた。年齢はおそらく二十代後半くらい、すらりとした体つきに、いかにも吊るしではなさそうな高価そうなスーツが、ぴたりと似合っている。
その後ろからはサングラスの大柄な男が一緒に入ってきた。革ジャンにGパンという、およそボディーガードらしくない服装だったが、病室の入り口に立って周囲を警戒している様子は、ボディーガードらしい。
銀子がスーツの男を見て、慌てて枕元のイスから立とうとすると、身振りで止めた。
「ああ、いいんだよ、そのままで」
どうも、銀子とこの男は面識があるらしい。
「目が覚めたそうなので、ちょっとご挨拶をと思ってね。……学校があんなことになってしまって、大変困っているだろうと思う。少なからず同情するよ」
「……」
かなめは返答に困って、俯いた。何をどう言えばいいのか分からない。自分たちの事情をどこまで話していいのか、特殊な学校の事情、それに……現状がわからない。学校があんなことにって? 地下が崩れてしまったとすれば、その上に載っている学校もただでは済まなかっただろうが、まさか生徒たちも巻き込んでしまったんだろうか。どうしよう。
かなめが混乱していると、それを見抜いたかのように、銀子が説明した。
「私は、山ひとつ崩しちゃったんだよ……。ちょうどよく、この人たちが学校に突入しようとしてたから、生徒たちや先生は無事だったけど……」
「肝心の首謀者である、校長と側近らは逃がしてしまった」
スーツの男は眉間に皺を寄せた。
「あの者達が何をしていたかは知っている。君たちも巻き込まれて、災難だったね……。しかし、奴らを放置してはおけない。君たちの力が必要だ。協力してくれるね?」
ぐっと身を乗り出す男に、かなめは後ずさる。
「協力って……」
「かなめ。この人は……かなめと同じだよ」
銀子の言葉に、はっとする。かなめは、改めて男をまじまじと見つめた。スーツの男は、苦笑した。
「私も望んでこんな体になったわけではない。呪わしいとも思うが、だからこそ人の役に立つことも出来る。これ以上の悲劇を止めるべく、校長を探し、追いつめる。その手伝いをしてほしい」
「校長は……行方不明なんですか?」
そこでかなめは、詳しいことを聞いた。鼠一匹逃さぬ包囲のなか、煙のように消えた校長その他何名かのことを。その中には、かなめの級友である花子と港の名もあった。
「たぶん、今後も利用しようとして、言いくるめて連れ去ったんだろう。その子らを救うためにも、君の力がいる」
「花子と港が……」
ぐわんぐわんと頭の中で、割れ鐘が鳴っているようだった。良子がいなくなった日の朝のことを、いまだに夢に見る。あんなに優しくて可愛い子を、なんのためらいもなく擂り潰して殺して売り飛ばせる校長なんかと一緒にいたら、ろくな目に遭わないに違いない。
かなめの心は、一瞬にして決まっていた。
会ったばかりの、まだ得体もしれない男の手を握った。
「やります。絶対に、校長を見つけます」
「ああ、頑張ろう。頼もしいよ。……私の名は桜庭だ、よろしくお願いするよ、かなめさん。そして銀子さん」
桜庭はにこりと微笑んだ。銀子はかなめの決めたことに従うと決めているのか、あらかじめ桜庭に言い含められているのか、何も言わずにかなめを見つめている。
桜庭の背後で、やりとりをずっと無言で眺めていたボディーガードもとい木場は、不愉快そうに鼻を鳴らしたが、口を挟んだりはしなかった。