#11
梅雨前線は、とうとうかなめ達の住むところにまでやってきた。土砂降りから小雨まで、いろいろなバリエーションを駆使しつつ、毎日を湿気とカビくささで彩ってくれる雨。ダムを満たし、田畑を潤す雨。生きる上に置いては大切なことではあるが、それにしても――――鬱陶しかった。雨が強くては、せっかくの土曜日でも、町に行くのが億劫になる。臨時バスは本数を減らし、バスの運転手は、ガラガラの状態で運転している。ほんのちょっとの晴れ間が愛しい、そんな季節だ。
かなめは天気に似つかわしく、憂鬱な顔をして座っていた。場所は、いつもアルとの組手に使う夜の体育館だ。壁に背を預け、膝を抱えて、がらんと広いコートを眺めている。
「遅くなって悪かったな」
かなめと同じように、Tシャツとスパッツ姿のアルがやってきて、そっけなく詫びる。かなめは、目の前に立つアルをひたと見据えて、宣言した。
「今日から、あんたを銀ちゃんって呼ぶから」
「なんだ、いきなり」
「だって、そのアルって、アルゲンテウスっていうのは、あのクソ校長がつけた名前なんでしょ。そんな名前、使うのもイヤだから、でも呼ぶ必要があるから私が名付ける」
「……クソ校長って、何があった?」
かなめはさらに俯き、拳を握りしめた。
日曜にかなめは礼拝に参加してみた。
日頃、校長室に閉じこもりきりの校長を見るには、日曜ごとの礼拝に参加するか、たまの全体朝礼しかなかったのだ。ちなみに全体朝礼は長期の休みの前後にあるが、今からだと7月の終業式が一番近い。そこまで待ちたくなかったかなめは、校長を見るためだけに日曜に早起きした。転入時と契約時に面談しているが、広々としたデスク越しで、緊張しまくっていたこともあり、今一つ印象が薄かった。そこで、もう一目くらい見ておこうとしたのだったが、礼拝堂に入った瞬間、かなめは後悔した。
美形で若い校長をひと目見ようと、大勢の女学生が詰めかけていた。かるく50人は超えていたかもしれない。そして、からっぽの檀上を見上げながら、楽しそうにひそひそと笑いさざめいた。
そして、校長が現れるやいなや、「キャーッ!!」と黄色い声援がとぶ。まるでアイドルのような扱いだったが、校長の容貌を見れば不思議ではない。金髪は艶のあるハニーゴールド、面差しは整って彫りも深く、深い蒼色の瞳は、長い金色の睫毛に縁どられている。顎はほそく、背はすらりと高く、足は長く、黒く地味な神父の装束も校長が身にまとえば、仕立てのよい高級なスーツのように見える。とにかく、日本人女性が外国人といったら思い浮かべるような、欧米人を理想化したような姿であり、男っ気がまったくない女子校の生徒がのぼせ上がるには、たやすい対象だった。なにせ、女子校というのは、そこそこに若い男というだけで、やぼったい見た目の教師でも、修学旅行の際には写真撮影の列ができてしまうという例もあるくらいだ。それくらい恋に飢えた少女たちにとって、校長という恰好な獲物はなかった。
礼拝の最中は静かにせよという厳命が行き渡っているらしく、静まり返ったなかを、校長が聖書の一節を読み上げる声が、朗々と響いていった。
参加した女子学生は、かなめを除いて全員、目がハートマークになっていた。
礼拝が終わるやいなや、「キャーッ、先生~~!!」と校長に突撃、まわりを取り囲んでの質問攻め。
「先生っ、結婚してるんですかー?」「彼女いますか?」「趣味はなんですかー?」エトセトラ、エトセトラ。
それはもう雲霞のごとく、蠅のごとく、たかっていた。
校長は微笑んで、愛想よく答えたり、はぐらかしたり、煙に巻いたりしていた。
げっそりしたかなめが外に出ると、家庭科教師のシスター・マリアが、お手製のクッキーをくれた。小さな包みを渡して、にっこりとほほ笑む欧米のおばあちゃんをイメージしてほしい。
「はいよ、これあげる。また来てね」
「ありがとうございます、シスター・マリア」
この人は吸血鬼じゃないのは間違いないな、とかなめは安堵しつつ、クッキーを受け取った。
* * *
「これが、そのクッキー」
甘いものは得意じゃないからあげる、と差し出され、思わず受け取りながらも、アル改め『銀ちゃん』は抗議する。
「今の話だと、校長のクソっぷりが分からないんだが」
「続き、話す……」
かなめは、ぽつりぽつりと語った。『銀ちゃん』は長い話になりそうだと、かなめの隣に座って、クッキーをかじった。
「梅雨に入ってから、幽霊が見えるようになった。薄暗いすみっこに、誰かが立ってて……目の錯覚かな? って見に行くと、うっすらと薄く、でも確かに誰かが立ってる」
「……吸血鬼の眷属になると、感覚が鋭敏になるっていうからな」
「でも、花子と港には見えないんだって。校舎のなかにもいるはいるけど、めったに通らないところだから、なるべくそういうところは通らないようにしてた。でも中庭は、よく見るところだから……どうしても、見てしまう。
廊下に立って、窓から中庭を見下ろすと、ぼんやりと薄い影が見えるから、本当に怖かった。でも、真っ暗なところとか、明るい昼間は見えないんだ。厚い雲が垂れ込めて、夕暮れみたいに暗い昼間か、夕暮れどき。月の出ない夜。そんなとき、中庭を見ると、かすかに見える。
最初は本当に怖かったけど、だんだん、何をしてるのか気になった。中庭のは、ほかのみたいに、じっと立ってなくて、しじゅう歩き回ってた。かがんだり、覗き込んだりして、なにかを探してる風だった。
私は何を探しているのかを知りたくて、幽霊が見える夜に、中庭に行った。近くに行くと、女の子なのが分かった。高校生くらいで、制服で、ポニーテールで…………。
たしかに良子だった。良子だったんだ。私がそばに寄っても、私のことが分からないようだった。私を無視して、探し物をしていた。もしかして、と思って、次に会ったとき……」
かなめは、言いづらそうに言葉を切った。狼の子は、黙って聞いていた。
「次に会ったとき、これを探しているのかと、拾ったキーホルダーを差し出した。良子はとても嬉しそうに笑って、消えてしまった。良子はもう……」
死んでた。分かってたことだけど、と呟くかなめに、
「生霊っていう可能性もなくは……」
「水さすな! とにかく、校長がやったという証拠はないけど、校長なんだから校内のことには責任がある。私はクラスメイトなんだから、良子がどうなったのかを聞く権利がある」
「……決行の決心がついたか」
「…………うん」
「ほかの二人はどうする?」
「港と花子は……」
かなめの脳裏に、二人の笑顔が浮かぶ。さっきまで、修学旅行が決まったと、騒いでいた。
『ねぇねぇ! 私たち、秋には修了みたいよ』
港がシスター・セシリアから聞き出したビッグ・ニュースだった。あとから、正式な話が校長からあるらしかった。
『まじで!? 勉強やだったから、助かったー』
花子が喜ぶと、港が叱る。
『一生、勉強だよ! 女スパイになりたいんでしょ』
『最近はそれ、どうでもいいかなーって。事務員でらくらく過ごしたい。女スパイだと、砂漠行ったりで大変じゃん』
『映画の見すぎ!』
『それより修学旅行あるって? ほんと!?』
『そうそう、ヨーロッパだって。楽しみだね』
『うわーい、お土産なんにしよう!』
はしゃぐ二人の様子を見ていると、どうしても、切り出せなかった。
「……もしかして、私の勘違いってこともあるでしょ? 怒られるのは、私だけでいいよ」
「ふーん。まぁ、かなめがいいならいいけど……」
いつやるんだ、と狼の子が問う。
「今度の日曜。銀ちゃんが朝番なんでしょ」
「仮に、まったく邪魔が入らなくても、メイドがいる。追い返される可能性もある」
「……そのときはそのときだよ」
「それにしても……」
狼の子は、呆れたようにかなめを見つめた。
「名前なんてどうでもいい……って言いたいところだが、まさか『髪が銀色だから』なのか」
「そっ、そんな単純なわけないでしょ!? 『蒲田行進曲』が好きだから! ……ってのも、ちょっとある」
「蒲田……?」
「映画だよ。知らないの?」
「知らない」
「『流れ○銀』も好きだけど、それから取ったら、銀ちゃん、ヒグマ倒しにいっちゃいそうだし……」
「なんだ、それ……」
呆れた顔の相手に、かなめは説明した。
「漫画だよ、漫画。ジャ○プ読まないの?」
「読まない」
「とにかく、あんたはこれから銀子、通称、銀ちゃんってことにしよう。……イヤじゃなかったら」
――――名前をつけたからって、味方になったと思ってもらっちゃ困る。
と言ってやろうと思ったが、それは言わず、狼の子は、深々とため息をついた。
「いいの? 嫌なの?」
「好きにしろ。名前なんてどうでもいい。とにかく、今度の日曜だな。身の回りに気をつけろよ」
どこに耳があるか分からないからな、と言われて、かなめは頷いた。