第二話:先輩と天使との交友事情 その1
僕は朝は白いご飯と決めていた。
だから今日も眠い目をこすりながらいつものようにみそ汁を作っているのだけど、昨日までと違うことがひとつだけあった。
使うみそが変わったわけでも具が豪華になったわけでもない、いつもの出汁入りあわせみそに豆腐とネギのみそ汁だ。ただ作る量が二人分に増えたのだ。
その増えた分を食べる相手はまだ僕のベッドで眠っている。
寝かせたままにしておいてあげようかとも思ったけれど起こすことにした。
そういえば異性を起こすのは生まれて初めての体験だと思い至り、ちょっと緊張した自分が恥ずかしくも悲しい。
軽く揺すると案外すぐに「はう~」と目をこすりながら少女は起きた。
「おはよ」
「おはようございますです~」
これは平凡な僕にちろるという天使が舞い下りてきた話。
朝食を食べながら「家に戻らなくてもいいの? 学校に行かなくてもいいの?」と言いたいのをみそ汁と一緒に飲み込む。
堕天使と自称するちろるを信じてみようと昨夜決めたのだ。決めたからには普通の女の子扱いをしてはいけない。もっとも普通の女の子よりも手間のかかることも多いけれど。
例えばちろるはシャンプーハットがないと自分で髪を洗えない。
とりあえず「今日はどうするの?」と聞いてみた。
「ずっとコウジさんの傍にいるです。納豆っておいしいですね~」
「僕はこれから学校なんだけど」
「もちろん一緒に行くですよ。おかわりしてもよいです~?」
「ダメ!」
「ふぇえ。コウジさんひとりで食べるつもりですかぁ?」」
「あ、おかわりはいいよ」
ご飯をよそってあげる。
「学校に付いて来るのがダメ!」
結局「おとなしく家で待っててよ」と言う僕に対して「困るです。降臨者の傍にいないと、救済のエナジーを感じることが出来ないのです」とちろるが泣きながら訴えるのに、根負けした形になってしまった。
ただ学校には連れて行くけれど、案内した場所でじっとしているということで妥協してもらう。
都合の良い場所に心当たりがあったのだ。
学校の裏側に回り通用門から敷地内に入る。
この時間ならまだ生徒の数は少ない。朝練に来ている熱心な運動部員ぐらいだろうか。
教師は職員室なり教官室にいるはずで廊下で会う可能性は低いだろう。
それでも周囲に十分注意をしながら自転車置き場の裏を通って特別練に入る。そのまま誰にも見られることなく四階までたどり着くことができた。
拍子抜けするほど簡単で、これなら明日からも心配はないだろう。
廊下に並んでいるなかの一番奥の扉にポケットから取り出した鍵を挿し込んだ。
扉の上のプラスチックの札には薄くなった字で『資料保管室』とあるが、それに貼り付けるようにして『弁論部』と書かれた紙が無造作に貼り付けられている。
さらによく見ると弁の文字の前に薄い鉛筆書きで『詭』という字が見てとれる。森見ファンのいたずら描きだろうか。僕が入学した時から書かれてあったのは間違いなく、消される様子はない。現役部員の部に対する思い入れ具合がよくわかる。
部屋は縦に細長い部屋で奥に窓があり、両側の壁には本棚とスチールラックが隙間なく並べられ、雑多な本や資料がみっしりと収まっていた。床には収まりきらなかった分がダンボールに入れられホコリを被っている。
中央には会議テーブルにパイプ椅子が数脚、テーブルの上には型遅れのノートパソコンがひとつ置かれていた。
僕の後に続いて中に入ったちろるは、興味深そうにきょろきょろと部屋を見回している。
「ここは僕が在籍する部室で放課後までは誰も来ないと思う」
何しろ特別練の最上階の一番奥の部屋なのだ、在学中に一度もここに来ない生徒が大多数だろう。
ちろるは窓から外を眺める。そこには体育館の屋根だけが見え、外からこの部屋の中を見られる心配はない。
「昼休みにはご飯を持って来るから、それまでここでおとなしくしててね。あまり物音を立てないこと。一応中から鍵をかけておいて。本だったらいくらでも読んでいいから――難しいのや日本語じゃないのも多いけど。パソコンは大事なデータは入っていないはずだから使っても大丈夫かな、インターネットにもつながってるよ」
ちろるはひとつひとつにうなずく。よしよし良い子だ。
そこまで説明したところでタイミングよく予鈴が鳴った。
「じゃあ僕は行くから」廊下に出ようとすると「コウジさん」と呼び止められた。
「なに?」
「あの……」
珍しく言いよどんでいる。やはり心細いのだろうか?
「オシッコはどうしましょー?」
「…………トイレは階段の脇にあるから。なるべく授業中に行くようにね。そうすれば見つからないと思う」
「は~い。良い子でお勉強してくるのですよー。いってらっしゃいです~」
「……いってきます」
あう。脱力してたら遅刻しそうじゃないかぁ。
僕は教室に向かって全速力で駆け出した。
休み時間にも部室を覗こうと思ったのだが、体育で着替えがあったりとなかなか時間が取れなかった。
昼休みになると購買部に駆け込み、手当たりしだいにパンを買い、自販機で飲み物も二つ買うと部室へと急いだ。
まさか抜け出してどこかへ行ってたりして、と不安になったが、扉には鍵が掛かったままで、中ではちろるがテーブルに突っ伏して寝ていた。
風邪をひかなきゃいいんだけど。
ちろるの服装は出会った時の薄桃色のパーカーとレモンイエローのキュロットだ。
テーブルに近づくと気配を感じたのかちろるは目を覚ました。
「はう~」
「お昼だよ」
買ってきたパンとジュースをテーブルに載せる。
「昼はいつも購買のパンなんだ、ちろるから好きなのを選んでいいよ」
ちろるはメロンパンにカステラパンにチョココロネに手を伸ばす、飲み物はイチゴオレを選んだ。昨日のパフェの時から予想はしていたけど、やっぱりかなりの甘党らしい。
僕は焼きそばパンの袋を開けながら聞いてみる、
「退屈しなかった?」
「本を読んでたので平気でした~」
「ふーん、なに読んでたの?」
ちろるの傍らに置いてあった本の表紙を見る。
「!?」
……じゅ、重力の虹、しかも原書……だと……?
「おもしろかったです~。でも読み終わったら寝てしまったです」
「あ、そ、そう。よかった。でも風邪ひかないようにね」
読み終わった!?
おもしろかった!?
……聞かなかったことにしよう。
それよりもちろる本人に関してたずねたいことがある。昨日はなんだかんだでそんな暇がなかったのだ。
「ちろるが堕天使ならさ。魔法とか奇跡とかそういうのは使えないの?」
ちろるはチョココロネをくわえながらきょとんとした表情でこっちを見る。
「使えるわけないじゃないですか」
断定されてしまった。
マンガとかアニメを観る限り不思議少女は魔法が使えるのがお約束だと思うんだけど。
「何か勝手に使えるって思い込んでた――チョココロネはしっぽから食べるとチョコがこぼれるよ」
ちろるが慌ててチョココロネをひっくり返す。
「それは天使だった時から使えないってこと? それとも堕天使になっちゃったから?」
「天使の頃からです。コウジさんは天使を魔法使いや超能力者と一緒にしてないです?」
自信を持って言うけど一緒にしてる。その区別をどうつけろと?
「じゃあ聞くけどさ、そもそも天使の定義ってなに?」
「世田谷区民さんと一緒ですよ~」
「は?」
「世田谷区民さんと渋谷区民さんの違いってなんです?」
「そりゃあ世田谷区に住んでいるか、渋谷区に住んでいるかの違いでしょ?」
「それと一緒ですよ~。世田谷区に区民税を納めてて世田谷区議会選挙の投票権があるのが世田谷区民さんで、天上界に住んでて神様に仕えているのが天使です」
「いや、もっと能力での区別とかさ」
「プリンセス・テンコーさんが世田谷区に住んでいたとして、一般人には使えないマジックができるからといって世田谷区民として何か特別なのです?」
「……特別じゃない」
「ほら~。能力によって区別するなんてナンセンスなのです」
ちなみにポリバケツを使った『変身』は魔法ではなく、単なる『着替え』だそうだ。
「コウジさんだって更衣室に入ったら違う服装になるですよね?」
「僕はそこに存在しない服を着ることはできないし、今ある服を片付けることも出来ない」
「更衣室がクローゼットとつながっていたら?」
「……それはポリバケツの中がどこかと通じているということ?」
「そういうことです~」
「じゃあ今度ちろるがポリバケツに入る時はふたを閉めないでおいてよ、そうすればどこから服を取り出すのかわか――」
「コウジさんのえっちーーーっ!! 変態っ! 痴漢っ! ぴーぴんぐとむっ!」
……ひどい言われようだ。
「ポリバケツのふたを開けておけだなんて破廉恥で非常識にも程があるのですっ!」
風呂の途中に素っ裸で出てきて、あげくに他人に髪を洗わせた人間――じゃなかった、堕天使が何をいうか。
そんな会話をしていたらあっと言う間に昼休みも終わりだった。
「じゃあもうひとつだけ。最初に会った時にさ、ミスをして地上に来る事になったって言ったよね、天上界で何をしたの?」
メロンパンの皮の部分だけを食べていたちろるの動きが止まる。
確かにメロンパンって皮の部分がおいしいけど、そこだけ最初に食べちゃうと後はおいしくないような。
それにしても今までは打てば響くように返ってきていた返事がない。
どうしたのだろうと心配になりかけた頃、ちろるはようやく口を開いた。
「……そのことに関しては話してはダメなのです」
「あ、そうなんだ」
「……ごめんなさいです」
「ううん、全然構わないよ。こっちこそ変なこと聞いてごめん」
ちろるは何かを思い出すようにじっとテーブルの一点を見つめている。
しまった。どうやら天上界での失敗については触れてはいけなかったらしい。
ウインクしながら「禁則事項です」とか言ってくれたらこちらも笑って突っ込めたのだけれど。
昼休み終わりの予鈴に救われる思いで立ち上がった。
「放課後まで留守番をよろしくね」
ちろるはこくんとうなずいた。