第一話:堕ちてきた天使 その5
いや待て、落ち着け僕。
彼がその困った事と言うのを誰かに相談していたところを、たまたまちろるが聞いていたということだってある。そして僕たちはこの街をぐるぐると歩き回っていた。その時に彼がこの店に入るのをちろるが見ていたとすれば、後から訪ねるのは不可能でもなんでもない。
我ながら論理的な推理だと思う。
「その困っているという事について誰かと話したことがありますね?」
「ええ」
ほら、やっぱりだ。
「一時間前ぐらい前のことです」
「……え? 一時間前?」
「はい、正確に言うと四十五分前ぐらいでしょうか。バイトの先輩たちとの会話から困った問題というのが発生して……。それで今ここに居るわけなんです」
その時間帯なら僕はちろるとずっと一緒だった。ちろるが耳にしたことなら当然僕も聞いているはずだ。――と思ったけれど、僕はずっと『正しい休日の過ごし方』について考えていたから聞き逃したのかもしれない。
「ちなみにバイト先ってどこですか?」
「駅前のビルの7階です」
「会話をしたのもそこで?」
「はい、店の事務所兼倉庫みたいな所があって、そこで休憩中の時です」
それなら完全にアウトである。僕たちは外をずっとうろうろしていて、建物の中には全く入っていない。
となるとちろるはどうやってこの事を知ったのだろう?
適当に話しかけた相手に悩み事があったという可能性は低くない、しかしメガネさんの問題はつい四十五分前に発生したというところが気にかかった。
ちろるが「救済のエナジー」とやらを感じとったと叫んだのが確かそのくらい前……。
僕とメガネさんが会話をしている隣で、ちろるは金魚鉢に頭を突っ込むようにして巨大パフェの残骸と格闘していた。
仕方がない、ここまで来たら毒を食らわば皿までである。
「もしよかったらですけど、その困った事というのを聞かせてもらえませんか? 僕は救済なんて出来ないですけど、悩みは相談するだけでも楽になるとか言いますし、それに――」金魚鉢の底のアイスをなめるちろるを見やる「この子がひょっとしたらですけど本当に救済してくれるかもしれませんし」
正直、聞いたところで力になれるとは思えない。ただ僕はこの話に既に関わっていると思ったのだ。
ちろる風に言えば、出会い、そして踏み出したのである。
メガネさんは僕とちろるを交互に見てしばらく迷っていたが、何か思うところがあったのかひとつ頷くと話し始めた。
「さっきも話しましたが、私は駅の近くにあるホビーショップでバイトしていまして、今は休憩時間を利用してここに来ているんです」
休憩時間にわざわざメイド喫茶まで来るなんて、よっぽどメイド好きなのだろうか? その割には全然楽しそうじゃなかったけれど。
「それで領収書をもらってこなくてはならなくて……」
領収書?
経費で休憩時間にメイド喫茶に行けるのだろうか? 随分と待遇の良いバイトがあるものだ。ぶっちゃけ紹介して欲しい。
それにしても成り行きとはいえ、なんで僕が話を聞いているんだろう?
すでに金魚鉢はからっぽであり、ちろるは名残惜しそうにそれを眺めている。
「まあ、お店の経費で休憩するなら、領収書をもらってくるのは当然だと思うのですけど」
「いえ、経費じゃないんです」
経費じゃないのに領収書?
「自腹なんですか?」
「いえ、先輩のおごりです」
「はあ、太っ腹な先輩ですねえ」いまひとつ話が見えない「つまり先輩に渡すために領収書をもらってくると?」
「そういうことです……」
イリーガルな税金対策でもしている先輩がいるのだろうか?
「まあ、それならそれで領収書をもらって帰ればいいのでは?」
「それが普通の領収書じゃ駄目なんです!」
「はあ」
メガネさんは急激にテンションが上がってきたのか声が大きくなる。
「宛名を書く覧がありますよね! あそこに『三つ編みメガネっ子萌え萌え後援会』とか『水色縞パン愛好同盟』とか!」
「は!?」
「そんなのはまだいい方で『学校以外のプールにもスクール水着で行こう推進団体』さらには『ブルマ絶滅を真剣に憂慮する会』とか!! そういう領収書をもらって来ないと駄目なんです!!」
「ちょ、ちょっと声を抑えてください」
メガネさんは上がったテンションのまま荒く息をついた。
……とりあえず、なんとなく事情はわかってきた。
ようするに体育会系にありがちな、先輩からの後輩へのむちゃな要求ってやつらしい。新人いじめみたいなものだろうか。金を出してやるからメイド喫茶に行って、恥ずかしい宛名の領収書をもらってこいと。
「こういうお店に入るだけでも恥ずかしかったのに、さらにあんな過激で破廉恥な領収書をもらうなんて私には無理です!」
「わ、わかりましたから大声出さないでください」
これ以上、冷たい視線を浴びるのは避けたいんです。
「そんなに嫌なら、そんな先輩のいるバイトなんて辞めたらどうです?」
「……簡単に言いますけど、せっかく東京の大学に入学できて、好きな趣味のアルバイトに就けたんです。こんなことで辞めたくないです!」
「ちなみに、領収書をもらわずに帰るとどうなるんです?」
まさかボコボコに殴られたり、時給が下がったりするのだろうか。
「いえ、どうなるかは知りません。追い立てられるように出てきてしまったので……」
うーん、どうしたものだろうか。と真剣に考えそうになって気がついた。
これが救済とやらの内容? メガネさんには悪いけど、えらいチープというかぶっちゃけくだらなくない?
確かちろるは堕天使にしか出来ない救済をするとか言っていたけれど、これがそうなの?
そのちろるはまだ金魚鉢に未練があるようで「二つ頼めばよかったです……」と、のたまっている。
顔はもちろん髪の毛にまで生クリームやチョコがついているのだが本人は気にしていない。一緒に歩くこっちが恥ずかしいので仕方なくおしぼりで拭いてやる。
ちろるは気持ち良さそうにされるがままにしている。これじゃ完全に保護者だ。
「あなたなら出来ます?」
そんな僕を見ながらメガネさんが聞いてきた。
「出来るって、ここでそういう領収書をもらうってことですか?」
「はい」
「うーん」
自分のことを純真無垢とは思わないし、家庭の事情で同世代の人間よりも世慣れているとは思う。ただ自慢じゃないけど年齢=彼女いない歴なので女性に対して免疫がない。
振り返って、お盆片手にテーブルの間をクルクルと動き回るメイドさんを眺める。
やっぱりこういう商売だから容姿での採用条件もあるのだろうか、それなりに奇麗な人が多い。時給っていくらぐらいなんだろう? やっぱりお客さんから告白されたりとかするのだろうか? と、僕の視線に気がついた一人のメイドさんと目が合ってしまった。
「ご主人様、御用でしょうかぁ?」
「あ、すみません。お水もらえますか」
トポトポトポとお水を注いでくれたメイドさんが行ってしまうと、メガネさんが何かを期待するような表情で僕を見つめていた。
「ちょ、ちょっと待ってください。僕は嫌ですよ、僕には無理です」
目が合っただけで動揺しているようじゃやっぱり無理だ。
「救済してくれるって言ったじゃないですか……」
「それはこの子です。僕は話を聞くだけって言ったはずです」
「そんな。じゃあどうすればいいんですか?」
そんな恨みがましい目で見ないで欲しい。だいたいあなたは僕より年上でしょう。
「お金を返して、僕にはできませんでした。って正直に言うしかないんじゃないですか?」
「……やっぱりそれしかないのでしょうか?」
「それでいじめられたり待遇が悪くなるようなら、開き直って辞める覚悟で文句言いましょうよ」
「……そうですね」
「そんなことする必要ないのですっ!」
ずっと黙ったままだったちろるがいきなり立ち上がって叫ぶ。
「それを救済するためにわたしが来たのです! 横暴な領主の年貢取り立てには百姓一揆で立ち上がり、マルクス主義にはプロレタリアートが酔った勢いでベルリンの壁崩壊なのです!」
そう言うなり椅子から飛び降りると出口の方へ歩きだしてしまった。
ひょっとしてレジで領収書を要求したりするかもと心配したが、ちろるはそのままドアから外へ出ていく。
僕とメガネさんは呆然とそれ見送り、慌てて立ち上がって後に続く。
「いってらっしゃいませ、ご主人様ぁ」
メイドさんたちのにこやかな挨拶に見送られて僕たちは店を出た。
結局メガネさんは領収書をもらわず、案の定パフェ代は僕が払った。