ハッピーなエンド。
矢嶋さんの家に回覧板を回すのは小学校のころから僕の役目だったんだよ。
だから、今回起こったこの出来事について何か言えるわけでもないことはわかってはいるんだけど、どうもなんだか腑に落ちないんだ。妹に行かせればよかったとも思うし、たった一分。そう一分でも時間をずらせば僕はこんな混乱しなかったと思う。多分ね。
回覧板を持っていって。と母に言われたあの時の僕はどうも浮かれていて、世界が薔薇色で、夢でも見てるんじゃないかと思ったぐらいなんだ。だから二つ返事で、いいよ。と言ってしまったんだ。今はもう本当に後悔してるけどね。
もちろん回覧板を持って行く事が浮かれた原因じゃない。誰しもがそうなように僕だってそんな面倒なことはしたくないと思ってるよ。浮かれた原因はね学校で少しだけいい事があったのさ。
でも、その話はこの話には関係がない。別に内緒にしてるわけじゃないんだ。ただ本当に関係がないだけさ。誰だって関係ない話なんて聞きたくないだろう?少なくても僕は聞きたくないね、ましてや幸せな話なんて水洗便所できれいさっぱり流してしまいたいぐらいさ。だから話さないだけだよ、わかってくれるだろう?
話がそれちゃったな、まぁとりあえず僕は浮かれていて、回覧板を矢嶋さんの家に持って行ったことからこの話は始まったんだ。
僕の家から矢嶋さんの家はそんなに遠くない。歩いて三分ぐらいなんだ。まぁあたりまえだよね、大体回覧板っていうものは町内で回すものなんだから。
僕は走って矢嶋さんの家に行った。まぁ一分もかからなかったと思う。黒豹もびっくりするぐらいの速さで矢嶋さんの家についたんだ。
なんて馬鹿なことをしたんだろうと今は猛烈に反省してるよ。歩いていけばあんな事に巻き込まれなかったんだろうからさ。本当にあの時の僕は頭のネジが一本ぐらいはぶっ飛んでたね。今、もし過去に戻れるなら、僕は間違いなく僕をぶん殴ってるよ。
そんな馬鹿な僕は呼び鈴を押したんだ。ピンポーンってまるで呆れるような簡単な音がなって、庭にいるポチがほえたんだ。ポチっていうのは矢嶋さんが飼っている犬なんだ。これがまた厄介なやつで僕は小さなころお尻を噛まれた事があるんだよ。だから今でもやつを見るとお尻の辺りがぞわぞわするんだ。
ポチは狂ったように吼えてるけど、家の中から誰も出てきてくれなかったんだ。ちょうど携帯にメールが来てたから返信した。時間は四時四分だった。
いくら待っても出てこないから留守なのかなとも思ったけど、もう一度呼び鈴を鳴らしちゃったんだ。
ピンポーンってまた呆れた音が鳴ったと思ったら、後ろからトントンと肩をたたかれた。振り向くと地元の中学生服を着た男の子がいたんだ。矢嶋さんの家の長男の修二君かなと思ったんだけど、おかしいんだ、その子は祭りとかで売ってる安いウサギの仮面をかぶっていたんだよ。修二君はウサギが嫌いなはずだから彼がこんな仮面かぶるはずないよね。
おかしいいなとは思ったけど尋ねたんだ。
「修二君?」
って。彼は僕の投げかけた質問なんて聞こえてないかのように何にもいわずに僕の横を通って矢嶋さんの家のドアを開けたんだ。
ウサギの彼はドアノブに手をあてたままハッと何かに気がついたかのようにいきなり、本当にいきなり振り返って僕の目の前に詰め寄ってきたんだ。僕はとても驚いてしまってお尻の穴がキュって閉まるのを感じたよ。
ウサギの彼は僕の目の前、本当に目の前に詰め寄ってきて、僕の持ってる回覧板を指差したのさ。そのときの僕はまだ目の前のウサギの彼が修二君だと心の隅で思っていて、僕は彼に回覧板を渡してしまったんだ。
ウサギの彼は回覧板を開いた。僕はもう役目、用事も終わった事だし、別れの挨拶をして帰ろうと手を上げた時、ウサギの彼が回覧板の間からとっても立派な大きなナイフを取り出したんだ。ナイフは何でも切れそうなほどに鋭そうで、金属だけが持っているあの輝きがとっても鈍く光を反射していた。そしてウサギの彼はゆっくりと僕の首筋にそのナイフを持っていったんだ。
「コーヒー出すからさ、あがっていけよ」
とっても低い声でウサギの彼が僕にこう言ったんだ。修二君の声変わりもまだな、あのあどけない声とはかけ離れていた、どちらかといえば人を脅すような声だったんだ。
おとなしく従わなきゃいけない。どうにか刺激しないように。それが僕の出した答えだったんだ。恐かったんだ。ナイフを突きつけられた瞬間に僕の体の毛穴は開ききってしまった。じわっと本当に気持ちが悪い汗が全身からただれ出てくるのを感じたよ。首もとの一本の細い線のような冷たさだけが生きた僕の体みたいだった。
ウサギの彼は僕の背中にゆっくりと回って、僕を蹴り飛ばした。僕の体は体勢を崩して玄関のドアにぶつかったんだ。それはもう惨めに。
「開けろよ」
ウサギの彼がそういった。僕は抵抗なんかしないでさっさとドアを開けたのさ。そうしたら、ナイフを手でクルクルと愉快そうに回しながらウサギの彼は言ったんだ。
「靴脱いで、居間に行け。コーヒー持ってってやるから」
僕は靴をぬいで、冷蔵庫の中のような冷えた廊下を進んで居間に行った。矢嶋さんの家には何回か入ったこともあるしもちろん迷うことなんてなく一目散に居間に行った。
居間には大きなテレビ、クリーム色のソファーセット、ガラスのテーブル、僕の腰の高さまである観葉植物、窓の近くに縄で縛られた矢嶋修二君、鹿の剥製のように上半身だけ壁から突き出た修二君のお母さんの矢嶋紀子さんがいた。気がおかしくなりそうな頭を抱えてヨチヨチと歩き、僕は修二君の肩を揺さぶった。修二君はすやすやと眠っていた、僕がいくら揺さぶっても目は開けてくれなかった。それどころかなんだか幸せそうな寝顔をしていたんだ。
修二君の肩を揺さぶりながら、ふと視線を上げると紀子さんの姿が消えていた。変わりにとても大きなリスの剥製になっていたんだよ。リスじゃないかと思うくらい、熊ぐらい大きいんだ。まさにドングリをかじろうとする瞬間の剥製でね、ドングリの大きさはそこら辺に落ちてるドングリと変わってないからなんだか可笑しさがこみ上げてくるんだ。
とりあえず修二君の縄をとこうと思って僕は力を入れたんだ。
「何してんだ、そんな事してないでコーヒー飲めよ、冷めるぞ」
ウサギの彼がソファーにくつろぎながら僕を呼んだんだ。ナイフをちらつかせながらね。僕はウサギの彼に行動、つまり修二君の縄をはずそうとしている事を咎められるんじゃないかと思ってビクッと体を振るわせた。でもウサギの彼はそんな事気にも留めなかった。そんなことよりも多分彼はただ単純にコーヒーの味の事だけを気にしていたと思う。
僕はウサギの彼のナイフが恐くてたまらなかったから修二君を優しく、本当にね優しくね床に寝かせてソファーに腰掛けたんだ。
「飲めよ」
と、彼が僕の前にマグカップを置いた。すっと鼻に通っていく穏やかな香りが張り詰めてた僕の緊張みたいなものを少しだけ緩めてくれた気がする。口に含んだらいやにまともな味がして少し驚いたんだ。酸味が利いたいい味だったな。
ウサギの彼は僕に、美味いか?と尋ねてきた。僕は美味しいです。と幾分強ばって言った。多分声も裏返っていたと思う。
ウサギの彼はとても満足そうにうなずいた。そして部屋の中は静かになった。誰も何にも言わないんだ。僕も修二君も、ウサギの彼も。雪の日のような静けさがこの部屋を支配していたと思う。
彼は唐突に言った。
「君がよければ食べさせたいものがあるんだけど、食べる?」
僕は恐る恐る言った「いや、コーヒーだけで……十分です」
「食えよ」
ナイフが不自然に光ったんだ。僕の心臓はノミよりも小さくなって、太鼓よりも大きな音を奏でた。口の中にたまった唾液を飲み込みこんで言い直した。
「あっ……はい。頂きます」
ついて来い。と言いウサギの彼は立ち上がった。僕は彼に近づきすぎないように四、五歩離れて廊下に出た。
でも、廊下は廊下じゃなくなっていた。僕の知っている矢嶋さん家の廊下じゃなくて、どこだか解らない学校の夕暮れの保健室になっていた。
つんと鼻を刺す独特のにおい。クラクラとなった。僕はね保健室にはそんなにいい思いではないんだ。で、ここでやっと馬鹿な僕はやっときずいたんだ。異常だって。なんだか訳の解らない事になっているって。頭をかきむしりながら気がついたんだ。やっとね。
混乱してる僕を尻目に、清潔そうな真っ白いシーツのベットの上にウサギの彼は立ち、ぱちんと指を鳴らしたら真っ暗になった。何にも見えない本当の暗闇が訪れたんだ。
どこからか、パン。と音が聞こえたかと思うと部屋が急に明るくなった。眩しくて目をつぶった。二、三秒たってゆっくり目を開けると、君の家のキッチンにいた。そう。君のね。
キッチンの片隅に足をグルグルと縄で縛られた豚がいた。豚はどこか滑稽でね、どっか遠くお見つめながらブヒブヒ思い出したように鳴いていた。
ウサギの彼は冷蔵庫から肉の塊を出して、手に持ったナイフで切り落とし、塩コショウで下味おつけて、フライパンで丁寧に焼いた。手際がいいと思った。ウサギの彼は君の家のキッチンをよく理解してたよ。
彼は真っ白な皿にフライパンで焼かれた肉を盛り付けて、小さな小皿に塩を盛った。ナイフとホークを取り出して皿に乗せた。
「食べろよ、ポークステーキだ」
振り向いてウサギの彼が僕に言った。部屋の片隅で豚がブヒブヒと鳴いた。
僕はナイフで一口大に切って、塩をつけた。ちらりと彼のほうを盗み見たら満足そうにうなずいた。
ポークステーキを口に含んだ瞬間僕は言った「美味しい」と。
そう言ってウサギの彼の御機嫌をとったわけじゃなくて、本当にただ単純に美味しかった。舌を刺激する肉汁が口の中に広がり、とめどなく出てくる唾液と混ざりあい、滑らかな歯ざわりの肉は繊維がつまっていた。今でもあれだけはもう一度食べたいと本気で言えるよ。あんな美味しいポークステーキは食べたことなかった。
食べ終わり、彼に食器を返した。
「それでいいのかい?」
と、本当に突然ウサギの彼が言ったんだ。質問の意味が解らなかった。でも彼はもう一度言った。
「本当にそれでいいのかい?」
「なにがですか?」と僕がやっぱり意味が解らなかったからこらえきれずに言った。
「はっ。少しは考えろよ。自問自答してみろよ。お前はいつもそうだな、自分で考えて行動したことあるのか?周りに流されて、気持ちがいい誰かが言った真実を振りかざして、生きる価値があるとでも思ってるのか?情けないしみっともない。俺はお前みたいにスポイルされて生きているやつは我慢できないんだよ」
そう言ったウサギの彼はナイフを振りかざして僕に迫ってきた。だから僕は逃げた。真剣に。
全力で走った。少しでも振り返っちゃいけないと思った。もし振り返っちゃったりしたら僕はウサギの彼に何度もナイフで刺されるだろう。それは無残に。僕の形がなくなるまで、指の一本でさえも百の肉片になるまで切り刻まれるだろうと感じたんだ。
悪い。どこをどう走って逃げたのかは覚えてないんだ。本当に必死で、必死で目の前の道を突き進むことしかできなかったんだ。でもこれだけは覚えてる。蛇のような道だったんだ。
その蛇のような道を走った。息はあがり、足はもつれて、何度も諦めそうになった。いっそウサギの彼に捕まってバラバラになったほうが楽になるんじゃないかと思うぐらい走り抜けたんだ。
足がもつれて転んだときに目の前に大きな扉が見えた。焦げたような茶色の木でできた扉で。 ドアノブは金色で、ところどころ剥げていた。そして、凄い勢いで足音が近づいてくるのがわかった。僕は火事場の馬鹿力みたいなものをだして立ち上がり、扉まで走った。
扉に手をかけドアノブを回そうとしたら服の襟を捕まれたんだ。とんでもない力で後ろに引っ張られた。もう終わったと思った。その瞬間なんていうのか諦めたんだよ。
でも、扉は手前に開いてくれた。バランスを崩したウサギの彼は後ろに倒れた。僕はドアノブに捕まっていたからバランスをくづしても何とか持ちこたえられたんだ。奇跡、いや神様って思ったよ。
僕は倒れこむように扉の向こうに行って、ドアを閉めようとした。ウサギの彼は僕にこう怒鳴った。
「諦めないからな。忘れるなよ、俺はどこにでもいるからな。逃げ切れたと思うなよ。どこにでもいるんだからな」
僕は扉を閉めた。そうして座り込んだ。全身から力が抜けていって、どうしようもなく眠たくなったんだ。何とか抵抗しようと思ったんだけどだめだった。湖いっぱいが砂糖水になったようなトロリとした眠気が僕に抵抗を許さなかったんだよ。そして僕は夢を見た。
ショーウインドウの前で僕はマネキンを見ていた。
ガラスの中のマネキンは綺麗な真っ赤なドレスを着ていた。血のような色のそれはこの夢の中で唯一色があった。
マネキンは重そうな口を開いて僕に言った。
「どうも有難う。大変面白かったでしょう?」
僕は反論しようと口を開こうとするが動かなかった。それどころか体もぜんぜん動かないんだ。腰に手を当てた格好でピクリともね。ガラスに映った自分の姿を見て気がついた。僕がマネキンになっていた。
赤いドレスのマネキンは言う「さて今回の代金なんですけど、どうしましょうねぇ……あんまり高価なものをもらっても悪い気がしますし……そうですねぇあなたの必要なものを頂く事にしましょう」
それがいいわ。それがいいわ。と赤いマネキンは言い続けた。
それがいいわ。それがいいわ。それがいいわ。それいいわ。
気がついたら矢嶋さんの家の前に立っていた。ポチはあいかわらずけたたましく吠えていた。
僕は携帯を取り出した。この、おかしな事を誰かに言いたかったから。それに矢嶋さんの家の中には縄で縛られた修二君とどこかに消えた紀子さんがいるから警察に連絡もしなくちゃいけないとも思ったんだ。
携帯の液晶を見たときに変だと思った。四時四分だったんだよ。メールが来ていた。そのメールに僕は確かに返信したはずなのに、僕は返信してなかった。発信履歴には残ってなかったんだ。
そして気がついたら叫んでたんだ。分けの分からない言葉にならない言葉を。僕の叫ぶ声にびっくりしたのか矢嶋さんの家から紀子さんが出てきた。
「何?どうしたの?」
どうしたの?何があったの?ハハハ僕に分かるわけないじゃないですか。今でも分からないよ、この出来事は夢で片付けれるほど簡単なものでもなかったし、なにぶん現実感がありすぎたんだ。
とりあえず僕は紀子さんに回覧板を渡した。紀子さんは、ねぇひどい顔してるけど本当に何が会ったの大丈夫なの?と繰り返し聞いてくる。僕は頼りない、井戸のそこから叫ぶように、大丈夫。と繰り返し言った。もちろん僕と紀子さんにむけてね。
紀子さんは言う。
「家に上がっていきなさいよ、ほんとにひどい顔してるよ。コーヒーでも飲んで落ち着きなさい」
コーヒー?
そういわれた瞬間に僕は走って逃げたんだ。何にも考えずに逃げた。
家に帰り、急いで自分の部屋に閉じこもった。階段にぶつけた足が少し痛んだ。鍵を閉めて、毛布にくるまった。それでも僕の心臓は落ち着かないし、なぜかとてもイライラした。
本棚の裏に隠してあるガンチャに手を伸ばして火をつけた。ゆっくり吸って、ため息のように吐き出した。
沢山吸いこめ、頭を掻き毟れ。
どこからかこんな声も聞こえてきた。ガンチャを吸ってるときに誰だかわからない人の声が聞こえてくることは今までにはなかったんだよ。それについて少し混乱はしたけど、なぜだか落ち着いた。
そしてね、やっと僕の体に異変があることに気がついたのさ。
僕はやっと落ち着いて自分の手の平を眺めた。汗でびしょびしょにぬれていた。毛布で汗をぬぐって、煙を吐き出し、手の甲を眺めた。
右手の爪が全部綺麗に無くなっていた。
マネキンの言葉を思い出した。“代金はあなたの必要なものをもらっていきます”
全身の毛穴がぽっかり開いて、穴という穴のすべてから僕は叫んだのさ。近所迷惑も考えずにね。
だから僕はあれからいつも右手に手袋をはめてるんだ。右手の爪がないというのは本当に不便でね物をつかもうとしてもつかめないし、周りの人からおかしな目で見られるんだ。いいかげんにしてほしいよ、まったく。
でもそんな僕にも救うべき物事はある。
好きな子がいてね。その子が僕に愛の告白をしてくれたのさ。
だからね僕は、今は幸せなのさ。
浮かれてるなんて言わないでよな、水洗便所で流してもいいからさ。
読んで頂きありがとうございます。今回のモノはなんだか本当にドタバタしました。でも、こうするしかなかったのです。言い訳ですけどね。少しでも読んでくれた人に何かが伝わればと思います、ね。とにかく本当にこんなとこまで読んでくれてありがとうございました、嬉しいです。
P.S.次回のモノは僕にとって少しだけ意味があって、まぁ記念だとおもってます。そちらのほうもよろしければ見ていただけたいです。それでは、又。ピース。