お嬢様が婚約破棄されると聞いたので、筆頭家令(元凄腕財務官)が王太子とその後ろ盾を経済制裁で完全解体することにいたしました
公爵邸の執務室に、乾いた紙擦れの音が響いていた。
「おい、事務屋。さっさと署名しろ。王太子殿下が直々に命じられた特別手当の請求書だ。貴様のような頭の固い番頭風情が、一々目を通すような代物ではないのだよ」
豪奢な刺繍を施した宮廷官吏の服に身を包んだ男が、執務机に一枚の羊皮紙を叩きつけた。机上のインク瓶が微かに揺れ、黒い液面がかすかな波紋を描く。
私は金縁眼鏡の位置を人差し指で静かに直した。羽ペンを握る手は止めず、机上の帳簿に数字を滑らせたまま、伏せていた視線をゆっくりと上げた。
「これは恐れ入りました、宮内補佐官殿。ですが、私どもの役目は公爵家の財産管理にございます。たとえ王宮からのご下命であろうと、名目の不透明な支出を無条件で通すわけにはまいりません」
「名目だと? 殿下が主催される学園の卒業記念行事、その準備金に決まっているだろう! 公爵家は王太子の外戚候補筆頭だ。殿下の華々しい門出を支えるのは、家臣としての義務ではないのかね?」
官吏は嘲笑交じりに鼻を鳴らし、机に肘をついた。脂ぎった顔を寄せて私を見下ろす。
「まったく、シュタウフェン公爵家も落ちぶれたものだな。かつては王国随一の栄華を誇った名門が、今や小銭を惜しむ守銭奴の巣窟か。貴様のような時代遅れの事務屋に財布の紐を握らせているから、社交界の流行にも乗り遅れるのだ。……いいから書け。殿下をお待たせする気か?」
私は手元の羊皮紙に目を落とした。金貨五千枚。名目は『記念行事諸雑費』とあるが、添付された内訳票の端には、王都の最高級酒場や舶来の調度品を扱う商会の名が微小なインクで紛れ込んでいる。公的な予算などではない。単なる王太子ルートヴィヒ殿下の私的な遊興費のツケ回しであった。
シュタウフェン公爵家は、長年にわたり王家の放漫な財政を補填し続けてきた。王太子側近官吏のこの傲慢な態度は、公爵家がどれほど無理難題を突きつけられても、王家との縁談を守るために最後には折れてきたという過去の甘い記憶によるものだ。
私は何も言わず、羊皮紙の受領欄にサインを書き入れた。淀みのない流麗な筆跡が紙を滑る。
「……ふん、最初からそうすればいいのだ。番頭は番頭らしく、黙って計算盤を弾いていればいい」
官吏は満足げに羊皮紙をひったくると、背を向けて執務室の扉へと歩き出した。
「公爵家も、殿下の威光の前には逆らえまいよ。せいぜい次の夜会でも、我が物顔でいられるといいがな」
薄汚い笑い声を残して扉が閉まる。足音が廊下の彼方へと消えていくのを、私は静かに耳だけで追った。羽ペンをペン立てに戻し、深く息を吐き出す。
「どうぞ、今のうちに大声でお笑いなさい」
誰もいなくなった執務室で、私の唇から冷淡な独白が零れ落ちた。
「数字の計算ができない方々に、帳簿の重みを教えて差し上げるのは、事務屋である私の役目でございますから」
私は立ち上がり、胸ポケットの内側にそっと触れた。上等な仕立ての内ポケットに収められているのは、一枚の薄手の麻布――角に拙い縫い目で青いリンドウの花が縫い付けられた、手作りの刺繍入りハンカチである。
かつて、私が王国の中央財務省を辞して公爵邸に入ったばかりの頃、当時まだ幼かったエルゼお嬢様が「お仕事、がんばってね」と手渡してくださった宝物だ。
私は執務室を出て、中庭へと続く回廊を静かに進んだ。
午後の陽光が降り注ぐ中庭のガゼボでは、公爵令嬢エルゼ・フォン・シュタウフェンが、手元の分厚い法学書から顔を上げたところだった。陽光を透かす蜂蜜色の髪が、微風に揺れて柔らかく輝いている。彼女は私の姿を認めるなり、春の陽だまりのような微笑みを浮かべた。
「ハインリヒ。お仕事は一段落したの?」
「はい、お嬢様。ちょうど良い区切りがつきましたので、お茶の用意をさせていただきました」
私は持参した銀のトレイから、白磁のティーポットとカップを取り出し、手際よくテーブルへ並べた。注がれた紅茶から、ベルガモットと微かな蜜桃の香りがふわりと立ち上る。公爵家の茶葉管理は私の厳格な監督下にあり、蒸らし時間は一秒の狂いもない。
エルゼお嬢様はカップを両手で包み込み、小さく息を吹きかけてから一口含んだ。
「美味しいわ。ハインリヒの淹れてくれるお茶を飲むと、どんなに難しい本を読んでいても、頭の中がすうっと澄み渡っていくみたい」
「もったいないお言葉にございます。本日は法学の判例集でございますか」
「ええ。王立学園の卒業論文の仕上げよ。領地法と王国通商法の衝突事例についての検証なのだけれど、調べれば調べるほど、契約の厳密さと信用の大切さを実感するわ。人の言葉は移ろいやすいけれど、署名された契約と帳簿の数字は嘘をつかない……あなたがいつも教えてくれた通りね」
誇らしげに語るエルゼお嬢様の瞳には、一点の曇りもなかった。
彼女は聡明で、慈悲深く、そして何よりも公爵家の名に恥じぬ高潔な矜持を持っていた。学園でも常に首席を争う優秀な成績を収め、将来の王妃となるべく過酷な王妃教育を文句一つ言わずに修めてきたのだ。
だが、その努力と誠意を、あの浅薄な王太子は一度たりとも正当に評価しようとはしなかった。
「……お嬢様。学園での殿下のご様子はいかがですか」
私がさりげなく尋ねると、エルゼお嬢様はわずかに視線を伏せ、カップの縁を指先でなぞった。その表情に微かな翳りが差すのを、私の目は見逃さなかった。
「ルートヴィヒ殿下は……近頃、新興貴族の方々との交流でお忙しいようなの。特に半年前に編入されたマリアンネ男爵令嬢の相談によく応じておられて。私がお声がけしても、『堅苦しい女だ』とすぐに背を向けられてしまうわ」
「左様でございますか」
「でも、私が至らないせいかもしれないわ。もっと殿下のお気持ちに寄り添えるよう、努力しなければ……。卒業記念夜会では、殿下のパートナーとして恥ずかしくない振る舞いをしなければならないもの」
健気に微笑み、自分を責めるエルゼお嬢様。
その無垢な横顔を見つめながら、私は胸ポケットのハンカチを服の上から強く握りしめた。冷徹に整えていたはずの私の内面で、激しい怒りが沸騰するのを感じていた。爪が掌に食い込み、指先が白くなるほどに。
なぜ、この気高く優しい少女が、身勝手な愚か者のために心を痛めねばならないのか。
「お嬢様は、何も間違っておられません。どうぞ、ご自身の信じる正道を歩んでくださいませ。雑音を払うのは、私どもの役目でございます」
「ありがとう、ハインリヒ。あなたがそう言ってくれると、本当に心強いわ」
エルゼお嬢様が無邪気に微笑み、再び本に目を落とす。私は恭しく一礼し、ガゼボを後にした。
執務室へ戻るや否や、室内の影から一人の男が音もなく姿を現した。仕立ての地味な服を着た公爵家の裏の諜報員である。
「報告を」
感情を排した私の声に、男が深く頭を垂れる。
「はっ。王太子ルートヴィヒ殿下およびゲルハルト侯爵派閥の動向について確定情報が得られました。殿下は、三日後に行われる学園の卒業記念夜会において、エルゼお嬢様に対し、マリアンネ男爵令嬢へのいじめおよび不敬罪の濡れ衣を着せ、婚約破棄と国外追放処分を公衆の面前で突きつける腹積もりです」
「……確証はあるのか」
「すでに学園の数名の令嬢が、マリアンネ側に買収されております。偽証の準備は完了しており、夜会の進行表にも、殿下の合図で楽団を止め、告発を始める段取りが組み込まれております。背後にいるゲルハルト侯爵は、エルゼお嬢様を排除した直後にマリアンネを殿下の正妃に据え、自派閥で宮廷の要職を独占する肚積もりです」
私はゆっくりと金縁眼鏡を外し、机の上に置いた。
怒りによって乱れていた思考は、すでに研ぎ澄まされた刃のような冷静さへと収束していた。感情で騒ぎ立てるなど下策中の下策。法治と金融経済が確立されたこの王国において、仇敵を最も確実に、再起不能の深淵へ叩き落とす手段を、私は誰よりも熟知している。
私はかつて、王国中央財務省で筆頭財務官を務め、国家予算の編成から巨額の脱税摘発、悪質な貴族派閥の財政解体を主導した男だ。公爵家に仕えてからも、その実務手腕は何一つ錆びついていない。
「……では、清算を始めましょう」
私は静かに机の引き出しを開け、特製の鍵で頑丈な隠し金庫を解錠した。
中から取り出したのは、王太子の私的な借財リスト、ゲルハルト侯爵が関与する投機事業の帳簿写し、そして公爵家が長年蓄積してきた新興貴族連合の資金フローデータである。
「相手方の資産状況、全て洗い出してください。一粒の小麦に至るまで」
「はっ!」
諜報員が影へと消える。
私は巨大な計算用紙を机いっぱいに広げ、羽ペンをインクに浸した。紙の上に、冷徹な数字の網が猛烈な速度で紡ぎ出されていく。
卒業記念夜会まで、あと三日。
「殿下、そしてゲルハルト侯爵。どうぞ盛大な夜会になさってください。それが貴方様の生涯最後の贅沢になりますゆえ」
私の冷ややかな呟きが、深夜の執務室の闇に静かに溶けていった。
翌朝、私は王都の中心街にそびえ立つ重厚な石造りの建築物――王国中央銀行の監査室を訪れていた。
部屋の奥に置かれた重厚なマホガニーの机には、王国中央銀行監査室長であるヨアヒムが、山積みの書類を前に眉根を寄せて座っていた。私と同じくかつて財務省で辣腕を振るい、今や王国の金融監査を一手に担う旧友である。
「やあ、ハインリヒ。公爵家の筆頭家令閣下が、事前の予約もなしに中央銀行の奥座敷に乗り込んでくるとはな。一体どんな天変地異の前触れだ?」
ヨアヒムは眼鏡越しに私を胡散臭そうに見つめながら、煙草を灰皿に押し付けた。
私は無言のまま、鞄から取り出した分厚い革表紙のファイルを机の上に滑らせた。
「世間話をしに来たわけではありません。ヨアヒム、貴方に王国金融の健全化という重大な責務を果たしていただきたく参りました」
「……おいおい、嫌な予感しかしない前置きだな」
ヨアヒムは苦笑しながらファイルを開いたが、三ページ目をめくったところで、その顔から一切の笑みが消え去った。細められた鋭い眼光が、紙面に並ぶ数字を追う。
「……これは、ゲルハルト侯爵が主導している『西方鉱山開発公社』の決算書か? いや、待て。公表されている年次報告書と数字がまるで合わないぞ。中央銀行からの融資残高が三十億マルク、民間からの社債発行が二十億マルク……だが資産の部にある鉱山試掘権の評価額が、実勢価格の十倍以上に水増しされている」
「ええ。完全なる粉飾決算です。彼らは掘っても鉛しか出ない廃鉱を『王国最大の銀鉱脈』と偽り、中央銀行および民間投資家から巨額の資金を詐取していました。そして集めた資金の大半は、鉱山開発ではなく、王太子派閥の若手貴族たちの遊興費や、派閥拡大のための買収工作資金として流用されています」
私はさらに一枚の契約書の写しを突きつけた。
「そして、これが決定打です。シュタウフェン公爵家系列の商業銀行が、半年前にゲルハルト侯爵へ実行した緊急融資十五億マルクの金銭消費貸借契約書。特約事項第三条をごらんください」
ヨアヒムが該当箇所を目で追い、息を呑んだ。
「……『借入人が財務書類に虚偽の記載を行った場合、または重大な信用失墜行為があった場合、貸付人は何らの通知催告を要せず、期限の利益を喪失させ、全額の即時一括償還を請求できるものとする』」
「その通りです。本日付で、公爵家系列銀行はこの即時償還権を行使いたしました。当然、侯爵に即座に返済できる手元資金など存在しません。これにより、侯爵家は債務不履行に陥ります」
「ハインリヒ、お前……」
ヨアヒムは額を押さえ、深いため息をついた。
「公爵家の融資が焦げ付けば、連鎖反応で中央銀行の融資も即座にデフォルト条項に引っかかる。俺たち監査室は、法律上、侯爵家の関連口座を即座に全面凍結し、一斉監査に入らざるを得なくなるぞ」
「ええ、それを求めているのです。法と規則に従い、公正な職務を全うしてください」
「お前がその顔をするときは、国が一つ傾くときだ。昔から少しも変わっちゃいないな」
ヨアヒムは呆れたように首を振ったが、その瞳にはかつて共に悪徳貴族を追い詰めた頃の獰猛な光が宿っていた。
「手加減してやれよ、と言いたいところだが……相手が相手だ。王太子の取り巻きどもが、近頃の市場でどれだけ無茶な投機をやらかして経済を歪めていたか、俺たちも頭を抱えていたところさ。わかった、令状の申請は俺が直接法務院の最高責任者へ持ち込む。明日の夕刻までには、全資産の仮差押命令を確定させてみせる」
「感謝します、ヨアヒム。貴方の迅速な仕事には、いつも敬意を抱いております」
「お前の頼みじゃなきゃ動かんよ。……だが、王太子の私財にまで手を突っ込む気か? いくらなんでも王族の特権があるぞ」
「王族といえども、民間の商業契約と手形法の下では一人の債務者に過ぎません。法を無視した特権など、この近代国家には存在しないはずです」
私の冷徹な返答に、ヨアヒムは降参したように両手を挙げた。
中央銀行を後にした私は、王都の商業地区の外れ、石畳の路地にひっそりと佇む高級宝飾店『ノイマン商会』の裏口へと足を運んだ。
応接室で私を迎えたのは、濃紺のシックなドレスを纏った店主のギーゼラ・ノイマンであった。三十代半ばの端整な顔立ちには、しかし隠しようもない疲労と憔悴の色が濃く刻まれていた。
「シュタウフェン公爵家の家令様が、私のような小さな商会の店主にどのようなご用件でしょうか……? もしや、以前ご注文いただいたエルゼ様のティアラの件でしたら、すでに納品は完了しておりますが」
ギーゼラは震える指先を膝の上で組み、不安そうに私を見上げた。
「いいえ、ノイマン代表。本日は公爵家の注文ではなく、貴店の経営危機についてご相談に伺いました」
私の言葉に、ギーゼラは弾かれたように顔を強張らせた。
「な、ぜ……それを」
「新興男爵令嬢のマリアンネ様が、ここ数ヶ月にわたり貴店で買い漁った宝飾品の数々。総額にして金貨三千枚にのぼる売掛金が、未だ一文も支払われておりませんね。期日はすでに二週間を過ぎている」
私は淡々と事実を羅列した。
「マリアンネ様は『王太子の婚約者となる身であるから、代金は後日王室から支払われる』と吹聴し、貴店に支払いを猶予させている。だが、王室会計監査部にそのような請求書は届いていません。そして今週末には、貴店が仕入れ先へ支払うべき手形の期日が迫っている。このままでは、ノイマン商会は不渡りを出して倒産する」
ギーゼラは青ざめ、唇を噛み締めた。その瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「……おっしゃる通りです。職人たちが血と汗を流して作った最高の宝石を、あの女は『未来の王妃への献上物として光栄に思いなさい』と笑って持ち去っていきました。殿下に直訴しようとしても側近官吏に追い払われ、衛兵隊に訴えても『貴族間の商取引には民事不介入だ』と取り合ってもらえない……。もう、私にはどうすることもできません。先祖代々受け継いできた店が、私の代で潰れてしまう……!」
絶望に打ちひしがれ、肩を震わせるギーゼラに対し、私は一枚の証書を差し出した。
「ご安心ください、ノイマン代表。シュタウフェン公爵家が、その金貨三千枚の売掛債権を、満額で買い取らせていただきます」
ギーゼラは顔を上げ、信じられないものを見るように目を見開いた。
「え……? ぜ、全額を満額で……? ですが、回収できる見込みのない不良債権ですよ!? 公爵家に何の利益があるのですか!?」
「利益はあります。私どもにとっては、非常に価値のある債権です」
私は穏やかに、しかし絶対的な確信を込めて告げた。
「代金は今すぐ、中央銀行振出の確実な小切手でお支払いいたします。これで貴店の資金繰りは完全に解決し、手形も無事に決済されます。職人たちの給与も、何一つ滞ることはありません」
ギーゼラは手渡された小切手の金額面を凝視し、震える手で胸を押さえた。
「あ、ありがとうございます……! 神様、本当に……なんとお礼を申し上げればよいか……!」
「礼には及びません。ただし、一つだけ条件がございます」
私は立ち上がり、ギーゼラの目をまっすぐに見据えた。
「明後日の夜、王立学園で開催される卒業記念夜会へお越しいただきたい。そして、公爵家の法廷代理人として、マリアンネ男爵令嬢および王太子殿下が重ねてきた不法行為と未払い詐欺の事実を、貴族たちの前で堂々と証言していただきたいのです」
ギーゼラの表情が一瞬強張ったが、すぐにその瞳に商人としての誇りと、搾取されてきた怒りの炎が宿った。
「……お引き受けいたします、ハインリヒ様。職人の魂を侮辱し、泥棒同然に宝飾品を奪い去ったあの者たちを、私は決して許しません。店主の誇りにかけて、真実をすべて白日の下に晒してみせます」
「頼もしいお返事です。貴女の勇気ある証言は、必ずや報われます」
私は深く一礼し、商会を後にした。二つ目の罠は、完璧に仕掛けられた。
残る懸案は、マリアンネ側がエルゼお嬢様を陥れるために用意した『偽証者』の処理であった。
王都の下町にあるゼルプ子爵邸の応接間。粗末な家具が並ぶ薄暗い部屋で、一人の少女が私の前に座り、怯えたように身体を縮こまらせていた。
カタリーナ・フォン・ゼルプ。エルゼお嬢様と同じ学年であり、派手な社交界に憧れながらも、生家の困窮ゆえに周囲から浮いていた令嬢である。
「な、何の用ですか……? 公爵家の家令が、私のような者に……」
「単刀直入に申し上げます、カタリーナ様」
私は机の上に、一束の書類を置いた。
「貴女の父親であるゼルプ子爵が、王都の闇金融業者から借り入れている不正融資の借用証です。利息を含め、総額は金貨八百枚。……そしてもう一枚は、王国司法省に提出準備中の、偽証教唆加担および名誉毀損罪の告発状です」
カタリーナの息が止まった。顔から完全に血の気が引いていく。
「ど、どうして……それを……」
「マリアンネ男爵令嬢から、金貨百枚の報酬と『将来の宮廷女官のポスト』を提示され、夜会で『エルゼ様がマリアンネ様を階段から突き落とすのを見た』と嘘の証言をする約束を交わしましたね?」
「っ……!」
「ゼルプ家が困窮している事情は存じております。ですが、無実の公爵令嬢を貶める偽証に加担すれば、貴女は一時の金を得る代わりに、貴族籍の剥奪と重労働刑を科されることになります。そして、マリアンネ様や王太子殿下が、事が露見した際に貴女を庇うとお考えですか? 真っ先にすべての罪を着せられ、切り捨てられるのは貴女です」
私の淡々とした、しかし逃れようのない現実の宣告に、カタリーナは両手で顔を覆い、ボロボロと涙をこぼした。
「わ、私だって、そんなことしたくなかった……! でも、父の借金がもう首が回らなくて、このままじゃ家が取り潰されて、私は売春宿に売られるところだったの! マリアンネ様に従うしかなかったのよ……!」
「選択肢はまだ残されています」
私は借用証を指先で叩いた。
「この借用証は、すでに公爵家が業者から正規に買い取りました。つまり、現在の債権者は公爵家です。貴女が真実を語り、司法の場と夜会においてマリアンネ側の不正工作を告発するならば、この借入金は公爵家の慈善事業基金より全額帳消しとし、さらにゼルプ家の再建を支援することをお約束いたします」
カタリーナは信じられない思いで顔を上げた。
「ほ、本当……ですか? エルゼ様を裏切ろうとした私を、助けてくださるのですか……?」
「エルゼお嬢様は、貴女が学園で孤立していた際、いつも気にかけておられました。お嬢様の慈悲深さを、これ以上踏みにじらないでいただきたい。罪を償い、真実を述べる勇気をお持ちですか」
「言います! すべてお話しします……! マリアンネ様から渡された指示書も、手付金の金貨も、全部持っています! どうか、私をお助けください……!」
カタリーナはその場に泣き崩れ、私の足元にすがりついた。
私は静かに書類をまとめ、胸ポケットのハンカチをそっと押さえた。
すべての外堀は埋まった。
法務、金融、証拠、そして証人。愚かな企みを粉砕するための歯車は、完全に噛み合ったのだ。
そして迎えた、卒業記念夜会の当日。
王立学園の大広間は、煌びやかなシャンデリアの光と、着飾った貴族子弟たちの嬌声に満ちていた。壁際には豪勢な料理が並び、楽団が軽快なワルツを奏でている。
大広間の巨大な扉が左右に開かれた。
「シュタウフェン公爵令嬢、エルゼ・フォン・シュタウフェン閣下、ご入場!」
衛兵の名乗りとともに、エルゼお嬢様が一歩を踏み出した。
その瞬間、ざわめいていた広間が水を打ったように静まり返った。
お嬢様が纏っていたのは、夜空の深い青を湛えた最高級シルクのドレス。胸元には公爵家に代々伝わるサファイアの首飾りが輝き、蜂蜜色の豊かな髪は完璧に結い上げられている。派手さを排しながらも、圧倒的な気品と高貴さを放つその佇まいは、まさに王国随一の名門公爵家の至宝にふさわしいものであった。
私は筆頭家令として、燕尾服に身を包み、お嬢様の斜め後ろに完璧な歩幅で付き従っていた。
「……まあ、なんて美しいのかしら」
「さすがはエルゼ様だ。将来の王妃としての威厳に満ちている」
周囲の貴族たちから感嘆の囁きが漏れる中、広間の上段、一段高いテラス席から、不愉快そうに舌打ちをする男の姿があった。
王太子ルートヴィヒである。
白と金を基調とした華美な礼服を纏ったルートヴィヒは、その腕にピンク色の過剰なフリルとけばけばしい宝石で身を飾ったマリアンネ男爵令嬢を抱き寄せるようにして立っていた。
マリアンネはエルゼお嬢様を忌々しそうに睨みつけ、王太子の耳元で何事かを囁いた。ルートヴィヒの顔に、傲慢で卑屈な笑みが浮かぶ。
ルートヴィヒがワイングラスを手に取り、壇上の中央へと進み出た。
「楽団、演奏を止めよ!」
太い声が大広間に響き渡り、音楽がピタリと止まった。貴族たちが怪訝な顔を見合わせる中、ルートヴィヒはエルゼお嬢様を指差した。
「学園の卒業という輝かしい門出にあたり、私は未来の国父として、看過できぬ重大な不正を糾弾せねばならぬ! エルゼ・フォン・シュタウフェン! 前へ出よ!」
エルゼお嬢様は眉一つ動かさず、静雅な所作で壇の前へと歩み出た。
「お呼びでしょうか、ルートヴィヒ殿下」
「とぼけるな! 貴様のその冷酷で傲慢な本性は、すでに完全に暴かれているのだ!」
ルートヴィヒはマリアンネの肩を抱き寄せ、これ見よがしに庇う姿勢を取った。
「貴様は、心優しきマリアンネに対し、身分の低さを嘲笑い、学園内で執拗な嫌がらせを行ってきた! 教科書を破り、ドレスにインクをぶちまけ、あまつさえ階段から突き落として大怪我を負わせようとしたな! このような嫉妬深く残虐な悪女を、我が王国の王妃として迎えることなど断じてできん!」
広間が騒然となった。
「まさか、あのエルゼ様が……?」
「いや、信じられん。だが殿下が直々に仰るのだから……」
マリアンネはハンカチを目元に当て、か弱い獲物の真似をして震えてみせた。
「エルゼ様……どうしてそんな嘘をつくのですか? 私はただ、殿下をお支えしたかっただけなのに……! 貴女に階段で突き落とされた時の恐怖、今でも夢に見るのです……!」
マリアンネのわざとらしい涙に、取り巻きの新興貴族たちが口々に罵声を上げ始める。壇上の脇に控えていたゲルハルト侯爵が、勝ち誇った笑みを浮かべて前に進み出た。
「殿下の仰る通りである! 我が派閥の貴族たちも、エルゼ令嬢の数々の暴虐を目撃している! 公爵家の権力を笠に着たこのような暴挙、到底許されるものではない!」
ルートヴィヒは腰の儀礼剣の柄に手をかけ、大広間中に響き渡る声で宣告した。
「よって、私はエルゼ・フォン・シュタウフェンとの婚約を破棄する! さらに、その悪逆非道な罪を償わせるため、貴様を平民へ落とし、北方の極寒の地へ永久国外追放とする! 我が真の伴侶は、この清らかで慈愛に満ちたマリアンネただ一人だ!」
勝利を確信したマリアンネが、エルゼお嬢様に向けて侮蔑と嘲笑に満ちた視線を投げかけた。
だが、エルゼお嬢様は取り乱すことも、涙を流すこともなかった。ただ凛とした姿勢を保ち、静かに口を開いた。
「身に覚えのない言いがかりにございます、殿下。私はマリアンネ男爵令嬢に嫌がらせをしたことなど一度もございません」
「往生際の悪い女め! 証拠も証人も揃っているのだ!」
ルートヴィヒが手を叩いた。
「おい、カタリーナ! 前へ出て、貴様が見た真実を語れ! この悪女がマリアンネを突き落とした現場を、貴様ははっきりと見たはずだな!」
群衆の中から、震える足取りでカタリーナ・フォン・ゼルプが進み出てきた。
マリアンネは満足げに頷き、カタリーナに合図を送る。さあ、あの女を地獄へ突き落としなさい、と言わんばかりに。
私は一歩前に進み出た。
「……カタリーナ様。どうぞ、真実をお話しください」
私の低く通る声を聞いた瞬間、カタリーナはびくりと肩を跳ねさせた。そして、壇上のマリアンネを見上げ、次いでエルゼお嬢様の澄んだ瞳を見ると、その場にばたりと両膝をついて泣き崩れた。
「ごめんなさい……! ごめんなさい、エルゼ様……!」
広間に、カタリーナの悲痛な叫びが響き渡った。
「おい、カタリーナ!? 何を言っている、台本通りに喋れ!」
ルートヴィヒが怒鳴りつけるが、カタリーナは止まらなかった。懐から震える手で分厚い封筒を取り出し、高く掲げた。
「すべて嘘です! エルゼ様は誰も突き落としてなどいません! 私は……私はマリアンネ様に脅され、買収されたのです! 金貨百枚の手付金と、この指示書を渡されて、夜会でエルゼ様を悪女に仕立て上げる偽証をするように命じられました! これが、マリアンネ様直筆の指示書と手付金の袋です!」
「な、何を言っているの貴女!? 頭がおかしくなったんじゃないの!?」
マリアンネが金切り声を上げ、顔を紅潮させて叫んだ。
「殿下、違います! この女は公爵家に買収されたのです! 私の書いたものじゃありません!」
広間が騒然とする中、私は静かに拍手を一つ打った。
「筆跡鑑定ならば、すでに王国司法省の公認鑑定人によって完了しております。間違いなくマリアンネ男爵令嬢の自筆であるとの証明書が、ここにございます」
私が懐から取り出した鑑定書を掲げると、貴族たちからどよめきが上がった。
「な……貴様、ただの執事風情が生意気な真似を!」
ルートヴィヒが顔を真っ赤にして私を睨みつける。私は冷徹な視線を崩さず、静かに続けた。
「偽証の件だけではございません。マリアンネ様、貴女のこれまでの行状についても、ご清算いただく時が参りました」
大広間の扉が再び開き、凛とした足取りで一人の女性が入ってきた。濃紺のドレスを纏い、威厳に満ちた態度で歩むその姿に、マリアンネの顔から急速に血の気が引いていった。
「ノ、ノイマン商会の……!?」
「ご紹介いたしましょう。王都随一の高級宝飾店、ノイマン商会代表のギーゼラ・ノイマン殿です」
ギーゼラは壇の前まで進み出ると、ルートヴィヒとマリアンネを鋭い眼光で射抜いた。
「マリアンネ男爵令嬢。貴女が現在身につけておられるそのルビーのティアラ、ダイヤのネックレス、サファイアのブレスレット……総額にして金貨三千枚にのぼる品々ですが、代金の支払期日を二週間過ぎても、未だ一文も支払われておりません」
ギーゼラは懐から、マリアンネの署名が記された売掛金の納品伝票の束を取り出した。
「貴女は『王室の予算から支払われる』と嘘をつき、当店から宝飾品を騙し取りました。これは明白な詐欺行為です。さらに調査の結果、貴女が購入したとされる他の高級ドレスや調度品、総額金貨一万枚以上が、すべて同様の手口による未払いであることが判明しております!」
「ぎ、偽造よ! そんな紙切れ、何の証拠にもならないわ!」
マリアンネが必死に叫ぶが、ギーゼラは冷ややかに微笑んだ。
「偽造ではありません。そして、その未払い債権はすべて――こちらにおられるシュタウフェン公爵家へ、正規の手続きを経て満額で譲渡されました。現在の債権者は、公爵家でございます」
「な……んだと……!?」
ルートヴィヒが目を見張り、後退った。
「おい、ゲルハルト! どういうことだ!? 貴様がマリアンネの買い物はすべてうまく処理していると言ったのではないのか!?」
矛先を向けられたゲルハルト侯爵は、冷や汗を流しながら激昂した。
「ええい、黙れ下賤な商人め! たかが一万枚や二万枚の金、明日にも我が侯爵家が一括で支払ってやるわ! 殿下の門出を愚弄する不敬者どもめ、近衛兵! この商人たちと無礼な家令を今すぐ捕縛しろ!」
侯爵の怒声が広間に木霊した。
しかし、近衛兵たちは誰一人として動かなかった。広間の入り口から、重々しい足音が響いてきたからである。
完全武装した王国法務院の司法執行官たちが、十数名、整然と隊列を組んで突入してきたのだ。その先頭に立つのは、黒い法服に身を包み、鋭い銀縁眼鏡を光らせた男――王国中央銀行監査室長、ヨアヒムであった。
「法務院令状の執行である! 全員、動くな!」
ヨアヒムの威厳に満ちた一喝が、大広間の空気を完全に凍りつかせた。
ゲルハルト侯爵は目を剥いた。
「ヨ、ヨアヒム監査室長!? 貴様、ここは王族主催の神聖な夜会だぞ! 法廷執行官を率いて乱入するなど、何の真似だ!」
ヨアヒムは無表情のまま、羊皮紙の令状を掲げた。
「王国最高法務院および中央銀行総裁の連名による、緊急強制執行令状だ。ゲルハルト侯爵、貴殿が主導する西方鉱山開発公社の巨額粉飾決算および背任横領の容疑、ならびにシュタウフェン公爵家系列銀行に対する十五億マルクの債務不履行により、侯爵家の破産手続開始が決定された」
「は……破産だと……!? 何を馬鹿な! 我が侯爵家が破産などするはずが――」
「すでに昨日の夕刻をもって、侯爵家の全銀行口座は凍結、領地からの収益権、邸宅、美術品に至るまで、すべての資産に対する仮差押命令が発効している。貴殿の手元には、一マルクたりとも自由にできる金は残されていない」
ヨアヒムの冷酷な事務的宣告に、ゲルハルト侯爵は膝から崩れ落ちた。
「そ、そんな……我が家の資産が、全て……? 嘘だ、何かの間違いだ……!」
「間違いではない」
私はゲルハルト侯爵を見下ろし、冷淡に告げた。
「貴殿が粉飾で膨らませていた虚構の砂城は、公爵家が有する優先債権の即時償還条項を行使した瞬間に崩壊いたしました。契約書の特約条項をろくに確認もせず、甘い資金繰りに溺れた貴殿の自業自得にございます」
「き、貴様……貴様が仕組んだのか、あの事務屋めがああああっ!」
ゲルハルト侯爵が獣のような叫びを上げて私に掴みかかろうとしたが、即座に両脇を固めた執行官たちによって床に取り押さえられた。
「離せ! 私は侯爵だぞ! 殿下、ルートヴィヒ殿下、お助けください!」
だが、縋り付かれたルートヴィヒ自身も、すでに恐怖で歯の根が合わなくなっていた。青ざめた唇を震わせ、後ずさる。
「ま、待て……私は王太子だぞ! 私には不逮捕特権がある! 王族の私財を差し押さえることなど、法的に許されるはずがない!」
「いいえ、許されます」
私は鞄から、最後の一枚の書類を取り出した。
「ルートヴィヒ殿下。貴方様が学園の行事費と称して公爵家にツケ回してきた遊興費、ならびにゲルハルト侯爵の鉱山事業に際して差し入れた『個人連帯保証契約書』でございます」
「な……連帯、保証……?」
「ええ。殿下は侯爵から甘言を弄され、裏付けも確認せぬまま、多額の手当を受け取る見返りとして、この連帯保証状に署名捺印なさいました。法的に、殿下は侯爵と同等の無限責任を負う債務者です。そして王国法第三十二条に基づき、私的な商取引における債務不履行に関しては、王族特権の適用は除外されます」
私は淡々と、しかし広間中の全員に聞こえる明瞭な声で読み上げた。
「殿下の個人口座の全額凍結、王太子宮に下賜されていた個人予算の差し押さえ、ならびに殿下が所有される離宮、競走馬、高級馬車を含む私財の一括競売処分が、すでに決定しております」
「わ、私の財産が……全て差し押さえだと……!? ふ、ふざけるな! そんなもの無効だ! 父上……国王陛下に申し上げて、貴様らを全員処刑してやる!」
狂乱するルートヴィヒの言葉を遮るように、広間の奥から威厳に満ちた声が響いた。
「その見苦しい喚き声を直ちに止めよ、ルートヴィヒ!」
群衆が左右に割れ、そこへ現れたのは、近衛兵団を従えた王国宰相であった。その手には、国王の親筆署名が刻まれた勅書が握られていた。
「さ、宰相閣下……!」
「ルートヴィヒ。貴様の放漫な乱行、国家財政を揺るがす背任行為、そして無実の公爵令嬢を貶めようとした悪逆非道、すべて国王陛下の知るところとなった。陛下は深く恥じ入っておられる」
宰相は冷徹な眼差しで、勅書を広げた。
「国王陛下の名において勅命を下す! ルートヴィヒを直ちに王太子から廃嫡とし、王籍を剥奪の上、北方の離宮にて生涯幽閉に処す! また、偽証を教唆し国家を欺こうとしたマリアンネ男爵令嬢は、貴族籍を剥奪の上、王国鉱山における終身強制労働刑に処す! ゲルハルト侯爵家は取り潰し、派閥に加担した貴族官吏は全員罷免、財産を没収の上で司法の裁定に委ねるものとする!」
「い、嫌……!? 嫌、嫌よおおおおっ! 鉱山なんて嫌! 私は王妃になるのよおおおっ!」
マリアンネは髪を振り乱して絶叫したが、執行官たちの手によって容赦なく手錠をかけられ、引きずられていった。
「父上! 父上、お許しください! 私は騙されていたのです! ゲルハルトに、マリアンネに騙されていたのだああああっ!」
ルートヴィヒもまた無様に涙と鼻水を垂らし、床を這いずりながら慈悲を乞うたが、近衛兵たちによって抱え上げられ、広間から引きずり出されていった。
そのみっともない姿に、先ほどまで彼らを囃し立てていた取り巻きの貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように青ざめて顔を背けた。
嵐のような断罪劇が去り、大広間には深い沈黙が残された。
すべての負債は適正に清算され、悪徳派閥は合法的に完全解体された。公爵家の威光と正義は、一滴の血を流すこともなく、ただ厳格なる法と帳簿の数字によって完全に守り抜かれたのだ。
宰相がエルゼお嬢様の前へと歩み寄り、深々と頭を下げた。
「エルゼ嬢。我が王家の至らぬ者が、貴女に多大なる無礼と苦痛を強いたこと、心よりお詫び申し上げる。貴女の高潔さと聡明さに、王国は救われた」
エルゼお嬢様は、完璧な淑女の礼をもって静かに応じた。
「もったいないお言葉でございます、宰相閣下。真実が明らかとなり、法と正義が守られたこと、何より喜ばしく存じます」
広間中から、割れんばかりの拍手と称賛の嵐が巻き起こった。エルゼお嬢様の毅然とした気品は、集まった全貴族の心を完全に捉えていた。
拍手の中、お嬢様が振り返り、私を見つめた。
その瞳に微かな涙が浮かんでいるのを、私だけが見届けていた。
私は静かに進み出て、お嬢様の前に跪き、その白く美しい手を取った。
「……お嬢様。全て終わりました。お帰りになりましょう」
「ええ、帰りましょう、ハインリヒ。私たちの家へ」
私は立ち上がり、完璧な一礼をもってエルゼお嬢様をエスコートし、喝采に包まれる大広間を堂々と後にした。
◆ーーーー◆
翌朝。
公爵邸のテラスには、柔らかな朝の光が降り注ぎ、清々しい風が庭園の薔薇の香りを運んでいた。
テーブルには焼きたてのブリオッシュと果物が並び、エルゼお嬢様がゆったりとした白い部屋着を纏って椅子に腰掛けていた。昨夜までの重圧から完全に解放されたその表情は、どこまでも晴れやかで、瑞々しい輝きに満ちている。
「おはようございます、エルゼお嬢様」
「おはよう、ハインリヒ」
私は銀のトレイからティーポットを持ち上げ、白磁のカップへ黄金色の紅茶を静かに注ぎ入れた。立ち上る湯気が、朝の光に透けて微かに揺れる。
「昨夜の騒動が、まるで嘘のように静かな朝ね」
エルゼお嬢様はカップを手に取り、ふう、と息を吹きかけてから、一口味わった。
「美味しいわ。……本当に、心が落ち着く」
「お口に合って光栄でございます」
「中央銀行のヨアヒム様から、今朝早くにお手紙が届いたわ。『君のところの執事は、相変わらず手加減を知らない悪魔のような能吏だ。だが、おかげで王国の膿が綺麗さっぱり一掃された。よろしく伝えてくれ』って」
エルゼお嬢様は悪戯っぽく微笑み、私を見上げた。
「ハインリヒ。あなた、私のためにどれだけ無茶をしたの?」
「無茶など、滅相もございません」
私は金縁眼鏡の位置を指先で直しながら、至って真面目な顔で答えた。
「私はただ、公爵家の筆頭家令として、帳簿の数字をあるべき形に整え、正当な債権を回収しただけに過ぎません。不透明な支出を正し、契約を厳格に履行させるのは、事務屋の日常の業務でございます」
「ふふっ、事務屋ですって。国家を揺るがす大派閥を三日で解体しておいて、日常業務だなんて言うのは、世界中であなただけよ」
お嬢様は楽しそうに声を立てて笑った。
その屈託のない、幼い頃と変わらない無垢な笑顔を見た瞬間、私の胸の奥深くに広がっていた冷たい緊張が、春の雪解けのように完全に消え去っていくのを感じた。
守り抜いたのだ。
この誇り高き主家の平穏を。そして、何物にも代えがたい、このお嬢様の笑顔を。
私は胸ポケットの内側、あの刺繍入りハンカチが収められている場所にそっと手を当てた。生地越しに伝わる温もりが、私の忠誠を静かに肯定してくれているようだった。
「エルゼお嬢様。これからは、誰に気兼ねすることもなく、お嬢様の望む学問を修め、お嬢様が心から望まれる未来をお選びいただけます」
「ええ。私、もっと勉強したいわ。領地の人々が豊かになれるような経済の仕組みを、あなたから学びたいの。これからも教えてくれる、ハインリヒ?」
「はい。この命が続く限り、謹んでお仕えいたします」
私は深く、完璧な角度で頭を下げた。
風が吹き抜け、庭園の木々がさらさらと心地よい音を立てる。
悪徳と不条理の嵐は過ぎ去り、穏やかで幸福な日常が、再びこの場所から始まろうとしていた。
「本日の紅茶はいかがでしょうか、エルゼお嬢様」
「ええ、最高よ。ハインリヒの淹れてくれたお茶が、世界で一番美味しいわ」
晴れ渡る青空の下、主従の温かな絆を確かめ合うように、穏やかな朝の時間がゆっくりと流れていった。




