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世界の綻び

08:誰の顔

作者: コトリ
掲載日:2026/10/12

鏡を見るのは、嫌いではなかった。

顔立ちが整っていると言われることは、昔から何度かあった。モデルの仕事を始めてからは、容姿を褒められることも増えた。

けれど、特別、自分の顔にこだわりがあったわけではない。

目がもう少し大きければいいな、と思ったことくらいはある。鼻筋が通った人を見て、綺麗だなと感じることもあった。

それでも、自分の顔が嫌いだったわけではなかった。

撮影の合間に鏡を見て、今日のメイクはいい感じだと思えば、それで満足だった。

私が初めて整形を考えたのは、ドラマの出演が決まったときだった。

与えられたのは、主人公の友人役だった。明るく華やかで、少し気の強い女性。衣装合わせのあと、メイク担当の女性が私の顔を見ながら言った。

「もう少し目元がはっきりすると、役のイメージに合いそうですね」

その話を、同じ事務所の玲奈にすると、彼女はあっさり答えた。

「それなら、二重にしてみたら?」

玲奈は、私と同じ頃に芸能界へ入った女優だった。年齢も近く、仕事の悩みを相談し合うことも多かった。

「私の知ってるクリニックなら、そんなに大げさじゃないよ。プチ整形っていうの? 周りでもやってる子、結構いるし」

「でも、手術でしょ?」

「二重なら、メスを入れなくてもできる方法があるし。ちょっと変えるだけなんだから、そんなに怖がらなくても大丈夫だよ」

玲奈は、軽いことのように笑って言った。

私は少し迷ったけれど、役に合うなら試してみてもいいかもしれないと思った。

紹介されたクリニックは、思っていたより古びていた。

待合室の椅子には細かな傷があり、受付には誰もいない。診察室に通されると、医師は机の上の書類をめくりながら、私の顔をちらりと見た。

「二重にしたいんですか。ああ、できますよ。そんなに難しいことではありません」

説明は、拍子抜けするほど簡単だった。

私がいくつか質問をしても、医師は「大丈夫、大丈夫」と繰り返すばかり。少し不安になり、帰り道に玲奈へ電話をかけた。

「ねえ、本当にあの先生で大丈夫なの?」

「えー、見た目はちょっと怪しいよね」

玲奈は声を立てて笑った。

「でも、本当に腕はいいんだよ。私も綺麗にしてもらったし。心配しなくて大丈夫!」

私は、そう言われると安心した。

仲のいい玲奈が勧めてくれたのだ。きっと大丈夫だろう。

結局、私は施術を受けることにした。

仕上がりは、期待していた以上だった。

目元が少し華やかになり、以前より表情が明るく見える。撮影現場でも好評で、監督からも「役にぴったりだね」と褒められた。

その夜、私は何度も鏡を見た。

確かに、以前とは違う。

でも、違和感はなかった。むしろ、これまでの自分の顔に、ちょうどいい変化が加わったように思えた。

「やってよかった」

私は、鏡の中の自分に笑いかけた。

その頃、私は初めての恋人ができたばかりだった。

彼は、私が仕事で忙しくても、時間を見つけて会いに来てくれた。食事をして、映画を見て、帰り道に手をつなぐ。そんな何でもないことが、毎日楽しかった。

彼からメッセージが届くだけで嬉しかったし、次に会える日を指折り数えることもあった。

自分でも、少し浮かれすぎていると思うくらいだった。

ある日、彼の部屋で一緒にテレビを見ていると、整った顔立ちの女優が画面に映った。

彼は何気なく言った。

「こういう鼻筋、いいよな。高くてすっとしてて」

私は、画面の女優を見た。

「そう?」

「うん。綺麗じゃない?」

彼はそれ以上、何も言わなかった。私の顔と比べたわけでも、整形してほしいと言ったわけでもなかった。

けれど、私はその言葉を覚えていた。

数日後、彼と写真を撮ったとき、画面に映った自分の横顔が気になった。

鼻がもう少し高かったら、彼の好きな顔に近づけるのだろうか。

そう考え始めると、確かめずにはいられなかった。

玲奈に紹介してもらったクリニックなら、相談もしやすい。

私は、もう一度そこへ行くことにした。

医師は、鼻筋を整えたいという私の希望を聞き、簡単にうなずいた。

「できますよ。少し変えるだけでも、顔の印象は違ってきますから」

私は、彼に喜んでもらいたかった。

自分のためでもあったけれど、大好きな彼の好みに少しでも近づきたかった。

「じゃあ、お願いします」

施術後、腫れが落ち着くと、鼻筋は以前より通って見えた。

彼に会う日、私は何度も鏡を確認した。

気づいてくれるだろうか。綺麗になったと思ってくれるだろうか。

彼は私を見ると、少し驚いたように目を細めた。

「なんか、雰囲気変わった?」

「分かる?」

「うん。いいんじゃない? 前より大人っぽくなった気がする」

その一言だけで、胸がいっぱいになった。

私は彼の腕に抱きついた。

「本当? よかった!」

彼は笑い、私の頭を軽く撫でた。

その夜、私は幸せだった。

彼の好きな顔に近づけた。自分でも気に入っている。仕事の評判もいい。

少し変えるだけで、こんなにも嬉しいことが増えるのなら。

もっと綺麗になれるのなら。

そう思うようになっていった。

整形をしてから、私は周囲から顔を褒められる機会が増えた。

仕事帰りに立ち寄ったカフェでは、若い女性に声をかけられた。

「あの、もしかして紗季さんですか?」

顔を上げると、女性が二人、少し緊張した様子で立っていた。

「いつもドラマを見ています。本当に綺麗ですね。実際に会うと、テレビで見るよりずっと素敵!」

私は笑顔でお礼を言った。

店を出たあとも、すれ違った人たちが振り返るのが分かった。

「今の人、紗季じゃない?」

「やっぱり綺麗だね」

聞こえていないふりをしたけれど、頬が緩むのを抑えられなかった。

帰宅してから、自分の名前を検索してみた。

その日の写真が、いくつも投稿されていた。

〈今日の紗季、ビジュアル最高!〉

〈最近ますます綺麗になったよね〉

〈今の顔、すごく好き〉

画面をスクロールするたび、似たような言葉が目に入る。

私は、スマートフォンを持ったまま鏡の前に立った。

少し顔を傾けてみる。目元も、鼻筋も、以前より整って見えた。

悪くない。

いや、むしろ、今の自分が好きだった。

自分の選択は間違っていなかったのだ。

もっと綺麗になれば、もっと多くの人に認めてもらえる。

そう思っていた。

その後も、私は顔の細かな部分を整えていった。

仕事は順調だった。以前は、美しいヒロインや、主人公に好意を寄せられる女性など、容姿の華やかさを求められる役が多かった。

けれど、いつの頃からか、少し癖の強い女性や、周囲を振り回す人物、どこか浮世離れした女性など、これまでとは違う役も任されるようになった。

私は、それを喜んだ。

ようやく、見た目だけではなく、女優としての自分を評価してもらえるようになったのだと思った。

ある日、マネージャーとの打ち合わせで、次の出演作について話していたときのことだった。

「最近は、いろいろな役が来るようになったね」

マネージャーは資料に目を落としたまま言った。

「前とはまた違った雰囲気の役も多いし、今の紗季だからできる役もあると思うよ」

「そうかな?」

私は笑った。

「私も、そう思ってた。もっといろいろな役に挑戦してみたいし」

「うん。そういう方向で、考えていこうか」

マネージャーは、それ以上何も言わなかった。

私は、新しい役を任せてもらえることが嬉しかった。

綺麗なだけの女優ではなく、演技の幅がある女優になっていく。そう考えると、これまでの整形も、自分を成長させるために必要なことだったように思えた。

けれど、世間の反応は、少しずつ変わり始めていた。

最初は、ほんの些細な書き込みだった。

〈デビュー当時の方が綺麗だったんじゃない?〉

私は、指を止めた。

え? そうなの?

今の自分だって、十分に綺麗なはずだ。

そう思いながら、別の投稿を開いた。

〈前の顔の方が自然だった気がする〉

〈最近、ちょっと変わりすぎじゃない?〉

〈前の紗季の方が好きだったな〉

それでも、今の顔が好きだと言ってくれる人はいた。新しい役を楽しみにしているという声もあった。

私は、悪い評価ばかりを気にする必要はないと思った。

仕事はある。新しい役ももらえている。実際に会った人からは、今でも綺麗だと言われるのだから。

だから、顔を変えることをやめなかった。

しかし、しばらくすると、コメントの内容が変わってきた。

〈デビュー当時の方が絶対に綺麗だった〉

〈昔の顔には、もっと魅力があったのに〉

〈どうして、あんなに変えてしまったんだろう〉

私は何度も読み返した。

最初は、そんなことはないと思っていた。

けれど、ある日、昔の出演作を見返してみた。

画面の中には、デビューしたばかりの自分がいた。

その顔を見たとき、ふと気づいた。

あの頃、自分は今ほど顔のことを気にしていなかった。

自分の顔が好きだった。

誰かに褒められるためでも、理想の誰かに近づくためでもなく、ただ自分の顔として、自然に受け入れていた。

もちろん、あの頃だって悩みはあった。

でも、少なくとも、毎日鏡の前でどこを変えるべきか考え続けてはいなかった。

私は、昔の自分の写真を探し始めた。

ところが、思ったよりも写真が残っていなかった。

スマートフォンを買い替えるたびに古いデータを整理していたし、整形をしてからは、以前の顔をわざわざ見返すこともなくなっていた。

雑誌やネットに残っている写真を探しても、角度も、メイクも、表情も違う。

どれが本当の自分なのか、分からなかった。

それでも、私は決意した。

もう一度、あの頃の顔に戻ろう。

そのときの私は、まだ信じていた。

自分の顔は、正しい手順を踏めば、元に戻せるのだと。

私は、紹介されたクリニックへ通い続けた。

医師は、いつも変わらない調子で私を迎えた。

「今度は、どこが気になりますか?」

私は、昔の写真を見せながら説明した。

「この頃の顔に戻したいんです。目元も、鼻も、輪郭も。全部、できるだけこの頃の感じに……」

医師は写真をしばらく眺め、曖昧にうなずいた。

「なるほど。まあ、やってみましょう」

その軽い返事に、私は少し不安になった。

けれど、今さら別の医師を探す気にはなれなかった。これまでずっと、ここで施術を受けてきたのだ。私の顔のことも、経過も、一番分かっているはずだった。

そう思いたかった。

修正を重ねるたび、腫れが引くまでに以前より時間がかかるようになった。思い描いていた形にならないこともあった。気になっていた部分を直すと、今度は別の場所が気になる。

医師は、そのたびに新しい修正を提案した。

「こちらを少し調整すれば、バランスがよくなるかもしれませんね」

私は、その言葉を信じた。

けれど、ある日、医師は初めて難しい顔をした。

「以前の状態に完全に戻すというのは、なかなか難しいですよ。手術を繰り返していますからね。ご希望どおりになるとは限りません」

私は、思わず聞き返した。

「でも、戻せますよね?」

「できる限りのことはします」

医師はそう言った。

それ以上、私は何も聞かなかった。

戻さなければならない。

昔の自分に戻れなければ、どうすればいいのか分からなかった。

顔を変えることをやめれば、誰からも綺麗だと言われなくなるかもしれない。

そう考えると、怖かった。

私は、また次の予約を入れた。

その頃、玲奈から連絡が来た。

久しぶりに食事でもしよう、という誘いだった。

私は嬉しかった。以前は仕事の話も恋愛の相談も、何でも玲奈に話していた。最近はお互いに忙しく、会う機会が減っていた。

けれど、約束の日が近づくにつれ、私は少し気が重くなった。

玲奈は、今も綺麗だった。

私が顔を変えているあいだにも、彼女は変わらない自然な美しさを保っているように見えた。

それに比べて、自分はどうだろう。

私は、何も言われないうちから、彼女の顔と自分の顔を比べてしまうようになっていた。

結局、約束は仕事を理由に断った。

玲奈からは、短いメッセージが届いた。

〈そっか。残念! また今度ね〉

その何気ない言葉を見ながら、私はなぜか、少しだけほっとしていた。

私は以前よりも長い時間、自分の顔を見るようになっていた。

少しでも気になるところがあれば、写真と見比べる。光の当たり方を変え、角度を変え、笑った顔も、横顔も確かめる。

でも、何度見ても、どこかが違う気がした。

元の顔に戻すために手術を重ねているはずなのに、昔の自分が遠ざかっていく。

私は、ネットで見つけたデビュー当時の写真を集めた。

ぼやけた画像。雑誌の切り抜き。昔の出演作の一場面。

写真によって顔の印象は少しずつ違っていた。けれど、私はそれらを見比べ、頭の中で理想の顔を組み立てた。

この目元。

この鼻筋。

この輪郭。

きっと、これが本当の自分だった。

そう信じることでしか、もう前に進めなくなっていた。

医師から、これ以上の修正は難しいと言われていた。

それでも、私は最後の手術を受けた。

もう一度だけ。これで、本当に最後にする。

そう決めていた。

手術を終えてから、何日も鏡を見なかった。

顔を覆う包帯を外せる日が来るのを、怖いような、待ち遠しいような気持ちで過ごしていた。

そして、ようやく、その日が来た。

私は鏡の前に立ち、顔を覆っていた包帯をゆっくりと外した。

一枚、また一枚。

すべてを取り除き、顔を上げた。

鏡の中には、懐かしい顔があった。

デビューしたばかりの頃の私。

そう思った。

まだ何も変えていなかった、あの頃の顔。

私は、ゆっくりと自分の頬に手を当てた。

指先で輪郭をなぞり、鼻筋に触れ、目元を確かめる。

何度も探し続けた顔だった。

「……戻った」

声が震えた。

私は鏡に近づき、両手で自分の顔を包み込んだ。何度も頬に触れ、輪郭を確かめる。まるで、少しでも手を離したら、また別の顔に変わってしまうのではないかと思うほどだった。

嬉しかった。

ようやく、自分に戻れた。

もう、誰かの言葉に振り回されなくていい。もう、何を変えればいいのか悩まなくていい。

私は鏡の中の自分に、そっと笑いかけた。

そのとき、医師が思い出したように声をかけた。

「ああ、そういえば。玲奈さんから、これを預かっていましたよ」

差し出されたのは、一通の封筒だった。

「今日、紗季さんに渡してほしいと頼まれていましてね」

私は目を丸くした。

玲奈が、わざわざ?

きっと、手術がうまくいったことを喜んでくれているのだろう。

私は弾む気持ちのまま、封筒を受け取り、封を切った。

中には、一枚の便箋が入っていた。


『紗季へ。

最後の手術を受けるって聞いたよ。

今度こそ、昔の顔に戻れるといいね。

ずっと黙ってたことがあるの。

あのクリニック、私も通ってるって言ったけど、あれは嘘。先生の腕がいいっていうのも嘘。評判がよくないこと、知ってたんだ。

あなたが整形して、また綺麗になったってみんなに褒められてたとき、正直、嫌だった。

同じ仕事をしてるのに、いつもあなたばかり注目されて、隣にいる私は引き立て役みたいだったから。

だから、少しくらい失敗すればいいって思った。あなたが困ればいいって。

でも、あなたはまた綺麗になって、仕事も増えていったね。結局、私の思いどおりにはならなかった。

今さら、こんなことを言っても遅いんだけどね。

今度こそ、昔の顔に戻れるといいね。

玲奈』


最後まで読み終えたとき、手紙を持つ指先が震えていた。

玲奈は、私を騙した。

私が綺麗になるのを、喜んでくれていると思っていた。

その事実が、何よりもショックだった。

あのときの笑顔も、励ましてくれた言葉も、今になって違う意味を持ち始めた。

私は、何も言えなかった。

ようやく昔の顔に戻れたと思ったのに。

これで、また普通に笑えると思ったのに。

信じていた人まで、私を騙していた。

胸の奥が、冷たくなっていく。

私はゆっくりと鏡を見た。

鏡の中の私は、笑っていた。

口元に指を当てて確かめたが、私は笑っていなかった。

それなのに、鏡の中の私だけがゆっくりと口角を吊り上げ、私をあざ笑うような笑みを浮かべた。

次の瞬間、鏡の中の私の頬にピキッと細い亀裂が走り、それは顔全体に広がった。

顔の表面は、これまでの努力を否定するかのように、ぱらぱらと剥がれ始めた。

私が取り戻したと思った、あの頃の顔が失われていく。

それでも、鏡の中の私は、最後まで私を見つめ、笑っていた。

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