ありがとうの水
スピリチュアル界隈では「ありがとう」と唱えると、幸運になったり、病気が治ったりするという。「言霊」と呼ばれているもので、古代の権力者は詩を詠み、平和を祈っていた。
また、一部の実験では「ありがとう」と言い聞かせた水が美味しくなり、「バカ」と罵倒された水は不味くなったとも言われている。はっきりとした科学的根拠はないらしい。
「という事で編集長! ありがとう一万回の波動がこもったミネラルウォーター買ってきました!」
ここは、オカルト雑誌「アトランティス」の編集部。部数は年々落ちていたものの、根強いファンが買い支え、廃刊の危機は逃れていた。
編集部の新人、名取加世も最初はオカルト雑誌に配属になった事に「このガチャ、ハズレ!」と嘆いていたが、今は熱心なファンの声を支えに日々、オカルト、スピリチュアル、都市伝説、陰謀論の取材をしていた。今は編集部内ではありがとうのミネラルウォーターがホットな話題だ。加世もさっそく購入し、編集長に自慢していた。ちなみにミネラルウォーターは一本千円である。
「バカだな。そんなありがとうの水なんてある訳がない」
編集長の藤生郁也は呆れ顔だった。見た目は典型的なサブカル男。スーツが驚くほど似合わない。四十歳だが、名物編集長とし、ネットでもファンが多い。
「編集長、それでもオカルト雑誌の作り手ですか!? 実際、この水で末期の難病だった少女が回復したんですよ! 奇跡だって!」
加世は力説するが、郁也は白けた目。
「こんなものは、ただの水道水だよ。少女の病気が治ったのも偶然。都合よく意味付けしたに過ぎない」
「そ、そんな!」
郁也の冷めた態度にムカムカとし、加世はその少女に取材に行くことに。
とあるカフェで待ち合わせし、インタビューしたが……。
「私、今、ありがとうの水を二千円で販売しているのよ。どう? これを飲んだらニキビも治るし、金持ちにもなるわ」
なぜか水の押し売りもされた。
「貧乏人も病人も結局は努力不足よ。この水飲めば、全部良くなるのにね。私みたいに健康にもなるのに。金持ちにもなれる」
少女の目はカラカラに乾き、隣のテーブルにいる車椅子の客をチラリと見ては、水が滴るような冷たい笑い声で笑った。そこには、以前病に苦しんでいた少女の面影はどこにもない。
その後、少女は本格的にありがとうの水の広告塔になった。一部の客には百万円で水を売っていると聞いた。少女の住む家は悪趣味な豪邸となり、何人ものお手伝いさんがいるという。
「編集長、本当にありがとうの水ってあるんですか?」
ある日、編集部で残業中、加世は聞いてみた。今もありがとうの水を飲んではいるが、特に変化はない。おでこにニキビはあるし、オカルト雑誌の編集者は給料が悪い。彼氏もいない。宝くじも当たっていないし、偏頭痛も慢性化している。
「ないよ、ただの水道水だ」
「そっかぁ……」
加世は再び、手元のありがとうの水を見つめる。確かに何の変哲もない水だ。味も普通。何か匂いはする。本当に水道水っぽい。だが、長く見つめていると「アリガトウ」という言葉が耳元で何千回も響いてくる気がした。それは単なる感謝の言葉ではなく、執拗に繰り返される呪文のようだ。神経を逆撫でする。
「あの少女は詐欺師さ」
「編集長、元も子もない事を言わないで」
加世のディスクの上には、読者からの手紙が山とあった。病気や貧困、孤独で悩む人達からだ。ありがとうの水を飲めば良くなるのか、例の少女のようになれるのかと問い合わせだ。中には借金しても水を買いたいという人の声もあった。視野が狭くなり、それしか道がないと思い込んでいるようだ。
「ねえ、編集長。この読者さんたち、本当に努力不足だったのかな?」
確かに言霊もある。「ありがとう」という言葉も素晴らしいが、本当に再現性があるのか、万人に共通した真理かは何とも言えない。実際、編集部では科学的根拠は一切ないと注意書きを挿入し、記事を作っていたのだが。
手紙を見ながら、加世の表情も暗くなった時だった。
スマホに通知が来ていた。例の少女が海に落ちて溺れているというニュースだった。海の周辺では騒ぎになっているそうだが、郁也の顔は驚くほど冷静だった。
「やっぱり人を騙す仕事は、報いがあるね……」
そう呟き、ありがとうの水を口に含む。
「うん、ただの水道水さ」
郁也の声が響いていた。