—— ——2話 ♢
ポタタタ——ポタ……ポタ……ポタリ……。
遠く水滴の落ちる音が聞こえてくる。
ビクリと身体を痙攣させて目を覚ました私は、急に戻ってきた頬のジンとした痛みに思わず顔へ手を当てた。
(ここ……は?)
静まり返った空間の中でポタリと落ちる滴の音と、スッスッと衣擦れの音が小さく聞こえてくる。
汗でびっしょりと濡れている身体の冷えで無理やり意識の輪郭が整ってきた私は目を開けようとすると、瞼のまわりが異常に乾いた状態でパリパリしていて妙に重く、すぐに腫れている事に気がついた。
(……ああそうだ。私、泣いたんだっけ? あんなに泣いたの……いつぶりかしら……)
自宅で夫と大喧嘩をして殴られて……。
睨みつけていたら夫が出ていって……。
でも『現実』の私は追いかける事もなくその場で泣き崩れてしまったのだった。
(それから椅子に座って水を飲んで……そのまま疲れて眠ってしまったのね。だからあんな夢を?)
両腕を組んでうつ伏せたまま頑張って半分も開かない瞼を上げてみると、馴染みのあるテーブルの表面が間近に見えてくる。
手前では透明な水溜まりができていて、その端はテーブルの向こうに消えている。
少し視線を動かしてみると、横に倒れたガラスのコップが飛び込んできたのだった。
(あっ! 水をこぼしたわ!)
ハッと気がついた私が急いで上半身を起こすと、ハラリと身体に掛かっていたブランケットが床に落ちそうになったのに気がついて咄嗟にそれを掴んだ。
その時。
視界に入った斜め下の床で、紺色の背中らしきものがもそもそと動いているのを見る。
夫かと思いドキリとして立ち上がると、床に擦れてギッと鳴った椅子の音を聞いて、その人物がむくりと上体を起こして声を発したのだった。
「母さん。いいよ、そのまま休んでいて」
穏やかに言われた言葉と声音で、そこにいたのは学校の制服姿である最愛の息子だったと分かった私はホッと胸を撫で下ろした。
どうやら、私が寝ている時にグラスを倒してこぼしてしまった水の始末をしてくれているようだった。
とりあえず床の小さな水溜りに雑巾を被せておき、片手に持った台拭きでテーブルを拭こうと立ち上がった息子が私の顔を見るなりギョッとして固まった。
「また……アイツに殴られたの?」
安心してぼんやりしていた私はあっとなって、慌てて左手で頬を隠すと軽く俯いた。
「まあ、ねぇ……」
私がそう呟いていると、一度グッと手にある布巾を握りしめた息子がそれをテーブルに放り投げ、足音を立てながらキッチンへ向かうと……すぐに戻ってきて氷を詰めた袋とタオルを差し出してきたのだった。
「とりあえず冷やした方がいい? ほら、ちゃんと座って」
「……ありがとね」
夫とは対照的な息子の優しさに涙がまた出そうになりながら、大人しくその言葉に甘えて私は椅子にゆっくりと座り直したのだった。
氷でまだ熱い顔を冷やしている間に、息子はテキパキと溢れていた水を全て拭き取り、雑巾を洗面所へ持っていくと……やがてダイニングテーブルまで戻り、椅子を一つ手繰り寄せるように引き出すと、膝がつきそうなくらいに近くで向かい合わせで座る。
そしてじっと私を見つめた息子はふうと大きく息を吐くと、真剣な顔つきで静かに話し始めたのだった。
「ずっと気になっていた事をちょっと聞くけど……。母さんはさ、まだアイツの事……好きなの?」
「全然好きじゃないわ」
もう、絶望の余韻を残していた私は隠す事なく即答した。
「じゃあ、なんで一緒にいるの? 独身になるのが怖いの?」
「むしろ独身になりたいわねぇ」
次の質問でもやっぱり私は本音を漏らしてしまう。
「母さんは専業主婦だから、別れてお金が無くなるのが怖いとか?」
「そうね……でも、独身になれば働く時間もできるでしょ? 母だってまだ身体は動くし根性はあるのよ。『結婚して』『貧乏』にも慣れているわ」
珍しく息子に本音を出したからだろうか、私は重苦しかった気分が少しだけ楽になると、ちょっと強がりながら最後には軽い口調で返していた。
「そうだね。それにしても、アイツのあんなヤバい散財の中で、よく俺の教育資金を作ってくれたものだよね」
「ふふ……ありがとう」
息子が褒めてくれた事に私もつい笑顔になっていたのだが、次の質問では言葉に詰まってしまったのだった。
「じゃあ、離婚しないのは俺の為だね?」
「…………」
そうかもしれないけど、これを本人に向かって肯定したくは無かった。
私はふるふると首を横に振ってみせると椅子から立ちあがろうとした。
「……違うから心配しないで」
「他に理由なんてないだろう。だから母さん、お願いがあるんだ」
「お願い?」
「アイツと離婚して」
真剣な顔つきに戻っている息子の急に出た意外な言葉に、行きかけて足を止めた私はドキリとして思わず息をのんでしまう。
「で、でも……」
「大丈夫だよ母さん、俺はもう子供じゃないから。そもそもさ、子供の頃から俺はアイツの事が大っ嫌いだったし。金に汚いし、土日休みのくせして家族よりも仲間との遊びが優先で、小さいときにたま〜にさ、俺と公園いってもずっとつまらなさそうな顔で、ベンチに座ってスマホばっかり見ていて遊んでくれないし……。ほら、遊園地に行った時とか覚えてない? 『ここ、つまらないよな』とか言って俺が泣いても無理やり午前中で帰ってさ、そのあと一人で仲間のキャンプに合流して帰ってこないとか。ヤバいよね?」
「そうだったね……」
改めて人の口から説明を聞くと、ひどい父親を持たせてしまったなと私は申し訳なく思う。
息子の愚痴はここで終わらない。
「平日も仕事終わりにギャンブルして帰ってくるから遅いし、休日も家族そっちのけで遊びに行って家にいないし……。だから俺は結構早い段階で『父親なんて俺にはいない』って諦めてお互いに無視していたんだけど。なのに——」
目線を下にずらして眉を寄せた息子がギュッと拳を握る。
「ついに母さんへ手をあげるようになったのがマジで許せない! 不倫ばかりしているからだろうね、気が大きくなってるんだ」
「し、知っていたの?」
驚く私に、息子は呆れた顔で目を合わせた。
「いやもう、分からないワケないでしょ。それにさ、俺はもう探偵ゴッコして不倫の証拠も押さえてあるんだよね」
「証拠……?」
「それにこの動画もあるし」
椅子から立ち上がった息子は、リビングのテレビ台まで歩いていくと、置いてあるゲーム機と並んでいた一つの小型カメラを持ち上げた。
「ほら、見守りカメラ置いておくって言ったじゃん。写真より動画の方が証拠として強いらしいし。アイツはゲーム機と勘違いしていたから笑える」
何を言い出し始めたのか分からなくなってきた私に向かって、息子はいたずらっぽく不敵な笑みを見せる。
「母さん、俺が何のために県内の高校じゃなくて『仕送りもあって金がかかるから』ってアイツが大反対した遠く県外の高校を受験して合格したと思う?」
「え? 将来のためではないの?」
夫と顔を合わせるたびに必死で説得していた息子の姿を思い出しながら不思議な顔をしている私に、息子はあっけらかんと答えたのだった。
「それもあるけどもう一つ。母さんを一緒に連れて行く為なんだよ。いい加減、アイツと別れてほしくてね。言っただろ? 『広くて安い物件に引っ越した』って」
「ええ⁉︎」
二人分の部屋だという事にようやく気がついた私は、驚きすぎて開いた口が塞がらなくなっていた。
その様子を見て満足そうな顔をした息子は、
「アイツはさ、母さんを馬鹿にして思い込んでいるんだ。長く専業主婦だったから、まともな仕事が出来ないだろうとか、頼る相手もいないだろうから何したって母さんから離婚は『できない』って。しょうもない。子供がいなければとっくに捨てられていたのにね。それに——」
そう言いながらリビングからゆっくり歩いてきて私の目の前に立った。いつの間にか自分よりも背の高くなっている息子の顔を私はまじまじと見上げていると、
「アイツは忘れているんだ。母さんの隣には、成長して頼れるやつになった家族がもういるって事をさ」
そう言って息子が人差し指でちょいちょいと自分をさしている。
その様子に思わず笑ってしまった私は、
(そうよ……あの人を殺して何になるというの。あんな思いをするくらいなら、さっさと離婚すればいいのよ)
嬉し涙まで流しながらその場で決意をしたのだった。
—— —— ♢
その後、私は息子が夫の不倫やDVの証拠を裁判所へ提示してくれたおかげで、スムーズに、一番良かったと思われる結果で離婚が出来ていたのだった。
最後に夫は、
『はっ、お前みたいな乞食女なんてこっちから捨ててやるさ。俺には若くて可愛い女が似合ってるし。あいつは働いて稼いでいるから俺たちパワーカップルだし。後で泣きついてくるなよ』
そう長い捨て台詞を吐いて去っていった。
しかし、
『そんな相手じゃ、余計にうまくいかないんじゃないのかな?』
そう呆れた顔で言った息子の言葉通り、元夫となった彼と不倫女の結婚生活はあっという間に壊れたようである。
互いに相当な似たもの同士である事で、せっかく稼いでも二人してそれ以上に散財して借金までしていて、遊び癖も異性関係もかなり酷い。
不倫女は同じように稼いでいる事から夫婦に対等の立場を求める上に気が強いので、元夫が言う事を聞かない事で暴力へ走るのに時間はかからなかった。
すぐに離婚となるのだが、両者ともに浮気相手を巻き込んで今回は相当に裁判が泥沼化しているという悲惨なもの。
さらに元夫は長年の不摂生が祟ったようで体調を崩し、仕事も左遷。精神的にも病んでしまったようで、どこかの女の家へ転がり込んでいるくせして私たち親子を必死で探しているから気をつけて、と地元の友達が心配して連絡をくれたのだった。
「ありがとう、気をつけるね」
感謝を伝えて通話を切った私はと言うと、元夫と離婚してからは息子と二人で頑張りながらも穏やかな日々を過ごしていた。
やがて息子が学生時代を終えて社会人になると、
『会ってほしい人がいるんだ』
そう言って紹介してきた優しそうな娘さんと結婚。
『一緒に暮らそう』
と言ってくれたのを元気だから大丈夫よと笑い、一人で気ままに暮らしていた矢先に。
全く同じ境遇で長く茶飲み友達をしてくれていたシンパパの男性もまた、子供が巣立っていった事を機に、
『もしよければ、このまま俺と友達結婚しませんか?』
そうプロポーズをしてくれて、普通の結婚はもうしたくないと思っていた私は喜んで快諾したので、今は二人で慎ましくも幸せに暮らしているのであった。
ただ……。
私には、あの日から妙に怖くなってしまったものがある。
それは——。
ツ——……ピチョン。
ほんの小さく響いたその音に、リビングのソファーに座っていた私はビクリと身体を震わせた。
急いでスマホを置いて立ち上がった私は、音の鳴る方へ足早に向かう。
横切ったテレビから流れるニュースが、
『——のマンションから、男女の遺体が発見され——遺体には複数の刺し傷が——女性が一人、緊急搬送され重体——』
耳に届かないでキッチンに入ってみると……。
「あぁ、洗い物の時に栓をきちんと閉めなかったのね」
私はシンクにある蛇口から水滴がポタポタ落ちているのを見る。
そう。
私はこの水滴の落ちる音が怖くなった。
なぜなら、あの刃物から血が滴り落ちていた悪夢を思い出してしまうから。
本当に、現実にあったのではないかと考えてしまうくらい鮮明に……。
(現実であるはずがない)
絶対にそのはずだ。
だけど、私はたくさんの血なんて見た事もなかったのに、あの夢の血溜まりでは生臭さすら感じていた。
それもまた、忘れる事なく生々しく蘇ってくる。
(きっとその錯覚のせいね。実はあの夢の方が現実だったんじゃないかだなんて……、馬鹿な事を考えてしまったのは)
ため息をついてシンクの前に立った私は、
「今のこの幸せが……現実だから」
まるで祈るように呟いて、グッと力強く水道の栓を閉めたのだった。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。