—— —— 1話♢
『夏のホラー2025』参加作品です。
人を殺めるシーンがありますのでご注意下さい。
ツツーー……ッ——ピチョン。
鈍色にテラリと光る刀身を伝って端まできた赤い滴が、ゆっくりと床に出来ていた血溜まりの中へ落ちてゆく音を聞いた。
私はハッと気がつくと、鼻が掠ったほどの目の前では、いつも丁寧に洗濯していた『あの人』のお気に入りの白いシャツが視界いっぱいに広がっている。一緒に蘇った知覚が手や上体に妙なぬるいような冷たさを感じ、嗅覚がいつもの体臭に混ざった生臭さを感じ取ったのだった。
「こ……の……——」
いつの頃からか嫌悪感すら感じていた声が間近の頭上から降ってきて、私は思わずアザだらけになっている顔を上げてみた。
するとそこには、怒りなのか驚きなのかでひどく歪んだ顔があり、目玉を飛び出させる勢いで見開いて真っ赤だと思うほどに血走らせた両目と視線が合ってしまった。
「ひっ!」
ギョッとした私が後ろへ逃げようと足を下げたのだが、両手が何かを握ったまま離さないのでガクンと身体がその場に止まってしまう。
慌てて下を向いた私は、自分の両手が包丁の柄の部分を掴んだまま硬直しているのを見る。さらにはその刃物の先は、途中で中心から赤く染まり広がっているシャツに吸い込まれていたのだった。
(あぁ、私はついにやってしまったのね……。どうしても……耐えられなかった……)
いつものように夫が殴ってきた。
でも今日は身体が吹っ飛ぶほど、いつも以上に力が強かった。なぜならここは私たちの家ではなく、不倫相手の家の中だから余計に怒りが強くなったのだろう。
夕方に自宅で夫と私は口論をした。結婚してからはよくある事で、子供が生まれてからはさらに酷くなった。
その日の内容は、私が働きに出るかというものだったと思う。
私は専業主婦だ。
料理は自分の好みに合わせて品数の多く必ず手料理。掃除はどこもかしこも毎日チリ一つ残さない。カビなどもってのほか。洗濯物にはすべてアイロンをかけておくように——。
夫は家事に対して要求がかなり多く、私の一日は家事だけで終わってしまうもの。
それは子供が生まれても同じで、家事が追いつかなければ仕事の憂さを晴らすかのように、夫から激しく怒鳴られてしまう。
夫はそれなりに良い会社に勤めているのだが、どうやらうまく仕事が出来るタイプではなかったようで、家では常に不機嫌だった。
だけど付き合っていた頃の夫は真逆の顔。
明るくていつも笑っていて、とても優しい。記念日だって忘れないでお祝いしてくれた。私にはもったいないと思うくらい『良い人』だった。
だから安心して結婚した。
この人となら、互いに思いやりを持ちながら幸せに年を重ねてゆくのだろうと信じて疑うこともなく……。
だけど、そんなものは幻想でしかなかった。
籍を入れたその日から、女は自分の世話をする所有物でしかないと考える彼の本性を知る事となった私は、無償の家政婦と成り果ててゆく。
お金の管理は自分がすると言って月々に生活費を手渡してくるのだが、その金額があまりにも少ない。
『これではやっていけない』
とお願いしても、
『主婦は金なんて使わないだろう、贅沢いうな。じゃあ、お前が働きに出ればいい。ただし、家の事に手を抜くな』
と返ってくる。
仕方がないので、私は独身の時に貯めていた少ない貯金を切り崩し、身の回りの物で売れる物は全部売って生活費を補充した。
最愛の息子にだけは不自由させたくなくて、自分の食べる物を極力減らす。みるみるうちに痩せ細ってゆく私を見て最初に夫は『ダイエットできてよかったじゃん』と言った。
化粧品も買えずほぼノーメイク、アクセサリーもない、服も叩き売りの最終セールもの、栄養不足で髪はパサパサ。
そんな私へ次第に夫は
『みすぼらしい』
と言うようになった。
『もはや女じゃない』
『みっともないから俺と出かけるな』
ともなじってくる。
そんな私とは反対に、夫はブランドものの高級な服にカバンに靴をはく。腕には一目で分かるような高級時計をはめ、自分専用の女性が好む高級な車に乗る。
毎日のように会社の人と飲み歩き、パチンコなどのギャンブルをして、休日には仲間と一緒にキャンプに行ったりと一人で出掛けてしまう。
また、もともと子供は嫌いな方だったらしく、懐かない、顔もお前の方にそっくりだという理由で自分の息子の相手どころか見ることすらほとんどない。
スマホの待ち受け画面なんて私でもなければ息子でもない。そこには見ず知らずのキャンプ仲間との楽しそうな写真が貼り付いている。
そんな風なので、夫に女の影がやたらとチラつくようになるのもだいぶ早かった。
それを問いただそうとしようものなら、
『女じゃなくなったお前が悪い』
と悪びれもなく言い、ついには手をあげるようになって、
『お前も働きに出て稼いでキレイにしてきたら、たまには隣を歩かせてやる』
と言い残して高級車に派手な女を詰め込んで出掛けていった。
もはや夫は家族に愛情の欠片もない。そもそも、あったことがあったのだろうか……。
『離婚』という言葉が何度も頭をよぎったが、息子の事を考えていると、どうにも踏み切れない。
もはやこの人を選んだ私が悪かったのだと諦め、両親はもう亡くなっていて、古くからの友人とも会えずに疎遠となり、孤独の中で家事と子育てに頑張っていたら、いつの間にか息子も中学生の終わりになっていて、来月の四月から遠く県外の高校に進学する事が決まっていた。
進路を決める際、お金のかかる一人暮らしの進学に大反対した夫は、一切の仕送りをしないとの条件を出した。
『もうそれでいいから』
息子はそう言ったけど、子育てに使っていた時間が空くだろう事でようやく働きに出る決意をしたのだった。
ところが、散々に働けと言ってきた夫はなぜか反対し、
『俺の世話はどうするんだ!』
『外に出て浮気するつもりだろう!』
と言って理不尽に怒り出したのだ。
そして今日、長年の鬱憤が爆発した私はついに夫へ怒鳴り返した。
『浮気や不倫ばかりするのはあなたでしょう! それに、私はあなたの奴隷じゃ——』
言い終わらないうちに平手が飛んできて、強烈に私の頬を打った。思わずよろけた私へさらに蹴りが飛んできて腹に入り、痛さと苦しさに両腕を抱えてしゃがみ込んだのだった。
いつもなら、ここで私は暴力の恐怖に震えて泣いてしまっていた。
泣きながら小さくごめんなさいと言ってひたすら謝っていた。
けれども——。
なぜだろう。この時初めて、私は泣きたくないと強く思ったのだ。
痛みで身体は動かないが顔を上げて睨みつけ、せめてもの反抗を見せてみる。
よほど憎しみがこもっていたのだろう、夫は驚いた様子でわずかに動揺すると、逃げるように家を出て行ってしまったのだった。
『浮気相手の所ね——』
そう直感した私は、そのまま家を飛び出して夫の後を追った。
無我夢中で走ってどこをどう通ったのか分からなかったけど、夫が入っていったどこかのマンションの部屋へ飛び込んでいた。するとそこにはスマホの待ち受け画面に写っていた小綺麗な女が夫の隣にいて、嘲るような笑みを浮かべて私を見たのだ。
悔しさと怒りが噴き出した私は、ここでも夫と激しく口論をして……。
気がつけば……。
刃物で、夫の身体を刺していたのだった。
「きゃああああ! なんて酷いことを! このひとでなしぃ!」
横から響いた女のつんざくような甲高い悲鳴で、引いていた私の血の気がまた一気に駆け上った。
(酷い……って……?)
バッと勢いよく振り向いた私にギョッとして、サッと青ざめた女が一歩後ずさる。それを追うように一歩足を踏み出した私の脳裏に、さっき女がバカにするように言ってきた言葉が次々に浮かんできた。
『奥さんが働かないでこの人に甘えているからよ〜』
怒りが身体中を突き抜けた私は、大きく刃物を振りかざすと、恐怖に顔を歪めた女が逃げようと背を向けたところへ、一気に振り下ろした。
(働く時間のあるやつがえらそうに!)
——ザクッ!
『お化粧もしないなんて終わってる〜』
(あんたみたいに、お金も時間もないわ!)
ザクザクッ!
『この人ったら私にとっても優しいし、会社では頼もしくてカッコいいのよ〜。それなのに、疲れた夫すら奥さんは優しくできないなんてサイテー』
(夫は浮気したいから外ヅラはいいでしょ。そもそも女でも男でも働いている姿っていうのは素敵なもの。妻は見たくても見れないし、殴ってくるやつから身を守るのに精一杯よ!!)
ザクザクザクザクザクザクザク———!
一心不乱に、私は女の身体を無言で刺していく。
やがて……。
疲れて手を止めた頃には、辺り一面に生臭い血溜まりがある中で、女が引き攣った顔のまま動かなくなっていたのだった。
「はは……ハハハ……」
呼吸が乱れている間、私は気分が妙に軽くなっているようだった。
でも、気持ちが落ち着いてくるにつれて、じわじわと恐怖が心に広がっていくのを感じてくる。
(ころ……した……。私が、人を——)
真っ赤になっている自分の手を……、鮮血に染まり続ける自分の服に気がついた私は、急激にがくがくと身体が震え出した。
(そんな、これからどうなるの? 私は——)
この時、私はハッとある事に気がつく。
(息子……そうよ! 息子はどうなるの? 母親が父親を殺した……殺人犯の親を持つ子として生きて——)
そう思った途端、
『広くて安い物件に引っ越せたし〜。早く高校、始まらないかな〜』
朗らかに笑う息子の姿が頭に浮かんでくると、急激に後悔の念で心が冷えてきた。
(そんな! だ、ダメ! あの子にそんな酷い思いを……させるなんて!)
無意識に振り向いた私の目に、向こうでもできている血溜まりの中で完全に動かない夫の身体が映って絶望する。
(それに……これからどうすれば……私はどうやって生きていく事になるの……? 息子はどうなるの? 息子に迷惑が……息子が——)
今までの人生でこんな未来をカケラも想像しなかった私は、この後がどうなるのか分からない怖さにどんどん精神が錯乱していく——。
「あ、あぁあ……あああ——」
息子の顔を思い浮かべては涙でベタベタに頬を濡らす私は、やがて震える手で持っていた刃物を握りしめる。
血でぬるぬると滑らないようにしっかり持つと、尖った先を自分の喉元にゆっくりと当てたのだった——。