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(良かった……何事もなさそう)
エリーゼはほっと息をついた。
混ざり者の少年を助けてから少し経ったが、エリーゼの素性が割れてお礼をされ、そこから森にいたことがばれて大変なことになる……という展開にはならずに済んでいる。あの時は仕方なかったとはいえ素顔をさらしてしまったので、けっこう案じていたのだ。
とりあえず今はそうなっていないので、いつも通りの日常が続いている。
「あら、リリア。綺麗なドレスね」
部屋に戻ってきたと思ったらドレスを着替えてまた出かけようとする妹に、エリーゼは思わず声をかけた。
別に咎めているわけではない。フィネ家は裕福だし、妹も度を越した散財をしているわけではない。そうではないのだが、なんだか最近はお洒落に凝りだしたのか着替えが頻繁で、出かける頻度も増す一方なのだ。母のタバサが何も言わないので容認されているのだろうが、つい遠回しに言葉をかけてしまった。
妹――リリアは、オレンジ色のドレスの裾を少しつまんでくるりと回ってみせた。赤みがかった金髪が踊る。
「そうでしょう? わたしももうすぐ成人だから、出かける機会も多くなるもの。新しいドレス、作っていいってお母様から言ってもらったわ」
成人年齢は十五歳、リリアはいま十四歳だ。いつまでも幼いと思っていたが、もうそんな年齢なのかとしみじみしてしまう。……エリーゼとてまだ十七歳だが。
リリアがエリーゼに向かって微笑みかけた。その笑顔が親愛を示すものというよりも、なんだかお茶会で見るもののような――恋敵に向ける挑発的な笑みと同種のもののような――気がして、エリーゼは一瞬どきりとした。気のせいなのだろうが、「妹」というより「女性」としての笑みに見えたのだ。
(女の子の成長は速いって言うしね……)
エリーゼは心の中で頷いた。そんなエリーゼが本を抱えているのを見てリリアは小首を傾げた。
「お姉様、今日もお勉強なの?」
「ええ、そうなの。色々と学ぶべきことが多くて」
これから外国語と国際情勢の勉学だ。各国から招かれている専門家から教えを受けることになっている。本来なら皇帝や周囲の人々の相談役になったり皇子や王女の教師役になったりするような人々だが、皇子に嫁ぐことが決まっているエリーゼも教えを受けることができる。……というより、教えを受けるよう求められている。権利というよりも義務だ。
第四皇子のジーンに嫁ぐにあたって、エリーゼには彼の補佐が求められている。ジーンがまるで勉学に興味を示さず、しかし皇子という立場の者がそれではまずいので、代わりにエリーゼが何とかしろということだ。第二皇妃――ジーンの母親は、つくづく息子に甘い。
(補佐というより、後始末役というか……)
彼が下手なことをしでかさないようにフォローしろ、ということだ。嫌だと言ったところで必要性はなくならないので――ジーンが下手なことをして国益を損なうのはまずいし、自身の立場を損なうのも彼と一蓮托生の立場にいるエリーゼにとっては死活問題なので――頑張るしかない。
「大変ねえ」
妹は憐れみさえ滲む声音で言うが、これは妹のためでもある。エリーゼは第四皇子妃としてうまく立ち回って、このアーダルス帝国を支え、フィネ家に箔をつけ、いずれどこかに嫁ぐ妹とフィネの名前を継ぐだろう弟のために動かなければいけないのだ。
勉学はまだいい。エリーゼは勉学が苦痛ではない。むしろ苦痛なのは社交の方だったりする。「赤薔薇の中の赤薔薇」などと呼ばれるくらいには適性があるのだが、大きな失敗は許されないし、横柄で好色な高位の貴族男性の相手には神経を使うし、うわべだけの会話は時間の無駄で苦痛だ。そんなことをするよりも竜たちと森を飛び回って、魔術の訓練をして、疲れたら深夜を待たずにぐっすり眠るような生活がしたい。……社交はとくに夜に活発になるし、エリーゼは色々とやることがあるから、そんな健康的な睡眠は望めないのだが。
(でも、妹や弟のため。皇子様のため……と考えるのは嫌だけど、とにかくも。わたくしは皇子妃になる「完璧令嬢」として、誰よりも令嬢らしく在ることが求められているのよ)
たとえ自分の中身がじゃじゃ馬で、宮殿よりも森が好き、実用的な魔術や竜が好き、人間だの混ざり者だのと区別したくない、と思っていても。そんな振る舞いが大っぴらにできる立場ではない。自分ひとりだけならそれでいいが、エリーゼは二人の姉であり、皇子の妃になる者なのだ。自分というものを押し殺して、睡眠時間を削って捻出した時間で魔術を磨いたり竜と戯れたりする、せいぜいそのくらいがエリーゼに許された自由だ。
何も知らぬげに自由に出かけようとしている妹を見て、何も思わない、ということはない。だが咎めたり八つ当たりしたりする気はないし、妹が楽しく日々を過ごせるなら、姉として少しくらいの無理はしてあげたいと思う。もちろん無理を無理と悟らせないように。
リリアがこれからどこへ行くのか知らないが、エリーゼが社交界で地歩を築き、評判を上げ、人脈を広げたことでだいぶ動きやすくなっているだろう。エリーゼの時はそのようにしてくれる兄や姉がいなかったから苦労したが、弟妹たちにそんな苦労をさせるわけにはいかない。
そうした内心をすべて押しやり、エリーゼはリリアに微笑みかけた。
「ごめんね、引き留めて。行ってらっしゃい、リリア」
「お姉様も、お勉強を頑張ってね」
そんな風に言葉をやり取りし、リリアは出かけていった。
その背を見送り、エリーゼは首をひねった。
(リリアの笑顔とか物言いとか態度とか……やっぱり何かひっかかる気がするのだけど……?)
まあ、気のせいということにしておこう。有象無象が集まる社交の場ではないのだから、リリアの真意を探ろうとなんてしなくていい。しなければ蹴落とされるような、そんな殺伐とした場ではないのだから。
エリーゼは考えを振り切り、本を抱えて部屋を出た。




