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「弟子を取った覚えはないが、お前さんは教えたことをすぐ吸収するし、自分でも応用するし、優秀だな。魔力量も豊富だ。……混ざり者とも遜色ないくらいだ」
「それは光栄ですわね」
比較として言っていいものか躊躇ったらしい言葉だが、エリーゼは頓着なく賛辞として受け取った。
血の濃い混ざり者には及ばなくても、貴族たちは強い魔力を持つ者が多い。それはおそらく勇者の子孫たる皇家との血筋の近さゆえで、貴族たちが魔力を誇る理由もそこにある。
(……馬鹿馬鹿しい)
考えつつ、手慰みにエリーゼは手のひらに花を生み出した。焙煎された珈琲のわずかな粉を元に咲かせたものだ。貴族たちの間では、こうした実用的でない魔術が好まれる。魔物と戦う力にもならない徒花なのに。
エリーゼが宮殿に生きながらも宮殿に対して複雑な感情を抱くのは、こうした理由もある。魔力の強さを自慢にしつつも、それを実用にしないのだ。辺境では日々さまざまな者が生きるために戦っているというのに、強い魔力を持つ貴族たちは安穏と暮らしている。世界で一番と言ってもいいくらいの安全を享受しつつ、宮殿に住むことなどとても叶わない辺境の人々を馬鹿にしている。ふざけるな、と言いたくなる。
温室で花をいたずらに咲かせて腐らせるようなことはしたくない。自分の魔力を実用的に鍛えるために、エリーゼはメルチオに教えを乞い、この研究塔に出入りしている。
「師父、お借りしていた資料をお返しします。ありがとうございました。注釈も付けてみましたので、お手すきの際にご覧くださると嬉しいです」
「……よこせ。いま見る。…………」
サンドイッチを食べ終わったメルチオに、抱えていた資料を渡す。注釈の用紙は分かりやすいように色を変えてある。そうした手慣れたエリーゼの用意に短く唸り、メルチオはひげを捻りながら素早く資料を捲った。
「……ここの解釈だが、なぜこの古語をこの意味で取った?」
「もちろん他の可能性もありますが、文脈と、この時代の時代的背景から言って……」
意見を交わしつつ、魔術についての理解を深める。実践のためには座学も必要だ。
ひとしきり議論を戦わせ、一段落したあたりでエリーゼは断って席を立った。いつまでも話していたいが、他のこともしたい。メルチオを長時間拘束するのも申し訳ない。
席を外し、戻ってきたエリーゼの格好を見てメルチオは大きく溜息をついた。
「……お前さん、『赤薔薇の中の赤薔薇』と呼ばれている自覚はあるか?」
「ええ、もちろん。あるからこその格好ですわ」
研究者用のローブを纏ったエリーゼは悪びれずに微笑んだ。ドレスは脱いで実用的な上下に着替え、その上から分厚いローブを羽織っている。目立つ赤い髪は纏めてフードの下に隠してある。とくに魔術実験を行う時の服装で、多少のことでは体が傷つかないようなしっかりした作りになっているローブだ。
貴族令嬢としての立ち居振る舞いが完璧に身についているエリーゼは、それを裏返して貴族令嬢らしくない立ち居振る舞いをすることもできる。少し背を丸め気味にし、あまり周囲に注意を払わずに足早に歩き、わざと足さばきを雑にすれば研究者の助手の小柄な少年に見える。「赤薔薇の中の赤薔薇」ではなく、自由に動くための服装だ。
「では、師父。行ってまいります」
口調を変え、物柔らかな雰囲気を引っ込めて直線的な動きを心掛け、エリーゼはメルチオに挨拶をすると部屋を出た。いつものことなので、メルチオは短く唸って軽く手を振り、勝手に行ってこいと身振りで伝える。
研究塔の出入り口は一つではないので、行きに使った門とは別の場所から、違う門番に見送られて門を出る。正式なローブを羽織っているので誰何もされないが、されたとしてもメルチオの名前を出せば事足りる。声も、懐に忍ばせた魔法陣の紙があれば問題ない。風魔術の応用で少年らしい声が出せる。効果時間が短いから必要がなければ使わないが、そうした用意もある。
なるべく高位の人とは会わないように通路を選び、勝手知ったる宮殿を歩く。ほどなくして辿り着いたのは、竜の中庭――かつて幼いエリーゼが、はじめて竜の声を聞いた庭だ。
ここにももちろん出入口の番をする騎士がいるが――人に限らず、重要な場所であったり、治安であったり、何かしらを守る役割を担う武官を総称して騎士と呼んでいる――、何度となく来ているので特に不審もなく、メルチオからの書状を示すだけで庭に通された。危ないものを持ち込んでいないかという確認もされない。研究塔との信頼関係があるからというだけでなく、いちいち確認をしていたら手間がかかって仕方ないという理由もあったりする。また、少しくらいの刃物や毒物を持ち込んだとしても竜を害することはまず出来ないという事情もある。竜は人間に対して危害を加えることは基本的に無いが、害意には敏感だ。害をなそうとする不届き者がいたら返り討ちに遭ってしまいだ。おまけに硬い鱗は刃物を弾くし、頑強な肉体は多少の毒物では害されない。仕掛けるだけ無駄で、無謀だ。
中庭に入ると、わっと仔竜の声が聞こえてきた。
「エリーゼ! エリーゼ!」
「遊ぼう! 遊ぼう!」
「退屈! 出たい!」
「私! 今回、私!」
駆け寄ってきた仔竜たちを順番に撫で、挨拶を交わす。鱗は流れに沿って撫でないと手が切れてしまいそうな硬さだが、そうすればいいだけだ。愛玩動物とは違うが、甘える様子だけはさほど変わらない。
誰かが見ていたら驚くかもしれないが、ここに人は滅多に来ない。そもそも竜の中庭に入れる者が限られており――幼いエリーゼは、宮中伯として高い権限を持つ父に連れられて入ることができたが――、用がある者などさらに限られるだろう。もっとも、竜に群がられているところを誰かに見られたところでそれほど困るようなことはなく、少し説明が面倒だと思うくらいだ。竜の声はエリーゼにしか理解できておらず、他の人にとっては単なる鳴き声に聞こえるらしい。竜がエリーゼに話しかけたところで、話をしていると見破られる心配は無い。そもそもそんな可能性を誰も考えない。
一通り相手をし終えた後で、エリーゼは一頭の仔竜を呼んだ。
「テア・ルル。今日はあなたの番」
それを聞き、呼ばれた仔竜は嬉しげに鳴いた。他の竜たちは、羨ましがって鳴き声を上げたり尾を揺らしたり、あるいは悄然として黙り込んで尾を垂らしたりした。
(……ごめんね、みんな。一頭しか連れ出せなくて……)
心が痛む。本当ならここの全員を連れていきたい、なんなら天窓の硝子をぜんぶ叩き割って、みんなを自由にしてあげたい。
そう思うのだが、エリーゼは頑張っても一頭、それを短時間だけ連れ出すのが精一杯だ。
幼い頃に竜たちの悲鳴のような訴えを聞いて以来、父を介して中庭の住環境を整えてもらったり、研究塔を介して研究と称して一頭を短時間だけ借り出す――ていで外で遊ばせる、ことを可能にしたり、なるべく仔竜たちを気にかけている。囚われの状況を根本的に変えることはできないが、できる範囲で行っている。
順番に従ってテア・ルル――仔竜には名前が付いておらず、父親と母親の名前を並べて名前代わりとしている――を連れ、エリーゼは庭を出た。幼竜を一頭だけ研究のために連れていくことを予め断ってあるので、中庭付きの騎士は竜の角につけられた識別のタグを確認するだけでテア・ルルを通した。
竜を操る竜騎士たちを見る機会もあるので、宮殿の人は研究者が竜を連れていたところで少し振り返るくらいだ。もしも魔物が歩いていたら大騒ぎだが――「混ざり者」ですら下手すると騒ぎになる――、竜が歩いていても特に問題にならない。
エリーゼは研究塔へ戻り、仔竜を連れて塔の屋上へ登った。