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(ここの人たちを縛っている「何か」……それがまさか、宮殿だったなんて……)
ベルフを部屋へ送り届け、エリーゼは考えに沈みながらテア・ルルと歩いていた。エリーゼを気遣うようにつんつんと軽く腕をつつかれ、それに顔がほころぶ。
「ありがとう、テア・ルル。いろいろ考えることが多くて。……そういえば、あなたのことも」
テア・ルルはまだ仔竜だが、すでに一人前に森を飛び回っている。いずれ成竜になったら、どこかの基地にいるはずの父母を訪ねさせてあげたい。それとも凱旋式に合わせて宮殿での顔合わせがいいだろうか。
「成竜になったら名前を付けないとね。幼名を改めないと。どんな名前がいい?」
「このままがいい! この名前がいい!」
「え? あなたの父母の名前を並べただけだけど、そのままがいいの? もちろんそれでもいいけれど……」
そんなふうに話しながら歩いていたときだった。――普段よりも疲れていて、色々と考え込んでいて、つい気が緩んでいた。だから人の気配に気づくのが遅れた。
シグルドが、唖然としてこちらを見ていた。
「……エリーゼ嬢……? いま、竜と会話していなかったか……!?」
(まずい! 聞かれた!)
一瞬焦るものの、すぐに冷静になる。竜の言葉が聞こえるのは自分だけなのだから、しらを切ればいいだけだ。
「あら、お恥ずかしいところを。癖なのですわ、つい竜に話しかけてしまって。答えなど返ってこないというのに」
しかしシグルドは首を振った。
「いや……咎めるつもりではないのだ。だが、答えは返ってきていた。会話は成り立っていた。……そうだろう? あなたは……竜の言葉が聞こえるのだろう……?」
今度はエリーゼが唖然とする番だった。確信ありげな様子を見るに……まさかシグルドも、竜の言葉が聞こえている!?
「……あの、シグルド様。テア・ルルは何と……?」
「このままがいい、この名前がいい、と」
「…………!」
エリーゼは立ち尽くした。彼にも……聞こえているのだ。竜の言葉が。呆然として見つめ合う。
のんきにしているのはテア・ルルだけだ。エリーゼは思わず責めるように言った。
「人がいるなら……どうして教えてくれなかったの?」
「だって、その人、同じ。エリーゼと同じ」
「言葉が通じるということ……!?」
「そう。そう」
エリーゼは頭を抱えた。ちょっと状況についていけない。考えることが多すぎて現実逃避をしたくなる。
シグルドが慌てたように言った。
「ちょっと待った、場所を改めて話そう。誰に聞かれるか分からない……のは、大丈夫だと思ったんだが……」
「まさか……他にも竜の言葉が分かる人がいるとか言わないでしょうね!?」
「いないよ! いないよ!」
「ここにいないという意味ではなく、他にいないという意味ね!?」
念押しするように聞けばテア・ルルは頷いた。それならまあ、シグルドだけならまだいい。動揺しながらテア・ルルと別れ、エリーゼはシグルドについて彼の私室に通された。
私室とは言っても、あまりプライベートな雰囲気はない。きちんとした応接間といった趣だ。薪ストーブのおかげで暖かく、その上でシグルドがお湯を沸かした。珈琲を淹れてくれようとしたので、申し出てその役割を代わる。シグルドは嬉しそうにした。
「あなたの作るものはどれも美味しい」
「お口に合ったのなら良かったです」
厨房で、最近は料理そのものに携わることも増えてきた。シグルドたちに食べてもらう機会も増えてきた。
淹れた珈琲をお互いの前に置き、卓を挟んで椅子に腰かける。少々の沈黙ののち、エリーゼが口火を切った。
「そういえば、気になってはいたのです。三体の魔物を相手取ることになった、あのとき……撤退の判断が早かったと」
「あの時はアーグルが警告してくれていた。新手が二体も来ると。……あなたも聞いていたのだな」
エリーゼは頷いた。
「そうです。どう伝えればいいのかと焦っていたのですが、シグルド様が撤退の判断をすぐにしてくださったので安堵しておりました」
「そうだったのか……」
実はもう一つ、気になることがある。エリーゼの作戦をシグルドが全面的に信用して採用してくれたことだ。そこまでの信頼を得られるようなことをした覚えがないのだが。
でもそれはまた別の話だ。今はこの大問題について話さなければ。
(心から信頼できる人に出会えたら、その人だけに教えてあげればいいと……父から教えられたけれど。こんなふうに明かすことになるとは思わなかったわ……)
でも、しまったと後悔するような感じではない。むしろ、なるべくしてなったような感じさえする。
彼になら知られてもいい。この秘密を共有していけると思える。
「……わたくしのこれは、生まれつきなのだと思います。ごく幼い頃から、竜の鳴き声が意味ある言葉として聞こえていました」
宮殿の竜の中庭で父にそのことを訴えたら、秘密にしておきなさいと諭されたこと。どうしてなのかは成長してからなんとなく察したこと。竜退治の勇者を祖とする皇家、その特徴を先祖返りとして受け継いだエリーゼは、皇家の血筋の正当性を知らしめる存在になりうるのだということ。
そうしたことを話し、シグルドは聞き終えてから口を開いた。
「……そうだな、父君の懸念は正しいと思う、あなたがそう考えるのも尤もだと思う」
「……違うのですか?」
「ここからは私の話になるのだが……私には、竜そのものの要素が混ざっている」
「!?」
「これだ」
シグルドは自分の角を指さした。
そういえば見慣れているからもう全く気にしていなかったが、彼は混ざり者で、混ざり者としての特徴を備えている。彼の角は竜のそれに似ている。
ベルフも角があるので別に人に角があったところで気にならなくなっていたが、普通の人間ではありえないことだった。
「私は……というより、私の元になった『シグルド殿下』は、彼の愛竜とともに魔物に食われた。――わざとだ」
「!?!?!?」
「わざとだとしか考えられない。老いた彼は命の終わりが近いのを実感していたのだろう、同じく老いた彼の愛竜とともに魔物の領域の深くへと踏み込み、多くの魔物を討伐し、その中で斃れたのだろう、戻らなかった」
シグルドはつとめて抑制的に、淡々と語った。
そのときに魔物がどのくらい間引かれたのか分からないが、その後、一時的に魔物の数が減り、国境が前進して国土が広がったという。
「混ざり者とはいえ、記憶の定着は普通の人と変わらない。私には生まれた時の記憶などないし、殿下の愛竜の子が私を見つけて連れ帰り、この城で育てられたというのも後で聞かされたことだ。竜と、シグルド殿下の部下たちに、私は育てられたのだ」
シグルドは珈琲で喉を湿らせた。
「もちろん私はシグルド殿下の記憶を引き継いでいないが、城に彼の手記が残っていた。隠されていて……好奇心の強い、体の小さな子供にしか分からないだろう岩壁の窪みに隠されてあったのだ」
「それは……シグルド様に読ませようと思って隠されたのでしょうね……」
「そう思う。もちろん上手くいかない可能性などいくらでもあったから、それは賭けだったし、失敗しても仕方ないくらいに思われていたのだろう」
シグルドがうまく生まれなければ。城で育てられなければ。手記を見つけなければ。それは忘れ去られたままだったが、しかしシグルドは見つけたのだ。
「それを読んだり、他の者から少しずつ事情を知らされたり、竜の言葉から察したりして……私は自分の特異な生い立ちを知ったのだ」
「……………………」
エリーゼは言葉もない。彼の数奇な生い立ちに。




