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宮殿にいた頃のエリーゼであれば、こんなとき、すぐに拒絶したりはしない。やんわりと躱すに留める。相手の面子もあるし、関係性を損なっては家のためにもならないからだ。
だが、ここは宮殿ではない。エリーゼはもう社交界の華ではない。家族は力添えをしていくべき対象ではなくなった。エリーゼは遠慮なく眉を顰め、不快感を表に出した。
「わたくしがどう感じていようと関係ないでしょう。戦いの場で不謹慎ではありませんか?」
ニックは意に介さず、肩をすくめた。
「真面目なのですね。エリーゼ嬢は」
「わたくしの名前をご存知で……?」
「私はあの夜会に出席していたのですよ。ですから言ったのです。戻られてもいいと思うのですが、と」
「…………!」
エリーゼは目を見開いた。彼が匂わせているのは、宮殿に戻られては、ということだ。単にこの場から安全な場所へ戻るという意味ではなく。
ニックはたたみかけた。
「第四皇子に婚約破棄され、彼の面目を潰して宮殿から飛び出し、行くあてなどこんなところしかなかったのでしょう? ですが、そろそろ後悔なさったのでは? どうです、竜騎士の私と一緒なら宮殿に戻れますよ?」
ニックの碧眼が、品定めするようにエリーゼを見ている。その視線には嫌というほど覚えがある。エリーゼを物として見て、利用価値を測ろうとする眼差しだ。
彼の意図は明らかだ。第四皇子に優越したい、かつて社交界の華であったエリーゼを手に入れて自らの飾りとしたい、あわよくば社交界に返り咲かせて影響力を物にしたい、そんなところだ。自分の魅力ならそれができる、婚約破棄されて傷物になったエリーゼなら御せる、そうした思いが透けて見えている。
(……心底うんざりするわ。そういう鬱陶しいものから離れたかったのに。辺境に来て離れられると思ったのに……)
婚約破棄の一件でけちがついたとはいえ、エリーゼは武器になる容姿を持ち、資産も家名もあり、皇子妃にと望まれて教育を受けた過去があり、宮殿で磨かれたマナーや立ち居振る舞いも身についている。自分で言うのも何だが、利用価値はかなりのものだろう。
おそらくニックは、宮殿で確たる立場を持ちたいのだ。竜騎士という華やかだが不安定な立場だけでなく、エリーゼの配偶者として。
だからこそ、彼は竜騎士であることを誇示しながらも、それ以上のものを望んでエリーゼに声をかけてきているのだから。
(この人の事情がどうあれ、受け入れる選択肢はないのだけどね……)
この人が嫌だからという理由ばかりでなく、エリーゼには竜の声が聞こえるという特殊な事情がある。一種の先祖返りで、皇家の血の正統性を強める象徴的な存在になりうる。黙っていてもばれるきっかけがないとは限らないし、子供ができて受け継がれでもしたら隠せない。下手な相手に縁付いてしまっては、皇家の安定性をおびやかしてしまう危険性があるのだ。
(どう断るのが効果的かしら……。逆上されても怖くはないし、フィネ家のこともどうでもいいけれど、禍根が残るのはまずいわよね……)
かと言って、やんわりと伝えて曲解されるのもまずい。エリーゼが断り文句を考えあぐねていると、シグルドたちが戦っている方から、アーグルの鋭い鳴き声が聞こえた。
「来るぞ! 魔物、二体! 新しく、来るぞ!」
(え!?)
エリーゼの耳には、アーグルの警告の鳴き声が意味を伴って聞こえてきた。事態の深刻さに、横にいる竜騎士のことが頭から吹っ飛ぶ。
(まずい!)
エリーゼは焦りを募らせた。アーグルの警告が、普通の人間には竜の鳴き声としか聞こえない。警告が届かない。かといってエリーゼが通訳しても信じてもらえるか分からないし、信じてもらえたとて重大な秘密を明かしたその後のことが心配だ。そもそも、この場を乗り切らないことにはその後も訪れないのだが。
一頭の魔物を相手に苦戦しているところへ新手が来たらどうなるか。火を見るより明らかだ。
「撤退! 総員、撤退!」
エリーゼが必死に考えを巡らせていたところへ、シグルドの断固とした声がかかった。
(良かった……)
エリーゼはほっとした。彼はアーグルの警告を正しく受け取ったのだ。言葉としては伝わっていなくても、相棒の警告の鳴き声を重く受け止めて、おそらくは今までの信頼の積み重ねもあって、撤退を決断したのだろう。
(初動はこれできっと大丈夫。あとは逃げ切るか、態勢を立て直すかして……)
エリーゼが考えていたときだった。その決定に待ったをかける声があった。
「おい、前線を押し下げるのか!? なぜここで撤退する!?」
「!?」
エリーゼは愕然として声の主を見やった。部外者のニックが、どうしてこの基地の責任者の判断に異を唱えるのか。しかもこんな、切羽詰まった状況で。
こんな勝手な物言い、弁えない行為など、無視すればいい。エリーゼはそう思ったのだが、今しも部下たちに指示を出そうとしていたシグルドはぐっと言葉を詰まらせた。
(何この力関係!?)
人の命がかかっているところで、どうしてこんなことを言わせておくのか。エリーゼを足掛かりに宮殿で立場を得ようとしているような、足元がしっかりしていなさそうな竜騎士ごときの物言いに乱されるのだろうか。
「僭越が過ぎますわ。越権行為なのでは?」
「……ああ、あなたはご存知ないのですね。それはいいとして……そうだな、私との話を前向きに考えてくれるなら私も考えを改めるかもしれないな?」
(何その交換条件!?)
エリーゼはこぶしを震わせた。
そこへ、魔物の吠え声が輪唱のように響いてきた。




