第7話 降り注ぐのはなんだろう
こいちゃんの生活がはじまりました!
第7話 降り注ぐのはなんだろう
「なんだろうあの人……」
私の前髪を切った人。
このお家で暮らし始めて二か月ほど経った。
最近は連日降り続く雨で梅雨の訪れを実感する。
私の前髪を切った彼は私の存在を無いものとしているようで同じ屋根の下で確かに暮らしているはずなのにばったり出くわすということがほとんどない。
ザァっと雨が屋根に降り注ぐ音がした。
朝起きて、布団を畳んで、着替えて、一人で朝食を食べて、掃除や洗濯をして、一人で昼食をすませ、必要であれば買い物に出かけて、ついでに散歩。一人で夕食を食べて、お風呂に入って寝る。トキと暮らしていた頃より規則正しい生活を送れてしまっている。
「……なんだろう」
花宮さんの言うバケモノが私の前髪を切った彼ならば、それらしく暴れている様子は一切ない。
私を食べようとすることもない。何故なら出くわさないから。
「俺の部屋には入らないで、それ以外は入ってもいいから」
廊下の雑巾がけをしていた時に開いた襖から顔を出して、自分の部屋には入るなと言われたのが一度だけだった。
「わ、わかりました」
入るつもりも、近づくつもりもなかっただけにただ驚いた。
「広い部屋だなぁ」
彼の部屋から一番離れていて、一番狭いだろう部屋を自室として使わせてもらっているけれど、トキと住んでいた平屋と同じくらいの広さ。
トキと暮らしている時はもっと広い部屋の方がいいな、なんて思っていた。けれど、広い部屋はそれはそれで寂しさを助長させるだけだった。どんなに広くても落ち着かないので部屋の隅で寝ている日々。
「寂しい」
箸が食器に触れたり、お茶碗を持った時の音がよく聞こえる。
ぽつんと一人で食べる会話の一切ないご飯はとても寂しい。
ぽつんと静かな部屋で一人で寝るのも寂しい。起きてから誰とも話さないのは心細い。自分がこんなにも寂しがりだったとは思わなかった。トキの存在の大きさを身に沁みて感じてしまう。
「トキに会いたい」
加えて連日の雨。
私の心を曇らせ、じめじめさせる。もうすでに心のどこかがカビていてもおかしくない。
あまりにも寂しくて、少しでも紛らわすために傘をさして家の周りを散歩することにした。
足元ばかりを見て歩いていたけれど、ぱたぱたと傘に落ちる雨粒の音を聞いて顔を上げる。
不思議と足取りが軽くなっていった。お家の裏手に周りこんで花宮さんのお家でもある花宮神社を通り過ぎたところで見事な紫陽花畑を見つけた。
路のように連なって咲いている青や紫、赤色に気分も弾む。雨宿りしている蛙やかたつむりも心なし楽しそうに見えた。
「綺麗なあじさい」
雨の中、光を放つ宝石みたいだった。
あじさいは青しか見たことがなかっただけに舞い上がってずんずん先に進んでいった。
夢中になりすぎて、その先に道がないことに気が付かなかった。
「あ」
気づいた時にはずりずり音をたて転がるように滑り落ちてしまい、着物や顔が泥だらけになった。
傘はどこかに飛んでいってしまい、雨が顔や髪に降り注いできた。
「やってしまった」
幸いどこも怪我はしていなさそうだったものの、滑り落ちてしまった場所から紫陽花畑を見上げて自力では戻れないことに絶望した。
どこまで歩いたら戻れるのかな。
雨が降っていて視界も悪く、土地勘のない私には右に歩いても左に歩いても元の道に戻れる自信がなかった。
「誰かいませんか!」
雨音に声が溶けていく。こんな雨の中では当然、歩いている人などいるわけがない。
「花宮さーん。助けてください」
唯一知っている人の名前を言ったところで彼に聞こえるはずもない。
雨の山道は気を付けて歩いていてもすぐによろけて転んでしまう。
「いたいな……」
もう歩かない方がいいと思い木陰に座り込んだ。
そういえば、私の前髪を切った彼はなんて名前なんだろうか。
「私がいなくなったところで、関係ないか……」
蛙の鳴き声、雨の音、濡れた髪、濡れた足先から体が冷えてくる。
くしゅん、くしゃみをして肩を抱き震えた時だった。
「何してるの」
声をかけられて顔をあげたが、髪から滴る雫が目に入ってよく見えなかった。
声の雰囲気が花宮さんに似ている気がした。
「花宮さん?」
慌てて目を手でこすって顔を上げるとそこには傘をさして見下ろしていたのは私の前髪を切った彼だった。驚きのあまりわっと声を上げてしまう。
「それで、何してるの?」
「……滑り落ちちゃって」
あそこからと指さすと彼は私の指さした方向を見上げ、目を細めていた。
「怪我は?」
「怪我はないです」
「そう。帰るなら……いや、違うか」
彼は帰る方向を指さしてすぐ手を引っ込めてしまった。
「?」
「逃げ出そうとしてたのなら」
「逃げ出す?」
慌てて立ち上がってドロドロの手を振った。
「違います、違います。あじさいを眺めていたら夢中になって落ちただけで」
「紫陽花? あぁ、あのあたり」
「見たことありますか? とっても綺麗でした」
今の私はなぜか饒舌だった。相手は名前も知らない、ほとんど話したこともない前髪を切られただけなのに話をしたくてたまらなかった。
「俺はないな」
「今度は落ちないようにしますから、一緒に見に行きませんか?」
「俺はいいよ」
身体を翻し、歩き出した彼を急いで追いかけると足がもつれてまた転んだ。
「何してるの……」
呆れられた声がした。
再度差し出された手を取ろうとしたのに手を伸ばせなかったのはあまりにも自分の手が泥にまみれていたからだった。
「触りたくないよな」
彼はぼそりと呟いてゆるく手を握って引っ込めようとしてしまう。
「そうですよね……ドロドロの手で触ってほしくないですよね」
私も自分の手を見ながらぼそりと言った。
「そういうことじゃないけど」
彼は私の腕を引っ張り上げ、立ち上がらせてくれた。
そして、私を傘の中に入れてくれたのだけれど、着物のいたるところが泥まみれになっているのを見て、なんだかとても申し訳なくなりそろそろと傘から離れた。
「着物に泥、ついちゃうので大丈夫です」
「別に気にならない」
彼は私の方に傘を傾けてくれた。
なんだろう、この人。
傾けられた傘にじんわり足先から暖かくなっていく。
「あ、あの……名前、聞いてもいいですか?」
「……バケモノでいい」
「私が嫌です……」
私もバケモノって呼ばれたことあるけれど、それはあまりにも寂しい気持ちになってしまう。
「どうして?」
「バケモノは本当の名前じゃないから」
「みんながバケモノっていうならそれが名前じゃないか?」
勢いよく横を向いて灰色の髪を見上げた。
意地になったのは紛れもなく、自分に言われているように思えたからだった。
「……本当の名前がバケモノならそれはそれでいいですけど……本当の名前があるなら、呼ばれないのは、寂しいなって……思います」
灰色の髪が揺れた。生意気な物言いを怒られるだろうかとばっと顔下げると音が三つ聞こえた。
「千歳」
「ちとせ、さん?」
「そう」
彼の名前、らしい。
「助けてくれてありがとうございます」
「どういたしまして」
ドロドロで家に戻ってきて、さっそくお風呂に入った。
ぽかぽかした身体のまま台所へ向かうと千歳さんが立っていた。
台所でばったり会うのは初めてだ。
「千歳さん、何をなさっているんですか?」
「夕飯」
「夕飯?」
彼の手元を覗くと野菜をぐつぐつ沸騰している鍋に放り込んで茹でているだけだった。
「茹でた野菜がお好きとか……」
「いや、その日に目に入ったものを茹でたり焼いたりするだけ」
「味つけは」
「特にない、味はわからない」
「お米は」
「炊けるけど」
けど、炊かないのかな。
「いつも茹でるか焼くかですか?」
否定も肯定もなく、あくまで自分のご飯はこれでいいと言い張る千歳さんを強引に台所から追い出した。
お米を炊いて、みそ汁を作って魚を焼いた。付け合わせに茹でていた野菜を使わせてもらい、胡麻和えを作って食卓に並べた。
「千歳さん、一緒にご飯たべませんか?」
自室に戻っていた千歳さんを呼ぶとすっと顔を出してくれた。
特に返事はなかったが、食卓に来てくれた。
「いただきます」
彼はゆっくり手を合わせて、箸を持った。
出過ぎた真似をしてしまったかもしれないと彼が料理に口をつけてくれるのをびくびく待った。トキ以外に料理を作るのは生まれて初めての事だった。
「味、濃いですか……」
「ちょうどいい」
細身の割によく食べる人だった。
姿勢がよくて、箸の持ち方模範的。魚も綺麗に食べる人。
なんだろう、この人。
「ご迷惑じゃなかったら、これからのご飯……一緒に食べてもらえませんか? 準備とかは私がやりますので」
「俺に構わないでいい」
そうですかと引き下がればいいものを、饒舌な今日の私は食い下がり、ぺらぺらと話続けてしまう。
「気を遣うというよりは……一人でご飯を食べるのが寂しくて、ごご、迷惑じゃなかったらの話で」
「寂しさを俺で紛らわせるの?」
「そう、聞こえますよね」
「変わってるな」
いい案だと思ったのに。
「……呼んでくれたら考える」
千歳さんはお茶を飲み立ち上がった。
「いいんですか!? 好きな食べ物とか嫌いな食べ物とか教えてくだ」
「ない」
彼は振り返ることなく自室に戻って行ってしまった。
明日から一人でご飯を食べなくていいんだとうきうき食器を片づけ、水洗いをはじめて手先が冷えると頭も冷静になった。
「あれ、結局、バケモノってなんだろう」
少なくとも千歳さんは何かをどうこうしようっていう悪いバケモノには思えなかった。
「災いを招くようには見え……ない」
花宮さんの言った、あと半年で殺されるようなバケモノにはどうにも見えなかった。
ポツポツ降り注ぐのは、素直な何だろう。
その感情に名前はまだありません。