第3話 私なんていなければよかった
それはある日突然の出来事。
第3話 私なんていなければよかった
ある日、朝食終わりに旭を胸に抱いて窓の外を眺めているとお父様とお母様とお姉様を見かけた。
「ねぇ、トキ。今日は3人でお出かけするの?」
「今日はお嬢様のお姉様、英恵様の入学式ですから、これから学校へ向かわれるのです」
「入学式ってなあに」
「学校へ入る大事な日です」
「学校……こいも行きたい!」
「お嬢様はまだ先ですよ」
「そうなの?」
学校って楽しい? とトキに何度も何度も繰り返し聞くたびにいいなぁと呟いた。
トキが部屋から出て行って一人になると旭に声をかけた。
「旭、旭、学校行ったことある?」
「あるよ」
「楽しかった?」
「うーん、どうかな。楽しいと思ったことはなかったけど……行ってよかったとは思うよ」
「よかった?」
「大切な友達が出来たよ」
「旭の友達! どんな人、名前は?」
「名前は、縁)」
「よすが? 不思議な名前」
「綺麗な奴なんだ」
「綺麗なんだ」
「そう、なにもかも綺麗。あぁ、あれに……窓の近くのものに似てるよ」
旭の言葉を目で追いかけた先にあったのはお父様からの贈り物だった。
ガラスで作られた翼の生えた馬の置物で日中は日の光に反射して輝き、夜には星空を吸いこんだような色になる。
「いいないいな。こいともおともだちになってくれるかなぁ」
綺麗な人……いつか会ってみたいな。
「きっと縁も喜ぶよ」
「楽しみだねえ」
「いつか紹介するよ」
「いつかって、明日?」
「明日ではないけど、結構すぐだったりして?」
「ふーん」
旭との会話が自然と終わり、静かになると3人が仲良さそうに外出する姿を思い出してしまった。
込み上げてきてしまった寂しさを紛らわすように旭を抱きしめた。
「なになに、甘えんぼ?」
「……うん」
今日は窓から綺麗な着物をお召しになったお姉様が見えた。
「どこに行くのかな……」
しゃんとした佇まいに歩き方まで美しいお姉様がお屋敷を出ていくのをじっと見送った。
一度も話したこともなければ、こちらの視線に気づいてもらったこともない。どんな声なのかな。どんな笑顔なのかな。物知りなのかな。優しいのかな。日の光を吸収して輝く艶のある黒髪がとても綺麗だなぁ。
「きっといい子なんだろうなぁ」
以前、お父様に頭を撫でてもらっていたから、きっといい子に違いない。
いいなぁ、こいともお話してほしいなぁ。
「旭は兄弟いる?」
「んー? いないんじゃないかな」
「いたら毎日楽しいのかなぁ?」
「寂しいの?」
「んー」
「俺じゃ不満?」
「そんなこといってない!」
「それで? 今日は何をするんだっけ?」
「今日はねぇ、おりがみ! 旭は何色が好き?」
折り紙を道具箱から取り出して金色と銀色の折り紙を手に遊んでいると旭が突然、私の名前を呼んだ。
「こい!」
「なにー?」
「今すぐに折り紙置いて、俺を抱えて机の下に入って!」
「?」
「早く!」
大きな声で急かされ、旭を抱えて慌てて机の下に入った。
「何もないよ?」
「しっ、このまま……舌を噛むから喋らないで。こら、机から足と手は出さないで、丸くなって」
叱るような口調だった。
言われるままに丸くなり旭の毛並みに顔を埋めた。
するとトキが用意してくれていたお茶の入ったカップとポットがちりちりと音を立てはじめた。
突然、巨人が飛び跳ねたのような衝撃が身体を一瞬浮かせた。
巨人が怒っている、地を這う声がした。
「あさひ……」
さらに巨人が足踏みをするように床を左右に揺らした。
右に左に揺さぶられ、ぐらぐらする身体をふんばろうと力いっぱい旭を抱きしめた。
「あさ、あさ」
「落ち着いて」
不安と恐怖は止めどない涙に変わった。
それでも巨人の足踏みは止まらず、揺れ続けている。
部屋の本棚が倒れ、床には落ちて割れてしまった器やガラス細工の破片が散らばっている。音を立ててお父様からもらったものが次々に壊れていくのを見るのはとても辛かった。
「あ……あ」
「大丈夫」
「こわいよ」
「だい、じょう、ぶ」
突然、旭の声が途切れがちになった。
「あさひ?」
次第に揺れが落ち着いてきた頃、部屋の扉が大きな音を立てて開いた。
扉から顔を出したのはお父様だった。
「こい! 怪我はしてないか、どこか痛いところはないか?」
お父様は見たことのないくらい大慌てで私に駆け寄って怪我の確認をするとよかったと眉をさげてぎゅうと音が鳴ってもおかしくない力で私を抱きしめた。
お父様は眼鏡をしていなかった。
「早く出よう」
旭を抱える私を抱き上げてお父様は部屋を出た。
お父様が歩くたび、足元でぱきぱきとガラスの破片を踏みしめる音がした。
部屋の外は私の部屋よりひどかった。花瓶の花は床に散らばり、壺が割れ、絵画は落ち、額が割れ、天井が崩れているところもあった。
お父様の首にしがみつき、階段を降りきると外への扉が見えた。その奥にはトキの姿も見え、安心して体の力が抜けた。
「……こい、もうすぐだ」
お父様が私の背中を優しく叩いた時、また巨人が飛び跳ねた。
今日一番の衝撃だった。
揺れるというより、下から突き上げられ、すぐに左右に揺れた。
目の前で天井が崩れた。ガラガラと音をたて、私とお父様の頭上も崩れた。
何が起こったのかわからない。
「こい……こい!」
お父様の声がして目を覚ますと私の顔の真横にお父様の顔があって、添い寝のようだった。
胸の中に旭もしっかりいることを確認した。
「怪我はないか?」
「うん」
「よかった、お前になにかあったら……」
こんなにお父様の顔を近くで見たのは初めてかもしれない。
今日のお父様はとても穏やかで眉間に皺なんて一つもない柔らかい表情をしていた。
「悪かった」
お父様の大きな手が私の頭を撫でてくれる。
「なにも悪くないよ? こいね、お父様に頭撫でてもらいたかったから、嬉しい」
お父様の眉間の皺が深くなった。鼻から息を抜く姿は痛みに耐えているようでいつもの不機嫌そうな表情ではなかった。
ふと、足先が濡れたような感覚がして足先を見ると真っ赤な色が私の足を染めていた。お父様の下半身が瓦礫の下敷きになっているのが見えた気がした。
「あ、お、おとうさま」
お父様は息を荒くする私の頭を引き寄せて大きく硬い掌で目を覆ってくれる。真っ暗になった視界のなかでお父様だけの声がよく聞こえるようになった。
「ほかには、なにを、してほしかった?」
「お、おとうさ」
「ほかに、は……?」
「え、えほんをよんでもらいたかった」
「絵、本か」
「おでかけしたり」
「あぁ」
「あとはね、笑ってほしかった」
「こんなことになるなら、全部してあげるべきだった」
お父様は私の目隠しをやめ、大きな手で頬を包んだ。
「お礼を言うのが遅くなってしまったな……誕生日に花束をありがとう。こいの幸せを願っている」
それはもう見たことのないほどの笑顔で、私が見たくて仕方のなかったお父様の表情だった。
目が覚めたのは誰かの泣き叫ぶ声が聞こえたからだった。
「英作さん、英作さん――」
私から少し離れたところでお父様が眠っていて、傍らに縋りついて泣いているのは遠くから見たことがあったお母様。
「お嬢様、どこかお怪我は、痛いところは」
トキに抱き起された時、お父様の近くにいるお姉様が目に入った。
「お、おねえさま」
近くにいる、初めてお話ができると思った。
お父様が起きたら今度は4人でどこかへお出かけが出来るかもしれない。
私はトキの腕からするりと抜け出してとととっと駆け寄った。
「おねえさま!」
私の声に顔を上げたお姉様は私の頬を引っぱたいた。
乾いた音がして、じわじわと痛みが遅れてやってきた。
頬が熱い。
「え」
「気安く呼ばないでよ」
「おね」
叩かれた頬がじんじん痛み出して手で頬を触った。
「気持ち悪い、このバケモノ!」
水をかけられたような気分だった。
「あんたを庇ってお父様は亡くなったの!」
なくなった、音の響きがとても悲しい。
「返してよ、あんたなんていなければ、お父様は亡くならなかったのに」
お姉様はこんな顔でこんな声だったんだと思った。
想像より掠れていて、想像より低い声だった。
「一生、許さないから」
私の頭をお姉様は何度か思いっきり叩いた。
脳が揺れて視界がブレたのに、お姉様が振り上げた手にお父様がいつもかけている丸い眼鏡が握られているのは鮮明に見えた。
「英恵お嬢様!」
トキが身体を割り込ませ止めに入ったが、お姉様の口は止まらなかった。
「あんたのせい! このバケモノ! 大っ嫌い、あんたなんかいなければよかったのに」
お姉様の表情が、感情が、物語る。
バケモノとは消えてほしいくらい忌み嫌われる存在のことだったのだ。私が額を怪我した時に言われた言葉はそういう意味だったのだ。
「こいのせいで……」
「そうよ!」
こいが全部悪い。こいがバケモノだから。いい子じゃ、ないから。
「ずっと私の隣にいたんだから! あんたがまだ部屋にいるってわかったから中に入って行ったんじゃない! このバケモノ消えてよ。気持ち悪いのよ、その赤色!」
お姉様の視線はとても鋭く、冷たさを通り越し痛みさえ感じた。
「ぁァ」
お姉様からの視線を避けてもトキ以外が向けてくる視線は男の人も女の人もみんな同じだった。
見ればみんなどこか怪我をしていて、真っ赤な血が流れていた。
「はぁ……はぁ」
目の前が途端に色褪せていって、呼吸がうまくできない。心を取られたようだった。
視界の色を取り戻したのはそれから二週間ほど経った頃だった。
トキに連れられてやってきたのは帝都から随分離れた山奥の村にある平屋だった。
私の部屋と同じくらいの広さだった。
「お嬢様、よぉくお聞きくださいね」
トキが私に絵本を読み聞かせるように状況を語り始めた。
「旦那様が亡くなり、奥様と英恵様は奥様のご実家へ……今日からトキと二人で、ここで暮らします。今までのような暮らしは……できません。しかしながら、やることも、しなければならないこともたくさんあるので退屈はしないでしょう」
明るく語るトキに対し、私はお姉様に言われた言葉がぐるぐる頭の中で回っていた。
「こいのせいで……お父様、こいが悪い子だから、ごめんなさい、ごめんなさい」
お父様の声も掌の感触もまだ覚えているのに、その全てを私のせいで失くしてしまった事実に今にも心が割れそうだった。いや、もうすでに割れていたのかもしれない。
「こいが、バケモノだから……こいがいなかったらよかった」
私の口を止めるようにトキが頬を両手で包んだ。
「トキがいます」
「トキがいる、の?」
「えぇ、トキがいます! 残念ながら亡くなってしまった人や物はもう元には戻りません。生かされてしまったのであれば、生きるしかないでしょう。途中で放り投げることは許されません」
「ゆるされない、の?」
「はい。前に進む以外には何もありません。ですが……お嬢様にはトキがいます。こんなにも心強いことはないでしょう?」
頬から離れた手を追いかけるとトキは腕を大きく広げてくれた。
「明日からトキは鬼になります。お嬢様が自分をバケモノと言うのなら、その指導者は鬼で充分でしょう」
吸い込まれるようにして胸の中に納まり、抱えきれない気持ちを涙にかえた。
文字通り涙が枯れるまで泣いた。
「あ……」
眠る前に部屋の隅に置かれた旭が目に入った。
途端、ふつふつと湧き上がる名もなき感情を制御できなくなった。
「旭、どうしてお父様のこと助けてくれなかったの?」
何度話しかけても返答はない。
「無視しないで! どうして助けてくれなかったの! 旭! 嫌い嫌い、旭なんて大嫌い」
叩いても引っ張っても旭は何も言ってくれなかった。
いつからか旭は喋らなくなってしまい、見ているのも辛くなった。
その結果、箱にしまって押し入れの奥に閉じ込めた。
こいちゃんにとっても、物語にとっても重要な回でした。