第31話 糸しいと言いあう心
こいが千歳を迎えにいったその先で
第31話 糸しいと言いあう心
べしゃっと全てが溶け落ちた気がして目を覚ました。
見慣れた庭にもう住み慣れた千歳さんと一緒に暮らしているお家の前だった。
あたりをきょろきょろ見渡し、家の中に入って自然と足が向かったのは彼の部屋だった。
「……迎えに行かなきゃ」
見知った廊下を歩いているのに目指している部屋にはいっこうにたどり着かなかった。
開けても開けても襖の向こうには襖があって、千歳さんの部屋も彼の姿もない。
さらに開き続けると重く、開かない襖にあたった。
両手と体を使って無理やりこじ開けた先は一面、白い何かが溢れて海になっていた。
開けた反動で体全体にうねる白い海が押し寄せてきた。
口に入ったものを手で取ると白い海の正体に気づいた。
「桜の花びら?」
その中には埋もれるようにして眠っている千歳さんがいた。
「あ、見つけた」
花びらはかき分けても、かき分けてもどこからか溢れてくる。
手と体を割り込ませてじりじりと強引に近づき、ようやく声が届くくらいの距離になった。
「千歳さん」
私の声に反応しない彼がだんだんと桜の海に沈んでいく。
「待って、まって、まって!」
急いで白い花びらの海をかき分けてついに手の届く距離に辿り着いた。
桜の海から微かに出ている彼の手を必死で掴んだ。
彼は気づいたのか、偶然か薄く目を開いただけだった。
「間に合った?」
安堵する私の目の前で小さく譫言のように呟かれている言葉を拾い上げる。
「楽、になりたい……楽に、してくれ」
「え?」
「もう、たくさんだ」
「千歳さん!」
私が出せる一番大きい声を出した。
大きく息を吸うと花びらが喉に張り付きむせてしまう。それでも、私がここにいることを気づいてほしい。強く握った千歳さんの手が微力でも握り返された気がした。私よりも大きい手が握り返してくれるだけで高鳴る程、こんなに愛しいなんて思わなかった。気づいてすらなかった。もう一度呼んだら、私の声は届いてくれるのだろうか。
先程よりも大きな声で呼ぼうとしたところで、再びがくんと彼の身体が桜の海に沈もうとしていて、体が先に動いた。大胆に身体全体で桜の海に飛び込み、彼を抱きしめた。
「お願い、行かないで」
喉に花びらが張り付いてこれ以上声が出せない。むせながら力強く抱きしめた。ゆるく背中に手が回った気がした。
その手が今1回、2回と背中をとんとんと叩いてくれた。
「迎えに来てくれて……ありがとう」
彼の声を起点として桜の海が徐々になくなっていく。
彼の髪に残る花びらを取った瞬間、ふっとあたりが真っ暗になった。
「あれ」
再び周りが見えるようになった時、懐かしさで心が震えたのは私が幼少を過ごした大好きな部屋の中だったからだった。
お気に入りの真っ白なワンピースや真っ赤な靴が置いてある。
旭とたくさん描いた絵と折り紙、お父様からもらったぬいぐるみの数々に玩具。
「あ……ぁ」
それらを全て抱きしめて浸っているとどこからか話し声が聞こえた。
「声?」
声の出所を探し出すと、縁さんに引きちぎられたはずの首飾りがたくさんのものに埋もれていた。
慌てて首飾りを手に取って耳に押し当てると活舌のいい女性の声がした。
『あ、動いた。ねぇ隼太郎。この子、いつも踊ってるみたいに動くの』
『踊ってるって? 元気がないより元気な方がいいからなぁ。俺も踊ろうかな』
『あんたは踊らなくていい』
『踊りに夢中で忘れるところだった』
『なあに、何か思い付いたの?』
『信乃、名前! 決めたんだ』
『名前って、この子が産まれるのはまだまだ先の話なのよ?』
『俺と信乃の最高傑作になるんだ。先に名前は決めておいた方がいいと思ったんだ』
『それにしても早くない?』
『だって、名前っていう器があったほうがいいに決まってるだろ?』
隼太郎と信乃って……お父さんとお母さん!?
『まあ、名は体を表すなんていうし……ひとまず、あなたの考えを聞きましょう。どうぞ』
お父さんは咳払いをして、ためにためて言った。
『戀!』
『どういう字?』
筆を滑らす音がして、字を書いているのだとわかった。
『なんだか画数多いし、難しい字ね。この子に書ける?』
『じゃあ、こっちにしよう、こい。難しいのは、なし!』
『たしかに、これくらいなら書けるわ』
『字の成り立ちを聞いて飛び上がったんだ』
『どんな成り立ち?』
『糸しいと言いあう心と書いて、こい。愛をあげたり、もらったり、優しい心で誰も彼も救える子になってほしい。きっとこいなら誰でも救えると俺は思うんだ』
『隼太郎にしては素敵なこと言ってる』
『お、もっと褒めて』
『調子に乗らないの。でも、そうね。こい、素敵な子になるんだよー』
『なれるよ。俺と信乃の子だからね。待ってるぞー』
『早く会いたいね』
遠ざかる声の余韻に浸っていたくて首飾りを耳から離すことができない。
もう少しだけ、父と母の声を聞いていたい。
自然と流れた涙がとても熱かった。
じわじわ胸の奥からにじみ出てくる温かさを抱きしめ、噛みしめていた。
「こい」
名前を呼ばれてはっと目を開けると音羽先生が私を抱えていた。その後ろには丁寧に寝かされた千歳さんが横たわっている。彼の胸が呼吸によってわずかに上下したのが見えた。
よかった。
「遅くなってすまない。私が、最初から間違っていたんだ」
音羽先生の声がぼんやりと聞こえた。
音羽先生の話を遮ったのは縁さんの呻き声がだった。
「あぁあ、あ」
縁さんの傍らには右腕が崩れ始めている旭がいた。
とっさに起き上がった私を縁さんが睨んだ。
「お前なんかが、お前のせいで」
「縁、違う、人の子は悪くない」
荒ぶる縁さんを旭が冷静になだめようと言葉を重ねていた。しかし、旭の言葉に反して縁さんはどんどん黒々とした何かを纏っていった。縁さんの綺麗に三つ編みされていた髪はいつの間にか生き物のように広がりうねりだしたのだった。
「違わない! お前は人の子に騙されたんだ。お前が人の子なんかに情けをかけなければ、人の子の器であっても腐る事なんてなかった。もう人の子なんていなくていい、守りも導きも結びもしない。誰も彼もいなくなればいい」
縁さんの怒りを一度鎮めるように、旭が大きな声で呼んだ。
「縁! 聞けよ! 俺が、願ったんだよ。人の子に神の器を作ってくれって」
「どうして、旭が神の器を欲しがるんだよ」
縁さんの声が徐々に震えはじめた。
「……お前が! ナマズだからだよ」
旭の言葉に縁さんは瞳を揺らし、旭を睨んだ。
「言うな! その名で、私を呼ぶな! 私は縁だ、いやナマズ、いや、そもそもいなければ、つくられなければよかった、よかったのに!」
縁さんの周りに漂っていた黒いものがさらに濃くなった。
次第に繭のように黒いものが縁さんを包み、それは徐々に膨らんでいった。黒いものは旭を弾き、転がした。
次第に地面を揺らし始め、徐々に揺れが大きくなっていくのが分かった。
私を背に隠すように音羽先生が立ち上がり、両手を握るようにした。
初の宮の破棄の間でみた動作と同じだった。それはナマズを消し去る動作である。
縁さんは旭のために器を探して、旭は縁さんのために研究をしていたことを理解した私の頭はいつになく冷静だった。たくさん泣いたからだろうか。
「音羽先生! まって!」
音羽先生の腕を掴むと、困惑した顔で私に振りかえった。
「離してくれ」
「私!」
うまくいかないかもしれない。神の器なんて烏滸がましい。徐々に崩れていく旭を見てまだ間に合うかもしれないと心のどこかで誰かが呟いた気がした。音羽先生の制止を振り切って旭に駆け寄った。
「旭、私の身体使って縁さんを止めにいこう」
「でも、人の子の身体には弾かれて」
「私ね、草薙隼太郎と信乃の最高傑作らしいから大丈夫だと思う!」
確信はないけれど、両親はそういう願いを私に込めている。
誰も彼も救えるような人になってほしい。
もしだめなら、遠いどこかにいるお父さんとお母さんに会えた時、嫌味の一つくらい言うだけだ。
「ありがとう」
ドクン、心臓から聞いたことのない大きな音がした。
私の中に何かが入ってくる感覚が確かにあって、身体が勝手に動き出した。
当の私は自分を真上から見ているような気分になった。
私の身体は縁さんの周りの黒い繭のようなものを力任せに引きちぎっていく。
『中に入れそう?』
「こうでもしないと、いれてくれないよ」
中は揺れていないみたい。
さらに繭の糸を引きちぎって少しずつ核に近づいていくと縁さんの声もよく聞こえるようになってきた。
繭の中で小さく膝を抱える縁さんがこちらをじっとりと見てきた。
「出ていけ」
そう言われても私の身体の旭は躊躇することなく進んだ。
「これが最後になるかもしれないから、ちゃんと聞いて」
「人の子と話はしない」
「俺は旭だよ。縁は器が違ったら俺じゃなくなるって思ってるの?」
「どんな形になっても君は君だ」
「だよね。だから、お前は俺の器を探してくれたんだよな」
旭は縁さんの対面に座って爪先を合わせるようにして話を始めた。
それぞれの因縁がぎゅぎゅっと大渋滞。神も人もがんじがらめ。