第18話 とめどなく(後編)
千歳の心に触れる回です。
第18話 とめどなく(後編)
その日の夜、もともと静かではあったこのお家がさらに静かだった。
ぽつんと一人で食べるご飯がとても寂しく、味気なく感じてしまったのはとても久しい感情だった。
このお家に来てすぐの事を思い出してはため息がこぼれる。
「そういえば、あの時も寂しかったな」
波のように押し寄せてくる寂しさ。
それは私が千歳さんとご飯を食べる時間をどれだけ楽しみにしていたかを思い知らせてくる。
お茶碗を持ち上げて降ろした時の音、みそ汁をすすった音がやけに耳に響いてしまう。
いつも彼が座っている場所をぼんやり眺めていると今朝の事を思い出した。
「なんてことを……」
言ってしまったんだろう。それに頬まで叩いてしまった。
叩いてしまった手を少しだけ開いて、閉じて、箸を握りしめる。
「きっと痛かったよね」
何も知らなかったとはいえ、口から飛び出してしまった言葉はよくよく思い返すと私の中で長く長く刺さって抜けないままになっている棘と全く同じものだった。
あなたなんていなければ。
あの日のお姉様も今日の私と同じ気持ちだったのかもしれない。
きっと、どろりと重たくねっとりした感情を持て余したのだ。
「私、最低だ」
今日の晩御飯は何を食べてもまったく味がしなかった。
翌朝、夜通し起きていたと言っても過言ではない身体を無理やり起こした。
「よしっ!」
気合を入れるために空元気でもなんでも呟いてみる。
一瞬でも考える時間が出来てしまうと身動きが取れなくなるような気がしていた。
そのため、起き上がり、間を置かず布団を畳んで着替えをした。
着替えながら行動の順序をぶつぶつ独り言ちる。
「まず、朝食を作る。私から千歳さんに声をかけにいく。起きていたら昨日の言葉と叩いてしまったことをちゃんと謝る。ちゃんと、しっかり、謝らないと……謝らないと」
うん、やろう!と頬を叩いた。
何も知らなかったとはいえ、言っていいことと悪いことはある。言うべきじゃなかった、私が言われて傷ついた言葉であるならなおさらだ。
拳を握っていつもより大股で部屋を出て廊下を歩いた。ボタボタと足音が大きく自分にも聞こえた。
千歳さんの部屋の前を通り過ぎる。
「あとで声をかけますね!」
さらに胸を叩いて自分を鼓舞した時だった。
前から千歳さんが歩いてきた。
首に手ぬぐいがかかっていてしっとりと髪の毛が濡れていた。お風呂上がりのようだった。
予期せぬ登場に対応できず、身を強張らせただけだった。
先程までの勢いはどこへ行ったのかわからない。
文字通り、ギクシャクしている。
「あ、えっと」
おはようございますって言えばよかったと思った時には彼の方から分かりやすくスッと視線を外された。
「あ……」
彼には私の心が透けて見えているようだった。
ポタポタ。
水を含んで重たくなった灰色の髪の毛先から水滴が垂れている。
私の横を通り過ぎようとしているのを目で追いかけた時、伏せられている瞳から流れているようにも見えた。
私は強張っていた身体を無理やり動かして、千歳さんの肩から手ぬぐいを抜き取った。
動きを止めた彼の頭に被せた。
背伸びをして力任せにがしがし拭いた。
「しっかり拭いてください!」
「え」
驚いている彼の瞳と目が合った。
ところどころ黒が残っている灰色の意味を私はもう知っている。
「いきなり、ごめんなさい!それと、昨日言いすぎました。ごめんなさい、あと頬、痛くはないですか?」
勢いに任せ謝った。
矢継ぎ早に言葉を紡いだのは彼の言葉が挟まると途端に何も言えなくなってしまうような気がしたからだ。
言いたいことを伝え終わり、手をぱっと離すと手ぬぐいそのままに千歳さんは呟いた。
「昨日?」
彼は何も思い当たることがないような声色だった。
私が早口すぎたせいでもしかして何も伝わらなかったのかもしれないと、慌てて言い直した。
「……あなたなんていなければよかった、なんて酷いことを言ってごめんなさい」
どんな言葉であろうと返された言葉は受け止めようときゅっと着物を握って目を閉じた。しかし、返ってきた言葉の中には恨み言の一つもなかった。
「言われて当然なことをしたわけだから、こいが謝ることは一つもないよ」
「花宮さんから聞きました。……言われて当然ではないです。千歳さん自身、何かをしたわけでは」
ないじゃないですかと言い切ることができなかったのは見上げた彼の瞳の奥がたしかに揺れていたからだった。
「俺がいなければ、弟は俺の身体にバケモノを入れなかった。縁から何も受け取らなかった。俺がいなければ、両親が俺の体調で一喜一憂することはなかった。俺がいなければ、こいがここに連れてこられる必要もなくて、地震で父親を亡くすこともなかった」
彼は淡々と、自分がいなければいい理由を並べ始めた。
「理由はたくさんあるから、言われて当然なんだよ」
その姿がいつしかの自分と重なり、自然とトキの言葉を思い出した。
『トキがいます』
私がお父様を亡くして自暴自棄になった時にかけてくれた言葉にどれだけ救われたか。
私もどうにか彼の力になれないだろうか。震える唇を噛みしめ考えた。
千歳さんは頭から手ぬぐいを取り、くしゅっとそれを握りこんだ。身体を傾け、私の横をするりと通り過ぎようとした。
「千歳さんを一人にはしません!」
彼の進む通路を身体で塞いで、通せんぼするように仁王立ちをした。
手持無沙汰の両手で逃げられないように力いっぱい千歳さんの手首をつかんだ。
「千歳さんには昨日酷いことを言いましたけど、考えてみると私も同じなんです。私がいなければ、お父様は亡くならなかったんです。私を助けになんて来たからいけなかった。私がいなければトキは倒れるまで無理しなかったんです。すぐに病院に行って身体を治しに行けたはずで、お姉様も私にあんなに怒ることもなかったし、お父様を失うこともなく今もあのお屋敷で幸せに暮らせていたかもしれないんです!」
「こいとは違う」
「違わないんです!私も、千歳さんも、誰かの犠牲で成り立ってしまっているから……生き残ってしまっているから、生きなきゃいけないんです。昨日酷いことを言った後で説得力はありませんが、いなければよかったと生きるのを諦めないでください」
「それでも、俺は」
「私がいます!」
「ちが」
「私がいますよ!」
千歳さんの喉が鳴った。
ポタ。
まだ彼の髪の毛が濡れているのかと思った。
見上げると彼の頬には涙が伝っていた。
「一緒に悩みますから、千歳さんの事、身体の中のことも全部教えてください」
千歳さんは私の言葉を聞いてすぐ、私の手を振り払った。
大きく避けて部屋の中に入ってしまった。
取り残された私は余計なことをたくさん言いすぎてしまったとがっくり肩を落としていると、襖から千歳さんが顔を出してじっとこちらを見ていた。
「こい、おいで」
ひらひらと手招きされ、首を傾げながら千歳さんの部屋に足を踏み入れた。
とめどなく溢れる感情はいったいどこからやってくるんだろうって感じでしたね。
次回は千歳の心の中に棲むモノがあたえる影響回